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日本最高の弁護士正木ひろし②―ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗―

   

ジャーナリストとしての正木ひろしー戦時下の言論抵抗―
 

-Hiroshi Masaki as a Best Jurnalist-Struggle for freedom of the press under wartime in his Magazine-

                                           
                                                
                                                   前坂俊之
 

1 はじめに

正木ひろし(1896-1975)は弁護士兼ジャーナリストであり、1937年(昭和12)に個人雑誌『近きより』1を創刊し、日中戦争、太平洋戦争、敗戦という暗黒の時代に、多くの知識人、言論人が戦争に協力したり、沈黙していった中で、ただ一人で良心のペンで鋭い戦時体制批判、軍部批判を書き続けた稀有の抵抗のジャーナリストである。

国家を支える最大の暴力装置はいうまでもなく警察と軍隊だが、一番過酷な弾圧のあった戦時中に、権勢並びなき総理大臣・東条英機を弾劾するなど前代未聞の命がけの言論キャンペーンをおこなった。1944年、首なし事件では警察の拷問によって死亡した人を墓から掘り出し、首を切り取って東大に持ち込んで鑑定し、警察官を告発するという超人的な勇気で不正に立ち向かった。

1945年以降は「首なし事件」「三鷹事件」、「チャタレイ裁判」「菅生事件」、「八海事件」、「丸正事件」などの数多くの冤罪事件の弁護を手がけ、正義の追及と人権救済に後の人生を賭けた。足尾銅山の鉱毒問題で戦った田中正造がわが国の公害反対運動の先駆者とすれば、正木は巨大な国家権力にただ一人で立ち向かい冤罪や誤った裁判、警察の不正と戦い、犠牲者の自由と人権の救済に立ちあがった人権運動の先駆者といえる。
 
明治以来、日本の知識人で個人で権力と真正面から対峙して勝利した人物は数少ないが、正木はその稀有の実例であり、まさに「日本の良心」と呼ぶのにふさわしい人物である。

正木についての評価は「洗練された野人、夢見る実際家、公共心を説くエゴイスト、努力家肌の才人、孤独な社交家、論理的な情熱家、日本人離れした国士、共産党嫌いの天皇制廃止論者」と弁護士・古賀正義が評すれば、歴史家・家永三郎は「正木は権力悪とのたたかいに、最も生き甲斐を見出している稀代の刑事弁護士であるとともに,『近きより』に見られるように戦前から戦闘的民主主義的ヒューマニストであり,ジャーナリストであった」として、「私の人生でこのような人物にめぐり合ったと言うだけでも20世紀日本に生まれたことを感謝したい」と最大級の賛辞を呈している。

また、評論家の青地震は「正木氏はかけがえのない人間である。おそらく半世紀後の日本は昭和の義人、正義の人としてあおぐことになるだろう。」と書いているし、牛島秀彦も「権力悪に対し断固として挺身した『数少ない日本知識人』の一人である」と高く評価している。

私が正木に初めて会ったのは一九七四年(昭和四十九)夏のことである。当時、私は毎日新聞記者をしていたが、八海事件の取材のため、勤務地だった広島県呉市から上京し、東京・中央線の市ケ谷駅からほんの目と鼻の先にあった自宅を訪ねた。壁全体をツタがおおい、今にもくずれそうなオンボロ二階建てに住んでおり、「高名な先生がこんなボロ家に・・」、と思わず胸が熱くなった。

二階に上がると正木の書斎があり、その入口には「空襲警報発令中」という看板が掲げてあった。部屋に入ると、所せましと積み重ねられた本や机の上に山積みされた資料の間に、天井からクサリが二本つるされていた。

「これ何と思う。こうやるんだよ」といきなりクサリにぶら下がり、グルりと一回転したのには度肝を抜かれた。正木はこの時七十八歳。こちらは大丈夫なのかな、とヒヤヒヤしているのに、「体を鍛えるんだ」と意気軒昂であった。若々しく、顔にはツヤがあり、血色もよく、情熱がみなぎっていた。

