終戦70年・日本敗戦史(137)1932年(昭和7)のロㇲ五輪の馬術で優勝した国際人・西竹一は陸軍内では左遷に次ぐ左遷で『戦車隊長」で硫黄島に配属、玉砕した。
2015/08/15
終戦70年・日本敗戦史(137)
<世田谷市民大学2015> 戦後70年 7月24日 前坂俊之
◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』
<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、
どこに問題があったのか、
500年の世界戦争史の中で考える>⑯
1932年(昭和7)のロサンゼルスオリンピック大会の馬術で
優勝した国際人の西竹一【バロン西】は陸軍内では左遷で
に次ぐ左遷で『戦車隊長」で硫黄島に配属され、玉砕した。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
バロン西が「世界のヒーロー」に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%AB%B9%E4%B8%80
1932年(昭和7)8月14日、ロサンゼルスオリンピック大会の最終日。閉会式のメインスタジアムでは最後の競技の馬術大障害が行われた。4ヵ国から11人が参加し、日本からは西竹一陸軍中尉と今村安少佐の二人が出場した。
19の難しい障害物を人馬一体で飛び越える競技では、並いる強豪が次々に失敗。
初出場の西中尉は愛馬「ウラヌス」に乗り、幸先よいスタート切り、第9障害まではなんとかクリアし、難関の第10障害でウラヌスは左にそれて止まったが、2度目の飛躍で見事に通過してゴールイン。約11万人の満員の観衆が総立ちとなって「バロン・ニシ、バロン・ニシ」の大歓声を送った。減点8で見事、優勝して金メダルを獲得、一躍、世界のヒーローとなった。
優勝の記者会見で西中尉は「We won!(我々は勝った)」と答え、愛馬「ウラヌス」一体での勝利を強調し、そのスポーツマンシップぶりは賛辞を浴びた。日本馬術史上、オリンピックでの優勝はこれが初めてで、いまだに破られてない。
西は男爵(バロン)の称号を持ち、英語も堪能で、陽気な性格だった。
連日のようにハリウッドの女優達から誘いの電話が入るなど、アメリカで大人気を博した。当時の日本は、満州事変から約1年後で、国際連盟を脱退するなど国際的な非難を浴びていた。米国内でも排日の空気が強かっただけに、西の華麗な馬術とさわやかな人柄が米国民の日本イメージを好転させた。
西竹一は1902 (明治35)、枢密顧問官、外務大臣の西徳二郎の子として生まれた。父の徳二郎は鹿児島藩士の家柄で、戊辰の役を戦った後、ロシア・ペテルスブルグ大学に留学し、ロシア専門の外交官となり、明治19年にロシア特命全権大使に、同28年に日清戦争の功労で男爵を授けられた。
明治三〇年に第2次松方内閣で外務大臣を務め、その後枢密顧問官、明治45年には66歳で亡くなった。徳二郎は正妻との間には女児しかいなかったため、爵位の後継者として侍女が産んだ竹一が引き取られた。
徳二郎が亡くなったのは竹一が10才の時で、、東京・麻布桜田町の自宅土地3万3千平方㍍、貸家50軒、熱海、別荘など莫大な財産を相続し、男爵を継いだ。これが彼の後々の派手な私生活を支えることになる。13歳で義母もなくなり、文字通り天涯孤独の身となった。
学習院初等科から府立第一中学校へ進学したが、乃木学習院院長の「華族の子弟は軍人を目指せ」の影響で、広島の陸軍幼年学校に進み、馬と初めて出会った。
