前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『「申報」や「外紙」からみた「日中韓150年戦争史」(62)『(日清戦争開戦50日後)-『日清戦争―中国の敗北』(ドイツ紙)

      2015/01/01

  

 

 


『「申報」や「外紙」からみた「日中韓150年戦争史」

日中韓のパーセプションギャップの研究』62

 

  1894(明治27)年918日ドイツ『フランクフルター・ツアイトゥング夕刊

『(日清戦争開戦50日後)-『日清戦争―中国の敗北』

 

 

ようやく朝鮮における戦場の状態について紹介することができる。数日来予想されていた中国軍と日本軍の戦いが始まり,前者の完全な敗北で終わった。

数週間前から日本の軍隊が朝鮮に送られ,その数は今や7万人にのぼっている。

 

中国人が長い悪路を利用しなくてはならない一方で,海路で移送を行ったことが日本軍にとっては非常に好都合となった。それはまたしてもよりすぐれた輸送手段の勝利ということになるが、もちろんそれでもって日本人がすぐれた戦略家であることが外見上証明されたということを否定するべきではない

 

日本軍は中国軍よりすばやく装備を整え,中国軍が自陣を守るのに苦労しているうちに攻勢に出ることができた。

牙山で日本軍が最初の取るに足らない中国の攻撃を撃退した後、日本軍はソウルの前線を放棄し,朝鮮の北の国境に迫る中国軍に立ち向かい,できれば決定的な打撃を与えるために北へ向かって進軍を始めた。同時に,東海岸の港元山と西海岸の港、黄州の日本の部隊が中国から平壌への道のりは山を越えて約150キロあり,他方黄州からは53キロしかなかった。

 

日本の大本営にとっては,たとえ地形が困難でも3っの部隊は同時に戦闘に入ることができるように思われた。最も長い行軍を行わなければならなかったのはソウルから鳳山に向かう軍隊だった。

 

96日と7日に最初の衝突が起こったらしいが,中国側はその結果を,初めははっきりと示さなかった。日本軍の支配にあるソウルからの電報によれば,中国軍はすでにこれらの前哨戦で敗北を喫していた。元山から進行していった日本の部隊はSingChuanで,そこに強固な要塞を築いていた中国軍に遭遇した。激しい戦闘が行われ・中国軍は完全に撤退するに至った。

 

双方ともかなりの損害を被った。黄州から前進していった日本の師団は9月7日敵に遭遇した。中国軍は大変な勇気をもって戦ったが、包囲の危険が生じると退き,平壌へと大あわてで逃走した。両軍はまたしても大きな被害を披った。中国軍の先遣隊はいずれも平壌の本隊へと撤退した。そしてそこで土曜日に決戦が行われることになる。

木曜日に日本軍の部隊は鳳山から平壌に向けて偵察を試みたが,その際、中国軍の壁塁から銃撃された。日本軍は取るに足らない損失を受けたのみで整然と帰還した。敵の位置を確認するという目的は果たされた。

 

そして金曜の晩に.日本の兵力は全面攻撃に向けて準備された。元山の部隊は中国軍の左側面を.鳳山の部隊は中国軍の中央を黄州の部隊は中国軍の右側面を攻撃することになっていた。なお黄州の部隊は大同江河口に停泊している日本の艦隊の海兵隊員や水兵によって補強されていた。

 

中国軍は平壌の古い防備を新たな壁塁によってかなり強化し難攻不落を誇っていた。土曜日の朝、日の出と共に砲撃が始まり,午後まで続いた。

中国軍も強力な砲撃で応戦した午後2時には日本の歩兵が行動を開始し、夕方まで激しい銃火を浴びせ続けたが、地歩を得ることなく終わった。とりわけ鳳山の部隊は1日申砲火にさらされ続けたが,兵士はとりでの背後にいたので双方とも被害は少なかった。

 

夕刻ごろになってようやく日本軍は地歩を得,中国軍の壁塁はかなり損傷しだした。夜を徹して撃合いが続いた。

 

その間に日本の元山と黄州の部隊は中国軍の兵力を包囲し,日曜の朝3時に,イギリスのインディペンデント紙の報道記者が「感嘆すべき正確さ」と証言した全面攻撃が開始された。中国軍の前衛は非常な勇気をもって防衛したが,ただ後衛部隊があまりに弱かった。

 

日本軍の攻撃に不意をっかれ,バラバラになり,結局ひどい混乱に陥ったまま逃走していた完全に包囲された中国人は何千と殺された。他方でヨーロッパ式の訓練を受けた将校の指揮するいくつかの部隊は,最後の1人まで抵抗した。中国軍の隊列の混乱に乗じて鳳山の部隊が平壌の壁塁に向けて突撃し・30分の攻撃の後,天皇の軍隊はそこを占領した。

 

壁塁の中にいた中国軍の数は2万人と見積もられている。そのうち16000人が死傷もしくは日本軍の捕虜となった。日本軍は膨大な量の食糧や軍需品.数百の軍旗も手に入れた。