八海事件の取材が一段落した時、奥に引っこんだ正木はしばらくして「これを記念にあげるよ」と一枚のプリントを私にくれた。茶色っぽく変色したガリ版ずりの「近きより」であった。

正木が戦時下に独力で個人誌「近きより」を刊行し、体を張って言論抵抗したことは知っていたが、まさか、そんな貴重なものが残っているとは思ってもみなかった。
よくみると、敗戦の日、昭和二十年八月十五日の手書きのガリ版ずりであった。これを読んだ時の感動は今も忘れられない。

『敗戦日本』
日本は降伏した、神の審判は厳に下ったのである
敗北して尚お生存を続けているのは、宏大無辺なる神の恩寵である
神が日本民族絶滅一歩手前に、一度反省の機会を与えたのである
もしこの恩寵を理解し得なかったならば、直ちに 恐るべき最終の審判!
民族絶滅へと移行するであろう、
罪悪の国 日本! 遠き野蛮未開の時代は知らず
中世以後において日本ほど、愚昧にしてかつ悪徳の国があったろうか
(「近きより」昭和二十年九月号)
新聞社に入って以来、常に私の心にあった問題は「なぜ、国民やジャーナリズムの間に戦争への抑止力が生まれなかったのか」「知識人でファシズムと正面から戦った人物がなぜ少なかったのか」ということである。正木弁護士に会い、「近きより」を直接、手にし、目で見たことにより、これが一挙に具体的なテーマとなった。

正木については「近きより」の言論抵抗に象徴されるジャーナリストとしての活動に焦点を当てた研究は数少なく、今回はジャーナリストとしての正木を研究していくこと
にする。

2 生い立ち、少年時代、青春―「近きより」刊行まで

正木の生い立ちから成長、青春時代、「近きより」発刊までの人生については、この論考の主旨ではなく、また別稿にゆずるとして、簡単に年表風に記述しておく。
正木ひろしは一八九六(明治29)年9月29日、東京市本所区林町で父・義漠の二男として生まれた。義漠は幕臣の家に生まれ、正木家の婿養子になって当時、郵便局に勤めていた。母・しげは東京府立高等女学校(府立第1高女の前身)を卒業し、日本における女子の小学校正教員第一号として小学校の教師をしていた。

正木家は、祖父の家屋敷と小さな貸家二、三軒をもっていたが、三人のこどもに女中一人をかかえて、生活は決して裕福でなかった。
しげは病弱で、当時死病とさた肺結核で四年間ほど病床にあった。3人の子供がいたが、子どもたちへの伝染を恐れて、自宅を離れて神奈川県・葉山に長く転地療養していた。明治35年、しげ28歳で肺結核で亡くなったが、ひろし6歳、長男8歳、妹3歳の小さな子供3人と父と、祖母やすが残された。

正木にとって生母の記憶は薄く、「一度抱きあげられたのを覚えている程度である。しかし寂しかったにちがいなく、ある日、ボール箱に砂を入れて、母へのミヤゲとし、二年とし下の妹を連れて、葉山へ行くつもりで、道路をさまよっていたのを、つれ戻されたことを記憶している」と書いている。

正木が中学校に入った頃、父は再婚したが、「祖父や父から聞いていた亡母の像が、あまりにも美事だったためか」12(同上)継母になじむことができず、祖母が母代りを勤めた。祖母は維新前に教育をうけ、小学校の裁縫代用教員をしていたという。

一九〇三(明治36)年4月、東京市立中和小学校に入学。同42年4月 東京府立第三中学校に入学、一九一四(大正3)年3月卒業した。9月、第八高等学校理科(名古屋)に入学、エマスソ論文集(英文)に熱中し、10数年にわたって読みふけった。一九一六(大正5)年 9月、21歳で八高(理科)を退学した。

