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『Z世代のため中国貿易の研究』★『支那の対外貿易の原則』★『16、17世紀の明時代以降の中国と西欧列強のポルトガル、オランダ、イギリスとの貿易関係はどのようなものだったのか』★『現在中国の貿易ルールのルーツがわかる記事』

   

明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑨』記事再編集

矢野仁一『アヘン戦争と香港―支那外交史とイギリス」

弘文堂書房 (1939)より>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%87%8E%E4%BB%81%E4%B8%80

 元来、支那の国法においては、朝貢国の定例の貢船が貿易の目的で付帯している貨物を貿易することは許されていたが、朝貢国以外の船舶は原則として貿易を許されないことになっていた。

 朝貢国の船舶でも、定例の貢船以外の船舶は私舶として貿易を許されなかった。それ故、支那と貿易を行うには、必ず支那の朝貢国となり、国王より四海の主たる支那の天子に頁物を進め、その封を乞うために、合式の表文を斎し、貢物を携えしめて使節を派遣するということが先ず第一に必要であった。それも直ちに北京に往かしめてはならなかった。

必ず広東などの地方官憲から朝貢のことを皇帝に上奏してもらって、勅許を蒙った上で入京せしめなければならなかった。そうして支那の朝貢国たることが認められて、『大明会典』などに載せられ、始めて頁船附帯の貨物を以て貿易を許さるるということになるのである。

かくのごとくイギリスが支那と貿易を行うためには、第一に支那の朝貢国とならなければならなかったわけであるが、イギリスはそれとは知らなかったのみならず、それと知っていても、イギリスとしては朝貢国となることはできなかったであろう。

しかし、たといイギリスが貿易のためにそれを辞さなかったとしても、支那はそれを許したであろうか。

ポルトガルも明は太祖の「祖訓」や、『大明会典』に記載がないというのでその朝貢を許さなかった。それにもかかわらずポルトガルが支那と貿易ができたのは、事実上マカオに根拠地を有することができたからである。

オランダも支那との貿易を許されなかった。

『明史」の「仏郎畿伝」に、ポルトガル人はもと貿易を求めるだけであって、初めより無法の考えがないにもかかわらず、朝廷はこれを疑うこと甚だしきに過ぎ、ついにその朝貢を許さなかったのであるが、そうかといってこれを制する力もなかった。

また同じ『明史』の和蘭(オランダ)伝に、オランダは「仏郎機(フランキ)」、即ちポルトガルと覇を争い、台湾の地を侵奪し、厦門【アモイ】を犯し、福建海岸に出没し、貿易を要求し、海賊はこれを助け、浜海の郡はために屈したといっている。

だから、イギリスだけが許されたであろうとは考えられない。当時イギリス人が支那において外国貿易は禁ぜられていたように考えていたのは、誤ってそう考えていたとのみいってしまうことはできないのである。

エイテルはその著『香港史』において、明朝は外国商人を歓迎したのに、イギリスが支那と貿易を開くことができなかったのは、ポルトガル人が支那貿易

を独占し、他国人をしてこれに与えることに極力反対し、あらゆる妨害をしたからであるようにいっているが、必ずしもそうはかりとは定められない。

 ポルトガル人がイギサス人を支那人にあしざまに讒誣(ざんぶ、事実ではないことを言いたてて他人をそしる)したことはもとよりであるが、オランダとイギリスとの区別を知らないような支那人であったから、たといポルトガルへの讒誣がなかったとしても、イギリス人を歓迎したであろうとは考えられない。

バンタムに来ていた支那商人がイギリス人に支那に赴いても到底貿易を許されないということを告げたとしても、それは必ずしも虚報を以てイギリス人を欺いたものとは信じられない。

イギリス人の支那渡航

1602年、即ち明の天啓元年、わが元和六年にもイギリス船はバンタムから日本への渡航の途中風浪の難に遭い、マカオ近傍の支那海岸に漂着したことがある。また1635年、即ち明の崇禎八年、わが寛永14年にイギリス船のロンド号がポルトガルのゴア総督の傭船契約に応じ、銅塊及び銃砲運送のため

ゴアからマカオに来航した。この銅はおそらくポルトガル人が対日貿易によって得たものであろう。

 本の銅がイギリス人の支那渡航の機縁となったこともおもしろい。有名なイギリスのウェヅデルの指揮せる船隊が広東海に来航したのは西暦一六三七年、即ち明の崇禎十年、わが寛永十四年である。

これはイギリス東インド会社が派遣したものではなく、その競争会社がイギリス王より対支貿易の特許状を得て、果して支那と貿易を開き得る見込があるかどうかを確かめるために派遣したものである。

ウェッデルはポルトガル人の妨害によってマカオにおいて支那との貿易ができなかったので、広東に進航せんとしたのであるが、途中虎門の要塞において支那官兵の砲撃を受けた。

スタウントンの『マッカートニー卿奉使支那紀行』によると、ウエツデルは応戦して虎門要塞を破壊し、備砲・ジャソク船等を奪獲し、書簡を広東官憲に与えて、自由貿易を求むる外に他意なく、虎門要塞の破壊は巳むを得ざるに出でたと釈明したということである。

また随員の商人は広東に赴き、チャンピンと称する将官に謁し、自由貿易の許可を請願し、該将官よりそれは正当な請求であるとして、十分尽力すべきことを約され、これまでの故障は皆ポルトガル人の紆計に出でたものであることを聞かされ、

支那としてはイギリスの通商に反対するものでないという心証を得て、満足して広東を去り、さきに奪獲した備砲・ジャソク船等を還付して、積荷の供給を許されたということである。

