『日中韓150戦争史』(56)「明治維新後、日韓修好最初のコミュニケーションギャップと徳川慶喜、八戸順叔の関係」
2015/01/01
『中国紙『申報』などからの『日中韓150戦争史』
日中韓のパーセプションギャップの研究』(番外編)(56)
明治維新直後に新政府が朝鮮に外交関係を求めたときに、頑強に
拒絶した理由、そのコミュニケーションギャップについて
徳川慶喜、八戸順叔の関係をあきらかにしている。
名草杜夫『右翼浪人登場―岡本柳之助の光と影』(草風社刊 昭和1980年刊)
の183-186Pによると次の通りである。
古代における朝鮮との交流について八世紀以来殆ど断絶の状態であった。
それから十五世紀の足利幕府との間に国交を開き・豊臣秀吉の朝鮮侵略を除いて、約四百五十余年続いていたわけである。徳川幕府二百六十余年は鎖国政策をとったが、長崎においては清国とオランダに開放しているし、朝鮮国には正式に修交し、朝鮮側からも十二回にわたり通信使が日本を訪れている。
しかして幕府は対馬藩の宗氏を通じて対韓外交を進めていたのである。ここに問題があった。というのは、朝鮮国にすれば対馬藩には常に恩恵を施している。その外交、貿易も許してやっていたのである。
したがって、対馬藩は朝鮮国に従属したものと思っているし、事実、その外交文書一つにしても、朝鮮国より貰った鋳給の島主図書印章を使用していたのである。幕閣はそれを知らなかっただけである。長崎の出島にオランダ商館があるように、釜山の草梁に「倭館」と称する対馬藩の出張所もあり、多くの対馬人居留民もいたが、果して幕府がどの程度それを把握していたかは疑わしいのである。
明治新政府が樹立された時、朝鮮政府に対し、幕府は廃止されて王政復古になったことを通告する必要があった。これはもとより対馬藩の内申によるものであるが、そこで新政府は今までの対馬藩の特殊権益を認めた上で、その家役として日韓外交管掌を命じている。
明治元年十二月、対島藩主・宗義連は家老樋口鉄四郎を大修大差使正官として、釜山に先乗りさせたのである。その時の文書は対馬藩京都留守兼公用人大島友之允らが朝廷の外国官と協議の上、原案を作成したものである。
その時に外国官から下付せられた新印「平朝臣義達章」はその文書である大修大差使書契に初めて使用したのである。
十二月二十一日、朝鮮側の倭学訓導安東唆と大修大差使正官樋口鉄四郎とが倭館で会見しているが、大修大差使は規外であり、書契中違格の文字の多いことを理由にこの外交文書の受理を拒否しているのである。
朝鮮側とすれば従来より島主(対馬藩主のこと)に与えてある鋳造の印章を使用せず、しかも宗義連は今回は左近衛少将対馬守平朝臣義連と勝手に名乗って、皇室奉勅云々の字句は驕慢至極であるというのである。
戦後の歴史家たちの中でこの時の書契をもって、「この外交も普通の外交ではなく、朝鮮征服の第一としての外交関係の樹立であったことは、当時の文書によって立証できる」 (山辺健太郎著『日本の韓国併合』)と無責任な発言をするものもある。単なる王政復古の外交文書(『宗重正家記』)で極めて友好的なものである(割愛したのは現代の印刷活字では活字のない字が多いから)。
何故、朝鮮側は新政府との外交関係を結ぼうとしなかったのか。李王朝大院君の度の過ぎた対日姿勢に根本的な問題があるが、その理由の1つに、慶喜が徳川十五代将軍であった慶応三年(李太王丁卯)、すなわち一年前の三月十三日、朝鮮からの書状が対馬藩を経て慶喜のもとに送られてきたことがある。
その内容は一八六六年(慶応二)朝鮮において、フランスの東洋艦隊が江華島守備隊と交戦した事件が起きた。
丙寅洋擾
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AF%85%E6%B4%8B%E6%93%BE
この事を日本国対馬州太守拾遺平公閣下(宗義連の呼称)に報じたものである。
これは両国間において慶賀弔慰は勿論、国内に重大問題があればお互に知らせ合う例である。既にわが国では一八五八年(安政五)米英仏露蘭五国との修好通商条約が締結されたとき、対馬藩を通じて報じた例がある。
その内容は、今次の洋夷は巨艦を賀して、大洋を航行するものであるから、いつ日本に出没する危険がないか予測し難い、隣誼の上から見ても最近経験した詳細を日本に通告し、その警戒を促すという意味のものであった。
しかし、徳川幕府としては当時フランスとは一番仲が良かった。フランス公使ロッシュ
は慶喜を尋ねて「仏国政府は来春を待って韓国を征すべき」ことを告げ、暗に日本がフランスと朝鮮との仲介に立ってくれれば、将軍の顔を立てて応ずる素振りを見せたのである。
アメリカもゼネラルシャーマン号の虐殺事件
で朝鮮にその罪を問わんとする意のあることを知っていた慶喜は、隣国の誼でもあり、自分の手柄ともなるので、かつて十年前までは日本も鎖国政策であったが、今は開国して彼等と条約を結んでいる。先輩国として朝鮮に忠告し、又その仲介役を買って出ようとしたのである。
慶喜は既に外国奉行平山図書頭を朝鮮追使として決定し、米・仏の調停に立つ準備を進めていたが、大政奉還となり、諸般の事情で遂に中止せざるを得なくなったのである。だが朝鮮国においては日本のこの遣使派遭計画には心よく思ってはいない。
それのみか日本人の八戸順叔なる人物が香港において、同治五年(慶応二)十二月、地元の漢字新聞に日本の状況を寄稿したのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
その中で大法螺を吹いた。それは中浜万次郎が上海で蒸汽船八十艘を製造し、帰朝の上、江戸で諸侯会合し、朝鮮征伐の企てあるという飛んでもない記事を書いた。これが、翌同治六年(慶応三)二月十五日には李王朝のもとに報告されている。
李王朝の鎖国政策が明治新政府の外交政策の障害となったことは、根本的な問題として横たわっているが、もし、日本側にもその責任がありとするならば、この八戸順叔の香港新聞の記事であり、又、対馬藩をして外交を管掌せしめたことである。対馬藩は元々、私交と密貿易によって利益を得ており、新政府と朝鮮との国交は望んではおらず、朝鮮に対しては臣従の姿勢をとっていて所詮
はその資格がなかったのである。
つづく
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