翌年9月第七高等学校(英法)に入学、一九二〇(大正9)年 7月七高を卒業、東京帝国大学法学部(独法)に入学、翌年5月、東大在学のまま千葉県立佐倉中学校英語教員となった。

一九二二(大正11)年 5月 東大在学のまま、長野県立飯田中学校に赴任。翌年(大正12)年 3月 東大法律科を卒業し、当時の制度で、弁護士の資格を得た。 28歳。9月、関東大震災で自家が全壊し父の弟一家が全滅した。一九二四(大正13)年9月 飯田中学校を辞職し、上京した。

一九二五(大正14)年 5月 東京府立第三中学校の英語教師となる。その前後、結
3
婚し、以後の数年間、生活費と画事の研究の余裕を得ることに苦労し、売文、売画、英・数の私塾の経営等に疲れ果てた。29歳で生計のため弁護士業を始めた。
一九三〇(昭和5)年3月 『上級学校選定より突破まで』を木星社書院より公刊、その中で社会批評を試みた。翌年(昭和6)年3月 東京薬学専門学校女子部英語講師を兼業する。

一九三三(昭和8)年3月、三鷹の住所を引き払って市ヶ谷駅前に移転、住宅兼事務所とした。この頃から弁護士業(民事)が繁昌してくる。一九三四(昭和9)年2月 『上級学校選定より突破まで』を『志望選定秘訣五十箇条』『受験必勝秘訣五十ケ条』の2冊に改編して刊行した。(39歳)

一九三五(昭和10)年 40歳の前後数年間は、中堅の弁護士として、世俗的には最も華やかな享楽的の生活を経験した。一方、軍や官は、天皇を擁して国民を威嚇、沈黙させた上、わがまま勝手な振舞をやり始めていた。

一九三七(昭和12)年4月5日 個人雑誌『近きより』を創刊して、時局批判を行うスタートを切った。7月 日中戦争が始まった。

正木が個人雑誌「近きより」を発刊したのは昭和十二年四月である。この時41歳。弁護士業務を始めてからすでに約12年、民事を中心とした中堅の弁護士として活躍し、約3000人の交友者があり、裁判官からの信任も篤く、法曹界で成功を収めていた。雑誌を発刊するだけの財政的な余裕があり、交友者たちと環を広げる『サロン』的な雑誌を出して、名前を売ってさらに大きな存在になりたいという野心、商売い気があったことも事実である。

正木は創刊の言葉で次のように動機を書いている。

「私はいろいろな意味から雑誌を出して見たくなった。私の本質の中にある公共心と社交性とが私の心臓を雑誌発行の方へと駆りたてていた。公共の利益が私欲や無神経のために踏み踊られているのを見ると、堪え難い憤りを感じ、心臓の血圧が倍加して来るのを覚える。時々は検事になりたいような気分になる。
本誌発刊のもう一つの理由は、私の社交性の満足である。私は私の知人三千余名に対し、私の信念に従って呼びかけ、生命の交流を生ぜしめることが、現在の私に許された生命実現の有力なる道であると確信する」

「近きより」と命名したのはカーライルの言葉に「汝に最も近い義務を果たせ、汝が義務と思う所を果たせ」「道は近きにあり」とあり、これから取った。「私はあらゆる意味に於て『近きより』始めようと思う」と書いており、正木の知行一致の精神が現れている。ちょうど時代は、二・二六事件から約一年余で、日中戦争勃発前夜の軍靴とファシズムが急速度に亢進していた段階で正木の公憤が創刊の動機となった。

3 言論弾圧、統制の暗黒時代、ファシズム勃興―

創刊された当時の時代的背景をここで見ておこう。
1937年(昭和12)4月は満州事変以降、急激に軍国主義が勃興して、国内のファシズム体制がほぼ完成し、日中戦争が起こる直前にあたり、以後、日独伊三国同盟の締結、昭和16年12月には太平洋戦争へと突入し、昭和20年の敗戦にいたる日本のファシズム体制が猛威をふるった時期と「近きより」の言論活動はちょうど重なる。

