前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

終戦70年・日本敗戦史(98)『大東亜戦争とメディアー<新聞は戦争を美化せよ>現在は<新聞は政権を美化せよ>⑥

      2015/06/27

 

   終戦70年・日本敗戦史(98

『大東亜戦争とメディアー<新聞は戦争を美化せよ>

平時は<新聞は政権を美化せよ>の政府のメディア

コントロールを排す

『速報主義のワナにはまらず、 徹底した検証報道で本質に迫れ』⑥

 

<対談>戦争とジャーナリズムについてー前坂氏に聞く

 図書新聞(2001/05/05

前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)/

聞き手 米田 綱路(図書新聞編集長)

ーーただ、満州事変の場合でも、実際に現地を取材した記者のなかには、これは関東軍のやった謀略であるという情報もつかんでいた人たちもいたわけですね。しかし、そのことを再検証していくという過程がシャットアウトされて、全て戦況報道に引きずられていく。それは、昔も今も同じジャーナリズムの変わらぬ姿ですね。

だから、気がついてみると、軍部と同じく、即容認して既成事実を積み上げていって、政府も尻拭いできない状態でどんどん先へ行ってしまうという事態になる。

結局、ジャーナリズムが報道することによって、戦争がどんどん既成事実化されていくわけですね。自らの報道で自分の首をしめていく自縛に陥ってしまう

。そこで、真実がどうだったのかという検証が全然なされていなくて、戦争責任の問題を考える場合でも、ジャーナリズム自体が戦争中の報道はどうだったのかという検証をするという作業もまったくやっていないわけです。

そういうなかで、山中さんの本によって、いままで秘密にされていた、戦時報道がどうであったのかということが史料的に明らかにされたわけですね。速報性と、事実の究明にはタイムラグ、時間がかかるという矛盾をどう解決するのか。

 

これはジャーナリズムの持つ宿命でもありますが、速報によってどんどん報道されたものをもう一度フィードバックして、再検証していくということがまったくなされていない。

その結果、ジャーナリズムは真実を覆い隠して事実は死んでいく。

ジャーナリズムが自らを殺していくということになったわけですね。そういうことでいえば、ジャーナリズムの持つ宿命というか、検証しながら報道するというジャーナリストが、戦争中もいなかったということですね。

「書けなかったのではなく、書かなかった」のですが、それが、軍部の圧力で書けなかったという弁明のもとに、自らも言論統制下の被害者ずらして戦争責任を回避するという立場を、ジャーナリズムは一貫して取ってきたわけです。

そうした、書けなかったのではなく書かなかったという戦争中の自己規制は、昭和天皇が「逝去」する前段階での、本当は脳死している状態が続いていたわけですけれども、刻々と病状を報道したジャーナリズムの雰囲気でも体験されたことです。

つまり、全体的な雰囲気のもとで言論が自己萎橋、自己規制して沈黙し、黙認して流されてしまう。戦争の場合も、ズルズルと日中戦争のドロ沼に入り、勝ち目のない戦争で大変なことになるといった危機感、問題意識があっても、政府と特に軍関係者は、ヒトラーがヨーロッパで破竹の勢いで進撃している段階で、そのバスに乗り遅れるなとばかり三国同盟の方向に走っていくわけですね。

そして、日中戦争を続けながら、なおかつ日米戦争を始めるという非常識な事態に、自暴自棄、思考停止に陥って無謀にも飛び込んでいくわけです。新聞記者のなかでも、ヨーロッパやアメリカで実際に特派員として取材して、国力の差からいってとても戦争にならないということを知っていた者も、戦争熱の充満した雰囲気のなかで、いっしょに巻き込まれ、流されていく。

自分の内部では批判を持ちながらも、大勢に押し流されていくというのが大半だったわけですね。それとともに、情報局そのものにも新聞社のトップの人々が入っていますし、まさに緒方竹虎などは一九四四(昭和一九)年に内閣情報局総裁になっています。

つまり、戦争になったら新聞が協力するのは当たり前で、いざ太平洋戦争になったら、新聞人も言論報国するのは当たり前だというのは、当時の新聞人の共通した認識だったわけですね。

