日本リーダーパワー史(551)「日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐①「シベリア単騎横断」や地球を1周した情報諜報活動こそ日露戦争必勝のインテリジェンス
2015/03/10
<日本リーダーパワー史(551)
「日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐①
―「シベリア単騎横断」や地球を1周した情報諜報活動の
「福島工作」こそ、日露戦争必勝の方程式
前坂 俊之(ジャーナリスト)
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<焦点:対外情報機関創設へ議論本格化、日本版MI6が視野http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0M505H20150309
山県有朋が『日本陸軍の父』、川上操六が『日本インテリジェンスの父』とすれば福島安正は川上の一番弟子「対日露戦争での戦略情報の開祖、先駆者」で、世界の情報参謀【007】のなかでも、傑出した存在であった。明石元二郎、の「明石工作」の成功させたのも福島や参謀本部のバックアップがあったからであり、世界をあっと言わせた「シベリア単騎横断」や地球を1周した情報諜報活動の影の「福島工作」こそ、日露戦争必勝の方程式だったのである。
福島安正とは、どんな男かと聴かれたら、明治日本の創設期に独学で情報を手がけて、日本の国家戦略に見合う長期情報獲得に実績を挙げた最初の殊勲者であると答えることができよう。
福島安正は明治七年、陸軍通訳として二十二歳で勤務して以来、大正三年退官するまでほぼ情報一筋に勤め、最後は陸軍大将にまでなったという異色の経歴の持主。その陸軍在職40年間のうち27年間は主として海外情報収集のために、世界を回り歩き、しかも英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語の五ヵ国語を自由に使いこなし、いつも通訳抜きの単独行動を得意としていた、という。<島貫 重節著「長期戦略のなかの諜報活動」(月刊「歴史と人物」1983年7月号)>
さらに、詳しくその経歴をみていくとー
福島安正(嘉永5.9.15(1852.10.27)-1919.2.19)は松本(長野県)出身。松本藩士の長男として生まれる。慶応一(1865)年、藩の許可を得て12歳で上京して幕府講武所で学び、同時にオランダ式軍鼓撃方を身につけ語学を習得、同4年に英語師範となる。
その年、飯山の戦いに当たり帰藩し、城下を通過する官軍諸部隊から鼓笛や楽曲を学んで自藩の楽制を定めた。その功により藩校総世話役となるが願いにより再度上京して開成校、南校などに学ぶ。1873(明治6)年司法卿江藤新平の斡旋で司法省出仕となって翻訳課に勤務する。翌年陸軍省出仕に転じ、76(明治9)年にはフィラデルフィア万博への野津道貫の陸軍使節団の随員に任じられて渡米する。
西南戦争では仕討総督府付として参加し、翌78年に中尉に任官される。戦争による士官不足のために26歳で陸軍将校に初任されるという経歴は、以後陸軍中央エリート軍人たちの中で年齢と階級が釣り合わない人物となる。大部分の武人のなかで、数少ない外交官型の人物であった。
鳥尾小弥太参謀局長や山県有朋参謀本部長の伝令使、参謀本部管西局員(局長桂太郎、教導団小隊長等を務め、82年7月の王午事変の際に朝鮮へ派遣される。その年の9月には上海・山東省を視察する083年に清国公使館付武官に任じられ、北京北方から内モンコル境界地域の調査を行う。翌年桂太郎局長下の菅西局員に戻り、甲申事変後の天津集約交渉では野津少将随員となって中國にわたりし、帰国後に日清戦争準備施策に関する意見書を上申しするなど、情報将校として頭角をあわわした。
川上が藩閥にとらわれず、すべて国家的見地にたって、優秀なものを登用した。語学の天才で英、仏、独、ロシア、中国の五ヵ国語を自由にあやつり、ネイ ティブに現地人と話ができた陸軍きっての語学の達人だった福島の才能を見込んで藩閥を超えて抜擢した。1885年(明治18)、はじめて次長として参謀本部に入った川上は、ベトナムをめぐって清仏戦争が起こり、南アジア情勢が緊迫した際、当時大尉で北京公使館付武官であった福島を早速、インドに派遣した。翌十九年、福島は詳細な調査報告を参謀本部に提出した。
川上参謀本部次長は藩閥を超えて福島を抜擢ー「破天荒な単騎シベリア横断」を命令
