NHKスペシャル[坂の上の雲」を理解するためにー 水野広徳全集〈全8巻〉の刊行によせて〈平成7年7月>
水野広徳全集〈全8巻〉の刊行に〈平成7年7月>
・編集委員/静岡県立大学教授 前坂俊之、南海放送副社長・大内信也ら3人
司馬遼太郎の『坂の上の雲』がNHKの大型スペシャルドラマとして、2009年11月末から放送になるが、日露戦争の全体像は、水野の著作を読むことなしにはとらえることができない。そこで、この全集を紹介する。
初めてあきらかにされる全業績。「敵国」アメリカにさえその存在を知られ軍部・情報局に忌避されながら 軍縮、平和、日米非戦を唱え続け戦後、忘れられた平和思想家・水野広徳のすべて。南海放送創立40周年記念
<内容>
水野広徳は(一八七五-一九四五)――――


愛媛県生まれ。明治三二年(一八九八)海軍兵学校卒業。日露戦争には海軍大尉として従軍。第四二号水雷艇の艇長として戦功をあげた。
日露戦後は軍令部で日本海戦史の編纂に従事。その余暇に書いた『此の一戦』が、陸軍の桜井忠温の書いた戦記『肉弾』とならんでベストセラーになった。
二人は奇しくも同じ松山の出身で、よく併称されたが、その後の二人の生き方は一八〇度ちがうことになった。水野はベストセラーとなった『此の一戦』の印税をもとに、第一次大戦の戦中と戦後の二度にわたりヨーロッパ戦線を視察し、反戦平和の思想をいだくようになった。
大正10年(一九21)「軍人心理」が物議をかもし、大佐で予備役に編入。以後、軍縮、反戦の論陣を『中央公論』などを舞台に展開する。
大正10年(一九21)「軍人心理」が物議をかもし、大佐で予備役に編入。以後、軍縮、反戦の論陣を『中央公論』などを舞台に展開する。
「昭和十六年二月二十六日、中央公論編壌部と情報局二課との懇談会の席上、執筆禁止者のリストを内示した。
その中には、水野広徳、馬場恒吾、矢内原忠雄、横田喜三郎、清沢洌、田中耕太郎ら自由主義者の名が含まれた。」(『血ぬられた言論』)総合雑誌などに発表の機会を奪われた水野はそれでも屈することなく、ミニコミ誌や書簡にその真情を吐露し続けた。
同時に執筆禁止になった他の多くは、戦後大きな働きをしているが、敗戦の年没した水野は一部で高く評価されながら、「忘れられた思想家」としてその評論の多くも埋もれていった。
今日、その再評価の機運は国内ばかりでなく海外においても高まっている。
水野の著書は、その名が世に出るきっかけとなった日露戦記『此の一戦』・『戦影』(後に発禁)、日米未来戦記『次の一戦』・『興亡の此の一戦』(発禁)、言論統制が激しくなってから書いた戦国武将の評伝『日本名将論』など決して少なくはない。しかし、肝心の反戦平和、軍縮、日米非戦論などの評論は生前、またその没後も単行本としてまとめられることはなかった。
本著作集は、これらの評論・日記・書簡を発掘し、この「反骨の軍人」の再評価を願い、また単に再評価にとどまらず、混迷する今日の状況に水野の人と思想が果たす役割の決して小さくないことを信じて刊行される。なおこの編纂事業は、水野の郷里松山の南海放送の創立四〇周年記念事業として行われた。
水野広徳著作集によせて、評論家鶴見俊輔氏は
「『此の一戦は百数十版をかさねた。その名声の延長線上に彼は生きなかった。 第一次世界大戦の戦中と戦後にヨーロッパに留学した彼は、世界戦争の実態を直視して、戦争をふせぐ方向に生きることを決めた。「1921年に海軍を退官。昭和の軍国主義の下で、彼はくりかえし執筆禁止にあう「負け犬」の評論家としてその後の生涯を生きつづけた。
「世を棄てず
世を忘ればや
菊つくり」
第二次世界大戦の終ったあと「九四五年二〇月一八日、七二歳でなくなった。私がこれまで読んだのは『此の一戦』と自伝だけであるが、今度の著作集刊行を機会に、同時代に兵役拒否をつらぬいたイシガ・オサム、発禁をおそれず小雑誌その死まで軍国日本に同調せず「他山の石』を出しつづけた桐生悠々と、この人のむすびつきをあきらかにする資料があらわれることはうれしい。

元.衆議院議員・軍縮問題資料室主宰・宇都宮徳馬は
今日、「ことさら意義深い企画」として、
「戦前、軍人出身で軍縮に論陣を張った人物に陸軍少将・河野恒書、海軍に水野広徳大佐がいた。高級将校出身の水野の軍縮論・平和論・日米非戦論は、何よりもその背景に豊富な軍事知識、確たる戦争論を持っていることに同時代の他の平和論との違いがあった。大正時代すでに日米戦争となれば、東京は「火の海になる」と航空戦による被害を警告し、東京大空襲を預言したのは有名な話である。
また、海軍軍人らしい率直・明快な能崖で度重なる発禁にもその思想や筆を曲げることはなかった。
水野の著作は、日露戦記『此の一戦』、発禁になった未来戦記『興亡の此の一戦』、
評論の筆を折られてから書いた『日本名将論』など少なくないが、かんじんの評論については今日に至るまでまとめられたものはなかった。それらが綿密な調査のもとに復元され、日記・書簡もふくめて読むことができるのは、今日ことさら意義深いことと喜ぶものである。またこの労の多い、地味な仕事が念事業としてなされ水野の郷里南海放送の創立四〇周年の記の見識に敬意を表するものである。」
同刊行会会長・.南海放送会長 門田圭三
は「『日米戦うべからず』という信念を貫き、軍部の政治支配を憂れえてやまなかった、海軍大佐水野広徳の予言は、昭和二〇年八旦五日の敗戦で的中する結果となった。その二カ月後、水野は悲痛な死を迎えている。
戦後五〇周年を迎えて、あの戦争に対する反省と、その責任の所在について、改めて色々の議論がなされようとしている。
水野は第一次大戦の見聞から、二転、反戦論を展開することになるが、他方軍部の暴走をおそれ、その根拠となる「統帥権の独立」と、「軍部大臣現役武官制」の危険を論ずる数少ない論客であった。
しかしその所論を掲載した印刷物は、検閲によって削除処分か、発行禁止処分を受け、世の人の目に触れることは稀であった。
今回終戦ならびに水野没後五〇周年に当たりほとんどの著作、論文を始め、書簡、日記に至るまで、現在可能な限りのものを蒐集しえて、全八巻の著作集として発刊する。戦争にかりたてていったものは何であったか。戦争責任の所在を考え、戦争に至る軍部の動きと世相の推移を知る上に、貴重な資料であると確信する」。
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