国家総動員産業体制、マスコミに現在も続く「1940 年体制」

―戦争と新聞の結び付きを考えるとき、いままでお話をうかがっていて、新聞における速報性が戦争の既成事実化に巨大な「貢献」をしてしまうという構造は、現在の新聞の体制が戦時下につくられたものだとしたならば、戦後に情報局がなくなっても基本的に変わっていないということが見るのでしょうか。

前坂

情報局がやったことの一つとして、いろんな新聞社のトップや幹部を集めて開かれた懇談というものがあります。そして、現在の記者クラブの前身である記者会という強固な組織をつくったということですね。

それから、先ほど言いましたが、たくさんあった新聞を一県一紙、全国紙を四つにしていったわけです。こうしてできた体制、それを「一九四〇年体制」ということができると思いますが、それがいまも日本のジャーナリズムにおいて変わっていないわけですね。

確かに、戦後は新聞に対する統制はなくなりましたけれども、そのときのシステムが現在の新聞にも続いていますし、当時のように内閣情報局で懇談してこれは書いていい、これは書いてはいけないといった統制はしていませんが、記者クラブにおけるソフトな統制というものは逆に強まって、そういう意味では枠組みは変わっていないわけですね。

特に、いまの記者クラブの問題ですけれども、記者クラブが官庁に入っているという構造そのものは、戦中につくられたものなんですね。内閣情報局によって、それまでのジャーナリズムの競争体制が国家の方針に沿ったものになる。

経営的に見ても、一県一紙になって、各地方紙は経営的には安定して独占、寡占状態になるわけです。

全国紙の場合でも、朝・毎・読・産経といった新聞がカルテルを結ぶという状態ですね。そして、先ほども言いましたが、取材のシステムの場合でも、記者クラブが広報の窓口となって、役所が出している画一的な情報操作されたニュースをそのまま伝えていく。

そうした情報の流れの仕組みや体制は、戦時中につくられたものがいままで六〇年間以上も続いているわけです。

だから、本当の意味での自由な報道が行われていないということですね。

――戦時体制と記者クラブの結びつきという問題は、現在の記者クラブ制度と官庁・行政の発表取材のありよう、そしてそこで事実を伝えるということの意味を考える上で不可欠な論点だというわけですね。

やはり、そこには戦争とジャーナリズムという大きな問題が横たわっていますし、現在のジャーナリズムのあり方を考える場合も、戦争というものが現在もなお大きな鍵を握っているということが握っているわけですね。

前坂――

新聞だけでなく、日本の場合には新聞がテレビ局をつくりましたから、今のテレビ局の場合、全部新聞の系列がありますね。それから、地方紙の場合も系列のテレビ局を持っています。そういう意味では、テレビというマスコミの組織の体系も、一貫して「一九四〇年体制」によって築かれた流れの上にあるわけです。

そこでは、競争の原理はまったく認められていなくて、新聞の場合には、戦後は統制する官庁がなくなりましたけれども、放送の場合には郵政省が電波の希少性というかたちで統制して、内容に関しても放送法によって規制していますから、戦時体制は放送の面ではより強く残っています。

新聞の場合でも、統制はされていないといっても、システム的には記者クラブの成立が原点になっていますから、そういう意味では戦時体制が続いているわけです。

求められる本質報道―

速報性の他に、新聞のもう一つの機能である言論についてですが、明治期の政論紙的な新聞が、速報性を追求する新聞に変わっていくのは、いつ頃なのでしょうか。

―前坂――

それは、大正末期から昭和の初めにかけてのことです。各家庭が新聞を取り、部数的にも百万部を超えるようになって、全国紙の体制を築いていくのが、昭和初め頃です。そして、満州事変の段階で、はじめてラジオが登場してきます。

新聞は、昭和初めから日中戦争までに、読売新聞は東京だけで百数十万部というように、この十年間で部数が一挙に増えていきます。その段階で、新聞において言論よりも報道、速報の方が重視されていく。そして、その分水嶺が大正末期で、ちょうど関東大震災が大きな契機となるわけですね。

