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片野勧の衝撃レポート(57)戦後70年-原発と国家<1941-45>封印された核の真実②幻に終わった「日の丸原爆」(下)

   

 

片野勧の衝撃レポート(57)

 戦後70年-原発と国家<1941~45>

封印された核の真実②

幻に終わった「日の丸原爆」(下)

片野勧(ジャーナリスト)

 

京大の原爆「F研究」も挫折

陸軍の仁科研が核開発に本格的に取り組んでいた頃、海軍の艦政本部でも独自の核開発に取り組み始めていた。京都大学の「F研究」である。中心者は荒勝文策理学博士で、「F研究」のFとは一説によれば、フッ素の頭文字「F」か、あるいは「Fission(分裂)」のFから採ったと言われているが、真偽は不明。
荒勝は1918年、京都帝大を卒業後、ベルリン大学でアインシュタインの講義を受け、その後、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で原子核物理を学んだ俊英。後に京都大学教授になった。

昭和19年(1944)10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は事実上、壊滅した。海軍は追いつめられるところまで追いつめられていた。原爆をこしらえて何とか巻き返さなければならない――。これが海軍の考えだった。
莫大な予算500万円(現在の約7億円)も与えられた。ウラン235を分離・濃縮する方法として、理研は「熱拡散法」を採ったが、京大は「超遠心分離法」を採用した。しかし、肝心の遠心分離器は設計段階で稼働することがなく、ヒロシマへの原爆投下を迎えたのである。
こうして理研の「ニ号研究」も京大の「F研究」も、原爆開発の完成を見ないうちに、8・15敗戦の日を迎えた。「日の丸原爆」の挫折である。

アメリカの「マンハッタン計画」

一方、日本の原爆製造計画が頓挫したころ、アメリカの「マンハッタン計画」(総指揮官はグローブス少将で大統領参謀長)は最終局面を迎えていた。1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験「トリニティ」に成功したのである。
原爆開発の「マンハッタン計画」は1942年6月、当時のルーズベルト大統領の命令によってつくられた史上最大の国家プロジェクト。原爆製造のために学者や技術者12万5千人が動員され、天然ウラン6000トンを国内外で確保した。濃縮工場とウランからプルトニウムを分離する工場ほか研究所も次々と建設された。
この計画に費やした費用は総額で20億ドル(当時のレートで約85億円)。それは日本の1940年度国家予算(61億円)を上回っていた(中日新聞社会部編『日米同盟と原発』中日新聞社)。
それに対して日本は約1000万円、200人ほどの科学者。その結果は火を見るより明らかだった。

大勢はポツダム宣言を受諾し、戦争を終結すべし

1945年8月6日午前8時15分。米軍が広島にウラン原爆を投下。世界で初めて原子力が戦争目的に使用された瞬間だった。
「本日、広島は敵の特殊高性能爆弾と思われるものによって攻撃をうけ大被害をうけた」
当時、第2総軍作戦主任参謀だった橋本正勝中佐の大本営への第一報だった。
翌7日朝、政府は閣議を開き、対策を協議した。時の鈴木貫太郎内閣の書記官長だった迫水久常の証言。
「大勢はポツダム宣言を受諾する方式により戦争を終結すべしというのであったが、米国の策略ではないのか疑う者もあり、仁科らを現地に急派して実地調査することになった」(『正論』2003/9)

「原爆に間違いない」仁科博士

原爆投下の、その日の朝。同盟通信の記者が仁科のところへ米大統領トルーマンの声明を持ってきた。内容は「広島に原爆を投下した。火薬1万トン、または10トン爆弾の2000倍の威力がある」と。
「大量のウランをどうやって分離したのだろうか。絶対にできないことだ。これはアメリカの謀略かもしれない」――日本の原爆開発に携わってきた多くの科学者たちは、トルーマン声明に半信半疑だった。しかし、仁科は違った。「これは原爆に間違いない」と。

先を越され「腹を切る時」

理化学研究所の玉木英彦にあてた仁科の手紙。
「今度のトルーマン声明が事実とすれば吾々『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。……米英の研究者は日本の研究者即ち理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである……」
仁科は大本営調査団とともに7日午後2時ごろ、所沢飛行場を飛び立ったが、エンジンの不具合で引き返した。翌8日午後3時、再び所沢から広島に向けて飛び立った。その時のパイロット・水間博志の証言。
「午後6時半に広島に着くと仁科は市の上空を2、3回旋回するよう要請した。旋回の間、仁科は窓にピッタリ顔をつけて外の状況を見つめていた。やがて機は着陸。仁科と軍人たちは地上におりた」
仁科は機を離れる時、水間に対して、「絶対、外に出るな。なるべく早くここを飛び立て」と言った。水間はこの言葉の意味は分からなかったが、通常の点検、燃料補給を省略して大阪の八尾空港に向かったという(『仁科芳雄往復書簡集Ⅲ』みすず書房)。