1931年(昭和6)9月、関東軍による満州事変によって中国への侵略が開始され、15年戦争の火ぶたが切られる。中国への侵略、満州国建設の対外的な膨張政策と同時に、国内では軍部、右翼による十月事件,血盟団事件、犬養毅首相が暗殺された五・一五事件、神兵隊事件など相次ぐテロ、クーデタ未遂事件などで、軍部独裁の体制が築かれ、議会政治は終止符を打ち、思想、言論の弾圧、統制が強化されファシズム体制が完成していった。

昭和時代の言論、思想への弾圧、統制の幕開けは、一九二八(昭和三)年の三・一五事件で、共産主義者やそのシンパが治安維持法で一斉検挙された。各大学の社研に解散命令が下り、河上肇、大森義太郎、向坂逸郎らが大学から相次いで追放された。緊急勅令で治安維持法が改正されて厳罰化、死刑、無期刑が追加され、全国の警察に特別高等警察(いわゆる特高)が設置され、司法省に思想係検事が配置された。

当時の世相について毎日新聞社会部長・森正蔵はこう書いている。

『満州事変以来、五・一五事件を契機に、サーベルをがちゃつかせて、現状打破を絶叫、人心を動揺させ、善良な国民を戦争へ、戦争へと駆り立て、遂には悲惨な敗戟の深淵に突き落した軍閥の罪は、憎みても余りあるが、滔々と台頭する革新勢力に便乗、阿訣迎合してうまい汁を吸った右翼浪人、ごろつき共、さては神がかりの学説を唱へて軍閥と結託、国家社会に貢献した有名な良心的な学者たちを、「赤だ」「売国奴だ」「反逆者だ」と、勝手なレッテルを貼りつけ、罵署雑言して、デマ攻撃を繰り返し、強権を発動せしめて、次から次へと社会的に葬り去った右翼の御用学者どもの罪は極めて大きい』

昭和七年の犬養毅が暗殺された5・15事件が起きるが、唯一、敢然と軍部のテロを指弾したのは『福岡日日新聞』(現『西日本新聞』)の菊竹六鼓編集局長などだけで、朝日、毎日などの大新聞や他の大部分の新聞は軍部、テロに恐れをなし、沈黙し追従していった。言論抵抗らしいものは見られなかった。

菊竹は「今回の事件に対する東京、大阪の諸新聞の論調を一見して、何人もただちに観取するところは、その多くが何ものかに対し、恐怖し、畏縮して、率直明白に自家の所信を発表しえざるかの態度である」(社説「騒擾事件と与論」(五月十九日)と新聞の態度を批判し「言論機関として信念を失い、魂を売った」とまで痛憤している。
5
菊竹の軍部批判に対し久留米歩兵第十二師団や在郷軍人会、右翼などから激しい抗議が起こった。同師団参謀らは論説の取り消しを求め、「社説は軍部を誹謗するものであり、取り消せ」「軍部を攻撃する輩をピストルで撃ち殺してやる」と脅した。しかし、菊竹はものともせず強い調子で論説を書き続けた。

1933
年(昭和8)二月、プロレタリアート作家の小林多喜二が虐殺され、共産主義者、その同調者が大量検挙されたが、満州事変の起きた31年から34年の4年間に治安維持法での検挙者は全国で4万2967人にのぼった。

共産主義が弾圧され、ほぼ一掃された五年後の一九三三(同八)年五月の京大・滝川事件では思想、学問の自由、自由主義にまでターゲットが拡大され、思想統制の第二幕に入る。
マルキシズムの浸透を防ぐために、反体制とは全く関係のない京都帝国大学法学部・滝川幸辰教授(刑法)の自由主義的な刑法解釈が血まつりに上げられた。「自由主義」さえ〝危険思想″のレッテルをはられるほど思想統制が強まれば、当然のこととして学問、研究の自由は死滅する。