――公正な報道や客観報道といわれるものも、部数の拡大と報道の重視によって要求されてくるわけですね。部数の拡大によって、主張よりもバランスのとれた、公正な報道が要求されるようになるのだと思いますが、戦争と新聞の客観報道との関係では、大枠として考えれば、戦争それ事態が逸脱、偏向しているにもかかわらず、それを客観報道するという、大所高所から見れば奇妙な構造があるということなのですね。

つづく

 - 戦争報道

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(974)ー記事再録/『2・26事件で襲撃をうけ九死に一生を得た大日本帝国最後の首相・鈴木貫太郎(82歳)の終戦決断力が『日本を救った』

大日本帝国最後の首相・鈴木貫太郎(82歳)の晩年   《2009/02 …

no image
<日中韓三国志・新聞資料編>『日清戦争の原因となった金玉均暗殺事件の新聞報道』(朝日,毎日、時事)

<日中韓三国志・新聞資料編> 『日清戦争の原因となった金玉均暗殺事件 の新聞報道 …

no image
日中北朝鮮150年戦争史(35)★歴史の復習問題ー日清戦争『三国干渉』後に、 ロシアは『露清密約』(李鴻章の巨額ワイロ事件)を結び遼東半島を入手、シベリア鉄道を 建設して居座り、日露戦争の原因となった。

 日中北朝鮮150年戦争史(35) 歴史の復習問題ー日清戦争『三国干渉』後に、 …

『政治家の『リーダーシップ復習問題』★『リーダーシップの日本近現代史』(321)★『戦略思考の欠落⑪』★『10年前の民主党政権下の尖閣諸島問題での外交失敗を振り返る。 リーダーなき日本の迷走と没落』★『明治の最強のリーダシップを学べ』

2015/12/01  日本リーダーパワー史(617)記事再編集 『戦 …

『Z世代のための日中韓外交史講座』⑭』★『中国紙「申報」からみた「日中韓150年戦争史」★『(日清戦争開戦2ヵ月後―「罪言―中国の敗因は旧弊の悪習を改め、汚職官吏を除くこと」(申報1894年10月5日)★『この130年後も習近平主席の終わりなき汚職撲滅の闘いが続く」』

   2015/01/01「申報」からみた日中韓のパーセプシ …

「今、日本が最も必要とする人物史研究➅」★『日本の007は一体だれか→福島安正中佐➅』★『ウクライナ戦争と比べればロシアの侵略体質は変わらない』★ 「福島はポーランドの情報機関と協力しシベリア単騎横断でシベリ鉄道の建設状況を偵察した』★「福島をポーランド紙は「日本のモルトケ」と絶賛した』

ホーム >  人物研究 > &nbsp …

『Z世代のための独ベルツによる「日中韓」500年史講座③』★『世界からは尊敬され、韓国からは逆恨みされ暗殺された伊藤博文(初代総理大臣)の悲劇』★『日韓コミュニケーションギャップ、反日韓国のパーセプションギャップ(誤解、逆恨み)ルーツがここにある』

  2019/10/21  日本リーダーパワー史(107)記 …

no image
終戦70年・日本敗戦史(118)日清戦争はなぜ起きたのか⑤ー日中韓パーセプションギャップの対立から戦争へ② 原因としての長﨑清国水兵事件、防穀令事件、金玉均暗殺事件

 終戦70年・日本敗戦史(118)                   <世田谷 …

『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』⑤『ロシア革命への序曲、血の日曜日、戦艦ポチヨムキンの反乱など本格的な武力闘争へ』

『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』⑤ 『ロシア革命への …

no image
  日本リーダーパワー史(773)『金正男暗殺事件を追う』●『金正男暗殺に中国激怒、政府系メディアに「統一容認」論』◎『北朝鮮が「韓国の陰謀」を主張する真意は? 韓国側の指紋・入れ墨情報提供で計画にほころびか』◎『北朝鮮崩壊の「Xデー」迫る!金正恩は、中国にまもなく消される』●『金正恩の唯一の友人が明かす平壌「極秘会談3時間」の一部始終 「私は戦争などする気はないのだ」』★『金正男氏殺害、北朝鮮メディア「幼稚な謀略」』

   日本リーダーパワー史(773)『金正男暗殺事件を追う』   金正 …