日赤病院の写真乾板に感光していた

調査に入った仁科は船舶司令部の参謀長・馬場英夫少将らから情報を聞いた。また8月10日、広島に到着した京大「F研究」の荒勝文策とも合流し、土や岩などを拾い集め、それを分析した結果、「やはり、これは原子爆弾に間違いない」と、さらに確信を深めた。仁科は述べている。
「一発でこれだけの破壊力を有するものは到底普通の爆弾では作れぬ、これは原子爆弾と考えるのが至当である。またその当時、広島の日本赤十字病院にあった写真乾板が現像の結果黒くなったところから、エックス線、ガンマ線のような放射線を伴うものであり、それは原子爆弾以外ではあり得ないことである。次に決定的な証拠は、地上の種々の物質がラジウム類似の放射性になっていることである」(仁科芳雄の遺稿集『原子力と私』)
そのほか原子爆弾である証拠として、仁科はこうも述べている。
「原子爆弾の材料であるウランやプルトニウムの原子核が分裂すると放射性の物質ができ、それが地上に降って来て放射性を示す所がある。こんなことは普通の爆弾ではあり得ないことである。さらに当時爆心地の近くにいた人の白血球が減少している事実がある。これも明らかに放射線がやって来たことを示している」(『昭和史の天皇4』読売新聞社)

お国のためにと思っていたのに……

広島にウラニウム原爆が落ちた後、戦局は一気に崩壊した。3日後の8月9日、午前零時にソ連軍が満州になだれ込んできた。午前11時2分、2発目の原爆(プルトニウム原爆)が長崎に落ちた。
国民の戦意は急速にマイナスの方向に傾いていく。そして迎えた8・15終戦――。天皇陛下の重大放送があるというので、ウラン鉱石の採石を途中で引き返して祖母と一緒に正座して聞いたという有賀さん。
しかし、お国のため、日本の勝利のためと思って尽くしてきたことが、実は原爆開発への協力だった――。有賀さんは世にも恐ろしい原爆製造への一翼を担っていたことを後で知った。植え付けられた国家権力はいかに恐ろしいものであるかも知った。その不信感はいまだに消えないと有賀さんは語っていた。
歴史に「if(もし」はない。しかし、「核の時代」を生きる今、もし70年前に日本が原爆開発に成功していたなら、“加害者”になっていたかもしれない。
私は有賀さんに尋ねてみた。「もし、原爆が完成していたら、日本も原爆を使用しただろうか」と。有賀さんは答えた。
「間違いなく日本も原爆を落としたでしょうね。しかし、できっこなかったし、できなくてよかった。人殺しにかかったら、本当に困ったからね」

「勝つためには手段や兵器を選ばない」軍人の思想

仁科博士でさえ、日本の国力では原爆の製造は無理と思っていたらしい。しかし軍部は早く作れと強要する。真っ向から圧力をかける。このように勝つためには手段や兵器を選ばない。これが軍人に共通した思想である。私は有賀さんに2011年3月に起こった東京電力福島第一原発事故についても聞いてみた。
「ついこの間まで原発は絶対安全と言ってきた。でも、事故が起きた。日本は戦争に負けるはずはないと言ってきた。しかし、負けた。国の姿勢は戦前も戦後も何も変わっていない。同じ悲劇を繰り返している」
有賀さんの頭の中では戦前も戦後も国の姿勢が重なり合っているのだろう。

米占領軍がサイクロトロンを解体

日本の原爆製造の息の根を止めるために1945年10月、CIC(米陸軍諜報局)の指令を受けた特殊部隊によって、理研のウラン分離施設は解体され、世界最高水準を誇ったサイクロトロン(荷電粒子を加速する装置)はトレーラーの荷台に移され、東京湾の中ほどに投棄された。
同じ運命は京都帝大のサイクロトロンでも起こった。それらはまだ完成していなかったが、容赦なく破壊され、大阪湾に捨てられた。これによって日本の原爆開発は文字通り、幕を閉じた。日本版「マンハッタン計画」は頓挫したのである。
しかし、原爆開発では欧米に大きく水をあけられたが、仁科研や荒勝研の下で学んだ若き門下生らの研究は戦後、「平和利用」と名を変えた「原発立国」へと繋がっていくのである。

               (かたの・すすむ) 

 - 健康長寿

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