和蘭(オランダ)が崇禎十年に四艘の船(四舶)に駕して虎跳門より広州(広東)に逼り、貿易を求むるといいふらし、その頭目は貿易地(市上)において勢威を張揚(招揺)し、支那の好民はこれを金穴のように考えたという『明史』和蘭伝の記事は、

編纂者は、支那人が一般にそうであったように、イギリス人とオランダ人との区別がつかず、オランダに関する記事のつもりで書いたかも知れぬが、そうでなく、イギリス人のこの時のことに関するものであることは明かである。

『粤海関志(えつかいかいし』(広東海関志)の著者で比較的外国の事情に通暁していたはずの「梁廷なん」でもオランダ人のように考えている。

『明史』に、和蘭人が広東市上において勢威を張揚したのは豪族にそれを主持するものがあったからであって、当局者はマカオがポルトガル人に占拠せらるるに至った前鑑もあるので、和蘭人を駆逐しようとした時にも、内部から妨害するものがあって行われなかったほどで、和蘭人は新両広(広東・広西)総督張鏡心の強硬政策によって一旦遁去したが、さらに手引をなす奸民があって恥総兵陳謙と交通し、再び広東に停居出入するに至ったといってある。

かくのごとく和蘭人は好民の手引で総兵陳謙と交通し、広東市上に勢威を張揚することができるようになったのであって、一旦広東から遁去した後に、再び奸民の手引で広東に出入停居するに至ったとは考えられない。

二つの事実が相前後して別々に起ったわけではないが、『明史』 の編纂者は二つの記録にある同一の事実を、無批判にも二つの事実であるがごとくに考え、相前後して起ったものとして辻褄を合せたものであろう。

なお『明史』に、奸民が和蘭人を手引したことが暴露して裁判に付され、陳謙もみずから転任を請い、禍を避けんとしたが、弾劾せられて逮捕訊問されることとなり、それより後は奸民は到底事の成らざることを知り、再び和蘭人を手引するということはなくなったと見えているが、それはイギリス人が張鏡心の強硬政策のため遁去するに至った当時のことであろう。

ジーサスの『マカオ』に、広東官憲はイギリス人に貿易を許可することを約したけれども、いくぱくもなくポルトガル人の賄賂讒評が功を奏し、形勢また一変して、貿易のために広東に上陸したイギリスの船荷監督らは監禁され、貨

物は押収され、イギリス船は火船の攻撃を被り、ウエツデルは支那艦隊を砲撃し、広東河(珠江)沿岸の諸要塞を破壊して報復し、ポルトガル人はイギリスの執拗に困って、広東に使いを遣わし、イギリスのために船荷監督の釈放、貨物の還付を求めてウエッデルに交付したことが述べてある。これをみてもイギリスの対支貿易の最初の企図は成功でなかったことは明かである。

 清朝になってから、西暦一六五八年、即ち順治十五年に東インド会社船スラット号はマカオに来り、前々年にマカオに来た二艘の社外船が、棱頭銀(りょうとうぎん)、即ち船舶税を払わずして出港したことに関し支那官警と紛議を生じ、またポルトガル人の妨害もあったため、貿易の目的を達せずして帰帆した。

スラット号のマカオ派遣は通説は西暦1664年となっているが、実は西暦一六五八年らしい。西暦一六六六年にオランダの支那派遣使節フアン・フールンは福州において、九艘のイギリス船が広東で貿易を求めたが過大の船舶税を要求され、貿易ができずに金門・厦門の海岸に向い北航したという情報を得たという。明の胡宗憲の『籌海図編』明代に西洋の朝貢国に限って志でない商船も広東の私(貿易に公開せられない港)に来り貿易し、官も税を納れしめてこれを許したと述べてある。

イギリスは朝貢国でないにかかわらず、当時広東・マカオにおいて船舶税の問題で貿易上困難を感じたが、ともかく船舶税を払えば貿易ができたようになっているのは、これに準じたものかも知れない。

1670年、即ち康煕9年以来、イギリスは台湾の鄭経(鄭成功即ち国姓爺の子)と条約を結び、台湾・胃で貿易したが、この貿易は鄭氏の衰運と共に不利となり、西暦=ハ六〇1660年に厦門が清のために占領されるに及んで、新来官吏の不法の誅求が甚だしく、損失を増すのみであったので、西暦1681年、即ち康20年、イギリスは厦門・台湾の商館を引きあげるに至った。

この頃、ギリス人は寧波でも貿易したようである。魏源の『海国図志』に、当時、イギリス船のマカオ・屡門以外に寧波に来たものは舟山に碇泊したことが見えている。康27年に、定海県が舟山に移設されたのも、そのためではなかったろうか。舟山が定海県となっても、イギリス人が定海とはいわないで、舟山といっているのも、定海県とならない時から舟山に来ていたためではなかろうか。

 イギリスは厦門(アモイ)・台湾の商館を引きあげた後、再びマカオ・広東において貿易を試みるようになった。しかしそれはポルトガル人の妨害があってできなかった。イームスの前述の書に、一六八三年にマカオに到着したイギリス船は、ポルトガル人によって、新たに支那の征服を完うしたる清の皇帝より広東貿易の全権を買収したのであると聞かされたことが見えている。

マルティンの『支那』には、西暦1682年に広東河に来たイギリス人は、支那皇帝とポルトガル人との間に協約があって、満洲人武官よりポルトガル以外のヨーロッパ国民は一切支那において貿易を許されないことになっていると告げられたようになっている。

清の皇帝がそういうことをポルトガル人と協約するはずはないが、おそらくポルトガル人は清の広東官憲に賄賂を納れ、広東貿易を独占せんとして運動しそういうことを約束せしめ、或は約束せしめたように信じたのではなかったろうか。

 <以上は矢野仁一『アヘン戦争と香港―支那外交史とイギリス」弘文堂書房 (1939)より>

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