『リーダーシップの日本近現代史』(275)★『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』 ロシア革命での情報活動①
『日露インテリジェンス戦争を制した天才参謀・明石元二郎大佐』
-ロシア革命での情報活動①
ー日露国交断絶ごは根拠地をストックホルムへ
日露戦争の国交断絶は明治37年(1904年)2月5日、宣戦大詔の渙発は同月十日であったが、この日はペテルブルグの日本公使館が引上げた日であった。
ユーラシア大陸にまたがる大帝国ロシアーオデッサの小新聞すら「東洋の小弱国日本なんか問題外!」などと書いている中で、ロシア駐在武官として派遣されていた明石元二郎大佐は大ロシアを圧する気概を詩に託していた。
城中夜半鶏鳴ヲ聴キ
枕ヲ蹴テ窓前月明二対ス
思ハ結ブ鴨江営裡ノ夢
分明一剣長鯨ヲ斬ル
ペテルブルグを引上げた日本公使館は、スウェーデンの首都ストックホルムに移された。当時スウェーデンはロシアの圧政下にあり、反ロシア感情は一般に激烈だった。この地に戦時公使館を移すことは、日本の対ロ戦略をたてる上にきわめて好都合であると考えられた。
二月二十二日、公使館員一行がストックホルム駅に到着すると歓迎の群集がいっぱい集まり、その予想外の対日好感情に、一行は驚かさられた。ちょうど田園の離宮に行く途中のスウェーデン国王は、粟野公使を迎えてかたい握手を交わした。力強く握りしめ「余は何も云わぬが余の心はこれてわかるであろう」と万感をこめてその内面の心情を話した。粟野公使は明石大佐を紹介、国王はこれまた沈黙の力をこめた握手で応えられた。
しかしこのようなスウェーデン人の好意的な感情も、表面にあらわすには、かれらの力の差はあまりにも大きかった。この国の位置からしてたとえロシアが敗北したとしても、また勝利しても、ロシアの圧迫の下に服従せざるをえない状況にあった。
こうしたことから、ストックホルムは決して任務遂行に有利の地ではなかった。しかし粟野公使は、当面の適地として、ストックホルムを移転地に選び、同時に公使は日本政府に進言して、自分に代って外交の敏腕家を公使として派遣すべきこと、また、敏腕な戦時特別勤務者を置くことを要請した。公使館開設の諸準備が整ったのち、秋月左都夫が正式の公使に任命され、戦時特別勤務者の任には明石大佐が塩田武夫中佐その他の補佐の下に、その大任に当ることとなる。
ストックホルムは、明石大佐が任務を遂行するにきわめて不便の地ではあったが、彼の大業達成の出発点となり、発祥地となったのである。
明石元二郎大佐の対ロ研究
明石大佐は、ロシア駐在武宮として任地に赴いた日から、文字通り寝食を忘れてロシア語の習得に没頭し、ペテルブルグの日本留学生を介して、大学生ブラウンを先生とし、門を閉ざし、昼夜を分かたずその学習に専念した。粟野公使は「ヨーロッパ語中でも系統を異にし、最も困難といわれたロシア語を、わずかに78ヵ月で相当の会話ができるまでに上達した」と称賛した。
すでに対ロシア特別任務を帯びていた明石大佐は、その目的の契機となるものを求めていたが、容易に機会は捉えられなかった。しかも大学生ブラウンとの会話の間に、おのずから、大学生の多くはツァーリズムに反感を抱いており、革命主義者として運動しつつある状況が、明かとなった。しかし、これら革命主義者の中枢的な人物にいかにして接近するかは、まだ何らの手がかりもない。
たまたま明治38年(1903年)春、フィンランドでこれらの革命主義者を国外に追放することとなった北方の大乱の機に乗じてフィンランドに潜行し、革命主義者のリーダーに接近しようと画策したが、明石の語学はまだ充分でなく、中止せざるを得なかった。 このころ、バログドガランダというペテルブルグ在住のオーストリー・バンガリア人が、突然、粟野公使に面会を求めて来た。
公使は、何らの紹介もなく来たため、書記官が代わって接待した。しかし、その書記官はロシア語もドイツ語もできず、コミュニケーションできない。かねて機会をねらっていた明石大佐は代って接待役になった。
パログドガランダは、明石大佐の異様な服装や態度を見て多くを語らない。明石大佐は「私は文官ではなく武官である。君は誤解しているのだろう」というと、彼は胸襟を開いて語り出した。バログドガランダは革命党員ではなかったが、革命党にかんするいろいろの情報を提供し、それ以後、緊密な連絡を取るようになる。彼から知った反政府党の首領で、ストックホルムに隠れているという者の名は、先頃のフィンランドの追放者と合致することが判明した。早速、ストックホルムに行こうとしたが、日露関係は緊迫し、ペテルブルグを離れることができなかった。
その後、日露は国交断絶し、ペテルブルグを引上げ、ストックホルムに移ったが、ストックホルムは明石大佐にとって重要な目標であると同時に、他面その地位上の不便で、大佐は悩んだ。
明石情報のネタ元は新聞情報の翻訳、速報だった
明石が留守役の参謀次長・長岡外史少将に宛てた書簡には次のものがある。当時、ヨーロッパに派遣された情報将校の情報源は主に新聞情報による「公開情報」であることが、この電文に表れている。
「…実は開戦前すでに上申に及置侯通り、通信部は欧州の重なる三大都(或は二大都)にあれば沢山にて、その上に入用は無之儀に侯。何となれば日々のことは皆ベルリン、パリ、ロンドンに音の響きに応ずるごとく伝えられ、直に新聞或は通信社に掲げられ候事にて、田舎の小都(注・ストックホルムのような)に如何に人を沢山置きても何の役に立ち不申、右の三大都より発したるものが、翌日か翌々日田舎に伝わりこれを再電するにすぎず、徒らに費用がかさむ外何の芸も無之侯。
日本では思うに諸種の点より同一の情報到着する時はこれは確実にパリよりもベルリンよりもロンドンよりもストックホルムよりもウィーンよりも皆云うて来ること合するとて、重きを置くは人情自然に候えども、本を洗えば皆同一の新聞通信員より出た事など多きは毎日の事に候。
小生は各国の新聞を取り読み居り候処、今日にては欧州各国の戦争種は何処の国も皆互いに電報にて転載し合う事ゆえ、何処も大きな都会は同様に同一の事を知る事にて、次にストックホルムの如き小都会はそれより一日か一日半おくれてその新聞に出せども字が読めぬ故、どこか外国の新聞をまたねばならず、そうすれば数日おくれてパリ、ロンドン、ベルリンの新聞にありしことを知る位のことにて、また露国とは一葦帯水なるも交通が船ゆえ常に汽車のごとく便利ならざるゆえ、
ふつうドイツを経由にて郵便などは到着する事に候間、この間、各地滞中在その遅速を図りたるに、ストックホルムはベルリンにおくること露国新聞ですら一日半おくれ侯、英国、仏国の分は申すまでもなし故に主なる参考材料はストックホルムは皆無に候。」
つづく
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