滝川教授の休職の発令を受けて、京大法学部教授以下三十九人の教官は敢然たる抵抗の意志表示として辞表を提出し、結局、佐々木惣一、末川博ら六教授が免官された。学問の自由と独立は消滅していった。
同年十二月、陸海軍両省は「軍部批判は軍民離間の策動であり断固排撃する」との声明を出した。軍部と民衆を離間させるような言論は厳しく取り締まるということで、新聞は五・一五事件などテロに震えあがって、手も足も出なくなった上に「軍民離間」に引っかかることを恐れて一層、口をつぐんでしまった。

三五年(同10)、政治問題化した美濃部達吉の天皇機関説事件は思想統制の第三幕であり、一連の総仕上げであった。自由主義や民主主義はもちろん、批判精神そのものが「国体明徴」の血祭りに上げられ、学問は一挙に一世紀以上も前の暗黒時代に逆戻りした。しかし、東大法学部の教授で誰一人抗議の辞職するものもなく、滝川事件の時のような組織的な抵抗は全く起きなかった。

天皇機関説の禁止はファシズム化に同調しないものは一切「国体」の名において強制的に排除する運動であった。日本を代表する憲法学者が衆人環視のなかで無法な
リンチを受けたわけだが、国民は息をひそめて、その残酷な集団リンチを見守り、美濃部への同情以上に、狂言的に攻撃する側に恐怖し、大勢は保身で盲目的に追従した。中世の〝魔女狩り″と何らかわるところはなかった。

中島健蔵は「国体明徴」の役割をこう位置づけた。

「『国体明徴』は、日本人の思想の自由の息の根をとめてしまった。それは少数の狂信者の力でもなく、軍の一部のむり押しだけでもなく、それが、軍人をもこめた巨大な官僚組織の職務となり、国民大衆の多くがこれを盲目的に支持していたからである。なかば催眠状態に陥らされ、『覚めた半分の苦悶』になやんでいる人間たちにとっても、国民大衆を向うにまわして何ができたろうか」

昭和11年は動乱と恐怖のファシズムの分岐点となった年であり、国内的には準戦時体制確立された年でもある。二月二六日のいわゆる二・二六事件は陸軍の皇道派の青年将校と右翼の北一輝、西田税らによって起こされ、反乱部隊が首相官邸、陸軍省などが襲撃され、渡辺錠太郎教育総監、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らが殺害され鈴木貫太郎侍従長は重傷を負った。朝日新開も国賊として襲撃され、軍部のテロに国民各層は恐怖に震え上がった。

二・二六事件で言論の自由は完全に息の根を止められた。銃口を突きつけられた新聞は恐怖に顔が引きつり、八百長的な笑いを浮かべる「悲しきピエロ」になり下ったと作家・広津和郎は書いている。

「……日本のあらゆる方面が、みんなサルグッワでもはめられたように、どんな事があっても何も言わないという今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないという事はたまらないことです。信じられない記事を書く事に煩悶している間はまだいいと思います。併し信じられない記事を書かされ、『何しろこうより外仕方がないから』と、いわんばかりに八百長的な笑いをエヘラエヘラ笑っているに至っては沙汰の限りです。」

同年五月、陸軍省は官制を改正し、備考に「大臣及び次官に任ぜられる者は現役将官とす」を加え、その後の軍部独裁のキーワードにもなった軍部大臣現役武官制を復活した。これが広田内閣を自縄自縛して総辞職に追い込み、またその後継内閣に擬せられた宇垣一成内閣の流産した原因ともなった。これで軍部が政治的制覇を握ることになる。
 
昭和十二年一月二一日、衆議院で政友会・浜田国松議員から寺内寿一陸相への質問で、軍部を侮辱した言葉がある、なしをめぐって、「もし侮辱の言葉がなかったら、寺内陸相、君は割腹せよ」と厳しく迫った、いわゆる『腹切り問答』事件が起こった。この浜田国松の反軍演説は議会における最後の自由主義的レジスタンスとなった。
 
                                  (つづく)
 

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