日本での馬術の発展は、明治天皇が馬術を愛好し、奨励のために資金を下賜したり、展覧馬術大会を開催。明治10年には天皇の肝いりで学習院に馬術部が作られ、学生スポーツとして馬術が盛んになった。良家の御曹司、裕福な環境で育った西は乗馬のほか、カメラ、ライフル銃、自動車など多趣味であった。
陸軍予科士官学校に入学した西はバイクはハーレーダビットソン、車はクライスラーを買って猛スピードで乗り回し、警察から「西を捕まえろ!」というお触れが出たほど。しかし、麻布警察署に職員宿舎を寄付したため自宅のある同署管内では捕まらなくなった、とのエピソードもある。
その後、千葉・習志野の陸軍騎兵学校に入学、そこで馬術に専念する環境を得て、オリンピックを目指すことになる。同校には日本馬術界を代表する遊佐幸平、今村安などの優れた教官がそろっていた。西はこの頃、アイリッシュボーイという馬に乗り、2m10の障害を飛び日本記録を出した。
大正13年、川村伯爵家の川村鉄太郎の四女・武子と結婚したが、当時の西の全資産は250万円で新聞の長者番付に名を連ねたこともあった。
西は士官学校を卒業後、騎兵第一連隊の少尉に任官。そこで福東号に騎乗して、石垣を飛んだり、車を飛び越したり。1m50の石垣を飛んだ際は馬もろとも頭から落下した。しかし、手綱を放さず、再挑戦し見事に飛越した時の写真は新聞やイギリスの馬術雑誌にも掲載され人気を博した。
この頃、西へイタリア留学中の今村安から手紙が届いた。「余り大きくて誰も乗りこなせないが、すばらしい障害用馬がいる」。
体高1m81もある血統証もない「ウラヌス」だった。西は自腹を切って7千リラ(当時日本での競走馬の最高価格の3倍)を払って購入し、調教をしながらヨーロッパの大会を転戦して好成績をあげた。
この「ウラヌス」に乗って初出場したロス大会で見事、金メタルに輝いたのである。
西は4年後のベルリンオリンピックにもウラヌスとともに参加し、障害団体で6位に入賞した。その後、騎兵学校の教官等を経て、軍人としての第一線に復帰した。
男爵で裕福だった西は派手な生活で、最後まで頭を丸刈りにしない伊達男で、米国通の国際人でもあった。そのため、戦争に傾斜していく陸軍内では冷遇された。
次の開催地 東京オリンピックに向けて鍛錬していたが、太平洋戦争が勃発しオリンピックは中止となった。開戦から騎兵連隊に編入されていた西は戦況の悪化に伴って昭和19年、43歳で本土防衛の最後の砦である硫黄島に配属された。
硫黄島における西
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
開戦から騎兵連隊に編入されていた西は戦況の悪化に伴って昭和19年(1944)6月20日、43歳で本土防衛の最後の砦である硫黄島に配属された。
西は死を覚悟し、ロスオリンピックで使用した乗馬靴、鞭、ウラヌスのたてがみなどを持って海を渡った。彼の指揮する部隊は満州国での騎馬隊ではなく戦車隊であった。
「愛馬進軍歌」を作詞した栗林中将と西という、馬に一番関係の深い2人が、馬とは無縁の玉砕の島に送られたのは何か因縁めいたものを関係者は感じた。
西の戦車部隊は中戦車11両、軽戦車を含めて合計23両だが、島中央の第二飛行場の東側の硫黄島神社附近と丸万部落一帯に陣形を構えた。
栗林は当初、「戦車壕に埋めて砲塔をだしてトーチカ代りに戦闘せよ」との計画を示したが、西は強く反対、半分はトーチカ代わりに、残りは戦車として機動性を生かすことになった。
2月16日、米軍の総攻撃を開始された。米戦艦、重巡らの数十隻の一斉の艦砲射撃とそのあとに上陸を始めた。このとき、西部隊は歩兵、工兵など千五百人も加わった混成部隊に膨れ上がっていた。1日約3万発といわれる猛爆で島全体がゆれ動き、摺鉢山の形も、全島の地形が変わるほどの物凄さだった。