二十年、福島はドイツ公使館付武官としてベルリンに赴任した。ほぼ同じ頃、川上もドイツ派遣を命ぜられてベルリンに到着した。ここでモルトケに弟子入りして、モルトケ・クラウゼヴィッツの戦略を徹底して研究した。
川上は在ドイツ一年半の間、陸軍の機構、戦術その他を研究、創設期の明治陸軍に最も緊急な長期の情報戦略を練った。福島と協議して、ロシア関係の情報収集の任務を福島大尉に与えて、ロシアの東方進出の意図や進捗状況についての情報収集を命じたのである。この結果、福島は明治二十五年帰朝を利用して、破天荒な単騎シベリア横断旅行を決行することになる。これは文字通り決死の冒険ということだけでなく、壮大な情報活動であり、極寒のシベリアを単騎で横断して四百八十余日を費やして見事に成功し、1893年(明治26)6月帰国した。
その報告書の冒頭には次のように述べている。(原文)-
「抑(そもそも)モ天下人大勢、列国ノ実力ヲ熟察シ、細心精密、予メ之二備ルノ雄略ヲ 画策スルニ非ンバ、焉(いずくん)ゾ能ク蚕食呑併(さんしよくへいどん) ノ今日二在テ、吃然トシテ東亜ノ形勝 二独立スルヲ得ン。
況ンヤ交通不便ノ為メ暫ク伏在セル禍機十年ヲ出ズシテ将二破裂セントスル ノ勢ヒアルニ於テヲヤ…(後略)」
この報報告文の最後の結論は「ロシアのシベリヤ鉄道建設の完成を今後十年以内と予測し、これにより日露戦争の可能性に備え、戦略計画をたてることの急務を訴えた」
当時の日本には「情報」とか、「戦略」とかの軍事用語すらなく、このような低いインテリジェンスレベルの時代に、福島中佐のみが世界的な一級国の戦略情報家と同等の能力水準に到達していたことが日露戦争の勝利につながったのである。
シベリア横断の超機密情報
福島の単騎遠征報告書は当時軍事機密として軍中央部の特定の者にしか配布されていない。ところが、この報告書に書いていない、さらに最高の機密情報があり、山県有朋(当時はすでに首相の職を終って枢密院議長の地位にあった)と、川上操六(中将ですでに八年前から参謀本部次長として、戦略計画立案の最高責任者)の二人だけに口頭で報告されていたという。
そこにはシベリアにおけるヨーロッパ各国のスパイのし烈な長期の情報収集の実態が語られている。
「私が馬車や大陸の河船の交通機関を一切使用せず、しかも従者も連れないで単身乗馬で旅行した真の目的は、シベリヤで列強のスパイをスパイするのが主眼だったからです。
シベリヤのような奥地では列強もあまり大した情報活動はしていないと当初予測して出発したのでしたが、現地を検べてみたら、驚いたことに英、仏、独の列強は新しいもので十余年、古いものは親子二代で五十年も前からすでに派遣されており、さらに彼らはオランダ、ベルギー、スイス、スペイン等の外国人をその配下に使用してカモフラージュしており、現地に永催して現地人を多数使いながら一般住民の中に完全にとり込み、語学は方言まで使いこなし、
現地住民の福利、衛生、キリスト教の布教、学校、電信、交通等、最新 式技術指導に至るまで世話をして多大の感謝と信頼を受けていたという現況を確認して来て、私もこの認識をつかむまでに相当苦心して、やっと判った次第でした。スパイをスパイするには乗馬で行動するのが何よりも便利であり、十六カ月の長期間を毎日馬上で見えない敵と戦いながら先進国のスパイに鍛え上げられたようなもので、その御蔭でこの成果をつかみとった次第でした」(前掲島貫論文)
と、その情況を具体的に報告し、さて結論は、『日英同盟』の献策であった。
「今後十年にしてシペリヤ鉄道が周噂して欧州から露国は大軍を極東へ派遣可能と推定されるのに、その十年間にこのベテランの列強の諜者(スパイ)を向うに回しながら、わが日本人が割り込んでみても太刀打ちできないことは明瞭であり、残念ながら十年を目標とするかぎり現在の日本にはその力がありません。
したがって遅ればせながらもただちに日本からも情報部員を派遣して次の将来に備えることはいうまでもありませんが、これと平行してただちに英、仏、独のいずれかの強国を味方としてその援助を受ける方策をとる以外に方法はなく、しかもこれは絶対の急務であると確信します」(以上、前掲島貫論文)とあった。
<参考、引用文献―島貫重節著「長期戦略のなかの諜報活動-福島安正の先見」(月刊「歴史と人物」1983年7月号)
前坂俊之「明石元二郎大佐―日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀」(新人物往来社、2011年)>
つづく
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