 

捕虜の中には中国軍の将校が数多くいた。満州の軍の指揮官の左宝貴将軍も勇敢に抵抗した結果重い傷を負い,捕虜になった。

日本側の被害はすでに述べたように,30人の死者に270人の負傷者,うち将校は11人に過ぎなかった。日本軍は武器を失った逃亡者たちを追跡し.彼らは抵抗せずに降伏した。

 

現地からロイターの事務局に寄せられた電報によると,上海の著名な中国人は戦略について怒りを発し,特に李鴻章への非難は激しいものだった。

 

彼らに言わせれば,李のせいで中国は世界に侮られることになったのであり,艦隊はなにもせず,軍隊の状態も非常に不満足なものだということだ。それに対し責任を負っている役人は必要な軍需品を紙上でしか保持していず・給与支給を自分のふところに入れていた。今彼らはできる限り隊列をいっぱいに満たしているが,そのようなわけで,前線に送られる軍隊はたいてい.軍事紀律

に不慣れで戦争の困難な仕事に耐えることもできない苦力たちから成っているという。新たに浮上している恐れは,日本軍は艦隊で勘海湾から上陸を試み,直接北京に進行するかもしれないというものだ。

 

 - 戦争報道 , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
クイズ『坂の上の雲』 英『タイムズ』などが報道する『日・中・韓』三国志・・日清戦争の原因とは・・・

クイズ『坂の上の雲』   英『タイムズ』などが報道する『日・中・韓』三 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(41)記事再録/『日本議会政治の父・尾崎咢堂のリーダーシップとは何か③>』★『世界に例のない無責任政治、命がけで職務に当たらず 辞任しても平気で再び顔をだす3代目政治家』③』

2012年2月25日/日本リーダーパワー史(238)     …

★『Z世代への遺言・日本ベストリーダーパワー史(4)浜口雄幸物語④』★『アベクロミクスの責任論と<男子の本懐>と叫んだ浜口雄幸首相は「財政再建、デフレ政策を推進して命が助かった者はいない。自分は死を覚悟してやるので、一緒に死んでくれないか」と井上準之助蔵相を説得した』

2019/10/23  『リーダーシップの日本近現代史』(112)』記 …

no image
世界/日本リーダーパワー史(911)-米朝首脳会談(6/12日)はトランプ大統領が5月24日に中止を発表」③-『その理由は北朝鮮側の度重なる約束違反』★『役者が違うトランプ氏は「米軍は世界で最強だ。必要であれば、(軍事的措置の)準備はできている」と暴れん坊小僧の金正恩に、会談のテーブルに戻る様に促す。』

トランプ大統領は24日午前(日本時間25日夜)、米朝首脳会談(6月12日)を中止 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(137)再録/-『太平洋戦争と新聞報道』<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年の世界戦争史の中で考える>➀『大英帝国への植民地主義への道』★『ロシアの大膨張主義が日露戦争の原因』

     2015/08/13『世田谷市 …

『Z世代のための日中韓外交史講座』⑩」★『1889年4月6日の『申報』☆『日本は東洋の一小国で.その大きさは中国の省の1っほど。明治維新以後、過去の政府の腐敗を正し.西洋と通商し.西洋の制度で衣服から制度に至るまですべてを西洋化した。この日本のやり方を,笑う者はいても気にかける者はいなかった』

   2014/08/11 /★『中国紙『申報』からみた『日 …

no image
『W杯サッカー回想録』★『2014年7月/ザックジャパンW杯の完敗の原因とは?」★『「死に至る日本病」(ガラパゴス・ジャパン・システム)であり、日本の政治、経済、スポーツ、社会全般に蔓延する―』★『ストラジティー(戦略)なし。NATO((No Action, Talk Only)「話すばかりで、何も決められない決断しない日本)』

  2014/07/04  日本メルトダ …

no image
世界リーダーパワー史(949)3週間後に迫ってきた米中間選挙(11/6)の結果はどうなる?ー米中新冷戦に突入へ 

世界リーダーパワー史(949)   3週間後に迫ってきた米中間選挙(1 …

『第二次世界大戦・国際連合・戦後80年」を考える』★『澤田猛氏の「最後の証言者たちー戦場体験者・戦争体験者からのメッセージ」(高文研 25年8月刊)は戦争ドキュメンタリーの傑作!』★『澤田本は各国の歴史認識ギャップ、コミュニケーションギャップ」を埋めるインパクトのある平和教材、戦争教育歴史遺産になっている』

逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/10/25 /am700) 前坂 俊之(ジ …

日本リーダーパワー史(652) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(45)日清戦争勝利、『三国干渉』後の川上操六の戦略➡『日英同盟締結に向けての情報収集に福島安正大佐をアジア、中近東、アフリカに1年半に及ぶ長期秘密偵察旅行に派遣した』

  日本リーダーパワー史(652) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(45)  …