十九日午前八時。西部隊近くの南海岸に、米軍の陸用舟艇群が一斉に突入、上陸してきた。二十日には、第一飛行場が大激戦となったが、西部隊の戦車のほとんどは敵の猛攻撃で擱座(かくざ=:キャタビラが壊れたりして動けなくなること)させられ、トーチカ代わりにして、激しく応戦した。
二十五日、西隊長は残った一個中隊を率いて第二飛行場に突入し来くる敵を一旦撃退した。このとき、逃げ遅れ火傷した若い米兵が捕虜となった。西は軍医に手当てをさせながら、自ら英語でていねいに捕虜に尋問した。
捕虜は「母は、お前が早く帰ってくることだけを待っています』という内容の手紙を身につけていた。これを読んだ西は「、いずこの国も母の思いは同じだな!?」と感想を部下に漏らした。この兵士は翌日死亡した。
ちょうど戦闘10日目にあたる二十六日には『米軍』は兵員死傷13000人、戦車破壊、擱座210両、飛行機の撃墜六〇機にのぼり、『日本側』は兵員は第一線部隊約半数が死傷、重火器のほとんど破壊、火砲は60%との大きな損害が出ていた。
米側は予想に反し、連日約1000人を越える太平洋戦争での激戦地では最大の人的被害を出して狼狽する。
28日には第三飛行場に突入してくる敵と交戦第三中隊は戦死者十数人を出し、のこる戦車三両のみとなった。三月一日、残存兵力を以って片山隊と合流した。
三月三日には、日本側の戦車と火砲は、殆んど破壊され、将校の六五%を失い、残存兵約三千五百人で、組織的戦闘の遂行は不可能となった。
戦車や火器はすでになく残されたのは凄惨な肉弾戦のみであった。
この世のものとは思われない壮絶な米戦車への体当たりが敢行された。周りの友軍の死体をかき集めて、その腹に銃剣を突きさして、臓物をすくい出して、自分の腹の上において死人とともにまぎれて眠り、カムフラージュして昼間もじっと米戦車が接近してくるのを待つ。
米M4戦車が通りかかると、1人が爆薬を抱えて戦車の下に体当たりでもぐりこんで自爆、各座した米戦車には友軍が乗り込んで、砲を逆に回して米戦車を撃つという奇襲戦法だ。これも何度か成功した後は通用しなくなる。米軍は日本兵の死体という死体を80メートル前方から届く強力な火炎放射器ですべてを焼き尽くしてせめてきた。
三月八日、千田少将らの率いる海軍航空部隊1000人が夜襲を敢行したが、米戦車隊に取り囲まれて全滅した。
三月十七日。栗林中将の壮絶な総攻撃が下され、ほとんど全員壮烈なる玉砕を遂げた。
西は十八日、「西部隊玉砕」の電報を父島あて打電した。部隊本部の洞窟内に残っていた負傷者三百人に1人づつ二日分ずつの食糧を置いて回り、別れを告げた。
20日夜、西隊長はわず六十人を指揮して東海岸の銀明水めがけて出撃し、本部の洞窟に戻ったところ、火焔放射器による攻撃で、負傷兵の大半は黒焦げになった。西も顔半面、火傷を負い、片眼を失った。
死を覚悟し、部隊長章はじめ重要書類のすべてを処分していた。内懐にウラヌスのたてがみ。片手に拳銃、片手にロサンゼルスで使った鞭。
二十二日朝、西は「突撃」と叫び、一斉に壕からおどり出て、走ったところを機銃掃射を浴び、即死した。日本軍守備隊の中に西がいることを知った米軍から「オリンピックの英雄バロン・ニシ、我々は勇敢なあなたを尊敬をもって迎え入れるであろう。出て来て下さい」という投降勧告があったという伝説が残っているが、これはあくまで伝説である。
3月22日、西竹一は突撃して玉砕した。44才。愛馬ウラヌス号のたてがみを胸ポケットにしのばせたままの玉砕で、ウラヌスが老衰で亡くなったのはその一週間後だった。
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