『「申報」からみた「日中韓150年戦争史」(65)『(日清戦争開戦2ヵ月後―「憤言」ちっぽけな倭奴をなぜ撃滅できないのか』
2015/01/01
『「申報」からみた「日中韓150年戦争史」
日中韓のパーセプションギャップの研究』(65)
1894(明治27)年10月1日 光緒20年甲午9月3日『申報』
『(日清戦争開戦2ヵ月後―「憤言」-
中国20余省の人民.1000万にものぼる資産,200万余の兵力を
もってして.ちっぽけな倭奴をなぜ撃滅できないのか!!』
ああ,まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。中国の20余省の人民.100万にも1000万にものぼる資産,200万余りの兵力をもってして.ちっぽけな倭奴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E4%BA%BA
を平定できず.ついに乱暴でほしいままに振る舞い.勝手に海上で暴れ回り,わが国の藩属国を圧迫し,わが軍艦を撃破するがままにしてしまうとは。
中国の人民は倭奴より少ないせいか。資産が乏しいためか。それとも,倭奴が勇敢で戟上手なのに及ばなかったのか。それは,枢要な地位に人材がいなかったからだけなのだ。倭との戦争が起きたとき,時局に関心のあった人は皆,「戦機は迅速を貴ぶものだ。倭兵が集結しないうちに.軍を急行させ,朝鮮を堅守するのが良い」と言ったものだ。
このとき,海路はすっかり通じており,陸路も全く障害がなかった。もし,当局がその議論をよしとして、直ちに大軍をそろえていれば,倭奴が全力をあげて攻めてきてもいかんともしがたく,わが軍がすでに朝鮮を独占しようとしているのを見れば,きっと戦わずに退却し.もはや横暴に勢力を広げたりはしなかっただろう。
もし退却させられなかったとしても.もしこちらから先手をかけていれば主客の勢いはすでに分かれ,労逸の情もはるかに分かれ,余裕のある当方の軍で疲れきった倭兵を攻めれば.敵は武器を捨てて驚いて逃げ出さなかったはずがあ
ろうか。しかし,機を逃してぐずぐずしていたために,みすみす主客を逆転させてしまい,守るすべもなく壊走することになってしまったのだ。
倭兵がソウルに充満するに至って.わが軍は退却して牙山で守りについたが.将兵共に少なかった。このとき.もし当局者が葉統領の軍が孤立無援で危うい状態にあるのを見て援軍を送り,昼夜兼行して迎撃させていれば,牙山での困難を避けられたばかりでなく,ソウルを回復し,侵攻を息切れさせ動転させ鋭気を失わせて朝鮮を保持し決して倭奴を好き勝手にさせはしなかったのではないか。
だが,対応が遅すぎて牙山さえも保てなくなった。幸いにも,菓統領は深く戦略に通じ,知勇を兼備していたので,全軍を周到に指揮して兵を損なうことなく退くことができた。
さもなければ,千数百人の将兵で意気盛んな倭奴に対抗し,たちどころに壊滅していただろう。しかし,陸軍が敗れた後も,もし北洋海軍の諸軍艦が,敵を殺し戦果をあげ勇んで前進し.ひとたび倭の船に遭遇してすぐさま猛撃を加えていれば.倭奴は驚き恐れて,今のように絶えず陸軍を朝鮮に運びはしなかっただろう。
もしも,陸軍が要衝を抑え,海軍が長駆してまっしぐらに攻め込み,心を1つにし力をあわせて水陸から挟み打ちにすれば,追撃を加えて死命を制することもできただろう。ところが.軍は無策で何事もなすことなく月日を過ごし,装甲も大砲もすぐれた鉄の軍艦を数十隻俸有するにもかかわらず,旅順・個台を行き来するばかりで,朝鮮に赴いて迎撃しようとするものは1隻もなかった。
今.平壌はすでに失われ.聞くところによると,友軍はもう義州からも退却した一方で,倭奴は手下どもを率いて武威を発揚し,まさに奉天を奪い取って北京付近に攻め込むと言いふらしているそうだ。陛下は激怒され,賞罰を厳しく明らかにされ.速やかに正義の兵を調えて大いに攻め打たれた。しかし,すでに機先を制することはできず,後手に回ったための不利が続いておこり.帷幄(いあく)「で謀をめぐらしても,以前に比べて難題が多い。敗因について説く者は.事あるごとに今回の過ちを対応の遅れのせいにして.普段からの緩みがこんな悪弊をまた現したのだということを知らない。これは一朝一夕のことではないのだ。
そもそも,中国は各国と5年余り貿易してきた。その間今日まで,軍艦を買い,兵士を訓練し-砲台を築き,どれだけの資金を費やし,どれだけの心力をすり減らしたことか。
そして,立派な巨艦は西洋に劣らず,その上西洋人を招いて,戦術を教えさせた。軍容の盛んなさまは,実に壮観とするに足るものだった。思うに,昔フランス人と争ったとき,勝敗は明らかにならなかった。
しかし,フランスは西洋最強の国だからその凶鋒をくじくことが難しかったが.これとは違い.ちっぽけな倭奴はつまらない虫のようであり.ひとたび戦鼓を打ち鳴らして気勢をあげれば.東海をのみ,日本に攻め込むのも難しくないと言われたものだった。
ところが,この数か月戦ってなお勝てなかった。倭奴はフランス人よりも精鋭なのだろうか。そもそも.わが軍は毎年整備してかえって以前に及ばなくなったのだろうか。ああ。私が今の当局者を見るのに.ふだんから優柔不断でおろおろして婦人や小児のようだ。それなのに,自ら位が重く功も高いと思い.人をあごで使って威張り散らしているが.ひとたび自分で何かをするとなると.隣国に対して罪を犯し外国から辱めを受けることを恐れおののくだけだ。そういう高官の下風に立っ者も,太平を楽しむだけで,順境では威張り散らすのに逆境ではしゅんとなってしまう。
地方の総督やその下僚たちも,ただ旧来の例に照らして事を行うばかりで,他人からとやかく言われなければ自己満足してしまって.事の発生する前にあらかじめそれを防ぐことを考えたりはしない。軍権を握る者に至っては,毎日歓楽街にいりぴたり,美姫が前後に連なり.美童が傍らにはべる。
賭博の一勝負に千金を賭けてうさをはらす。またある者は芝居好きで,歌を歌わせ舞を舞わせ少年を寵愛し,公然と遊興にふけっている。戦術を尋ねても知らず,兵籍を聞かれても答えられない。ただ厳しく軍費を取り立てて私腹を肥やすことを知るばかりだ。陸軍を率いる者は一夜も陣営で過ごさず.海軍の指揮官は年中艦内にいない。いったん沿岸地方からの警告があり,将官に命令して出撃させようとすると,いきなりあわててしまい,恐れてびくびくするばかりだ。
兵士は将軍を愛さず,将軍は兵士を顧みない。方伯謙のようなひどい例になると,戦陣に臨んで逃亡し,それを2度もくり返した。当局者は,過失のかばいきれないのを知っているけれども,それをあえて厳しくとがめ責めることをせず,どうでもよいようなことを責めるだけだった。倭奴は海上でほしいままに行動し,武器をふりかざし,陛下の軍に逆らっているのだ。ああ、これが私が憤りのあまりに十分に意見を述べることができず,このような暴論を発表した理由だ。罪は心得ている。それを受け入れよう。
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(817)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス㉜『日本史決定的瞬間の児玉源太郎の決断力④』★『児玉参謀次長でさえ、元老会議や閣議から除外されることが多かったので、軍部は国策決定の成否を知り得なかった。』★『児玉参謀次長に日露外交交渉の詳細が知らされなかった日本外交の拙劣ぶり』
日本リーダーパワー史(817)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(76)大東亜戦争開戦「朝日,毎日の紙面」ーマレー、シンガボール、フィリピン戦線
終戦70年・日本敗戦史(76) 大東亜戦争開戦の「朝日,毎日などの新聞紙 …
-
-
日本リーダーパワー史(829)(人気記事再録)『明治維新150年』★『日露戦争勝利の秘密、ルーズベルト米大統領をいかに説得したかー 金子堅太郎の最強のインテジェンス(intelligence )①』★『日露開戦を決めた御前会議の夜、伊藤は金子に『ルーズベルト工作」を命令』●『伊藤の懇願を金子は拒否、日露戦争に勝てる見込みはないーと伊藤』★『金子サムライ外交官は『スピーチ、リベート決戦」に単身、渡米す。』
日本リーダーパワー史(829)(人気記事再録)『明治維新150年』★ 2011年 …
-
-
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑰『開戦4ゕ月前の『米ニューヨーク・タイムズ』報道ー『ロシアがもし撤退を遅らせるなら,世界の前で破廉恥な背信を断罪される』●『ロシアの日本に対する待遇は協調的とは逆のもので,現実に欲しいものはなんでも取り,外交的にも,絶大な強国のみがとってはばからぬ態度で自らの侵略行為を正当化している』★『ロシアの倣慢な態度は,人類に知られた事実に照らし,正当化されない』
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』⑰ 1903(明治36)年10 …
-
-
『Z世代のためのオープン自由講座』★『ドイツ人医師ベルツによる日中韓500年東アジア史講義➂』★『伊藤博文の個人的な思い出④ー日本人の中で伊藤は韓国の一番の味方で、日本人は韓国で学校を建て、鉄道や道路や港を建設した』
2010/12/05 の 日本リーダーパワー史(107)記事再録 伊藤博文④-日 …
-
-
『オンライン講座/今、日本に必要なのは有能な外交官、タフネゴシエーターである』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテリジェンス>『ハーバード大同窓生・ルーズベルト米大統領の私邸に招かれ、親友づきあいし、トイレを案内してもらった日本人!』★『卓越した英語力とスピーチで広報外交に成功した』
2011/12/24 &nbs …
-
-
『日中台・Z世代のための日中近代史100年講座③』★『宮崎滔天の息子・竜介(1892―1971、弁護士)による「孫文回想記」』★「1966年11月12日、朝日新聞講堂での孫文先生生誕100年記念講演の抜粋』★「現代中国と孫文思想」(岩村三千夫編 講談社、1967年刊に掲載)
2010/06/25 …
-
-
『 明治150年★忘れ去られた近現代史の復習問題』―『治外法権の国辱的な条約改正案』●『ノルマントン事件の領事裁判権の弊害ー英国人船長、外国人船員26人は救難ボートで助かり、日本人乗客25人は溺死した』
『 明治150年★忘れ去られた近現代史の復習問題』 ―『治外法権の国辱的な条約 …
-
-
日本リーダーパワー史(34) 良心のジャーナリスト・桐生悠々の戦い②<個人誌 『他山の石』での批判活動>
日本リーダーパワー史(34) …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(134)満州事変報道で、軍の圧力に屈し軍縮論を180度転換した「朝日」,強硬論を突っ走った『毎日』,敢然と「東洋経済新報」で批判し続けた石橋湛山
終戦70年・日本敗戦史(134) <世田谷市民大学2015> 戦後70年 7月 …
