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日本リーダーパワー史(134) 空前絶後の名将・川上操六(23)日本のトップリーダー養成はなぜ失敗したか

   

 日本リーダーパワー史(134)
空前絶後の名将・川上操六(23)日本のトップリーダー養成はなぜ失敗したか
<日本のトップリーダー養成所・陸軍大学校の失敗>
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
日本は総理大臣が統括したしっかりした組織の『国家戦略本部』、戦争や国家危機の場合に即リスク対応する米国的な『国家安全保障会議(NSC)』なるものは、歴代内閣でいろいろ検討されては、きたもののいまだにない状態と言っていい。
 
今回の3・11に示している政府、各官庁、自衛隊の連携の問題は毎回指摘されながら、
先延ばし、不決断され続ける結果の余りに大きな国家崩壊に直結した油断、政策ミスに慄然とする。
 
明治から昭和敗戦までは国家戦略を担った参謀将校の養成機関は陸軍大学校であった。軍人トップリーダーの幹部養成教育機関だが、ここで行われた教育のしかたが、日本の興亡に直結したのである。
 
同大の卒業生は「天保銭組」と呼ばれた。徹底した独善的なエリート教育がおこなわれ、成績上位6名は天皇から恩賜の軍刀がさずけられ、上位12~3名は外国留学組となった。卒業時の成績順が最後まで決まり、エスカレート式に、特急で出世していった。実力とも学力とも比例しない、学歴、肩書重視の「天保銭組」「軍刀句組」が肩で風を切った。
官僚養成学校の東大法学部卒がペーパーテストのみで中央官庁のトップに三段跳びして、エリート風、天下国家を動かしているのは自分たちと独善的になり、これと同じ官学偏重、官尊民卑の伝統が明治以来、今なお現在までも濃厚に続いているのである。
 
これに閉鎖的、封建的な藩閥意識、郷党意識、学閥意識が重なって、陸軍の独断、暴走が起こっていく。ここでは、その『参謀本部の父』といわれる川上操六の子分の様子を見て行く。陸大エリートの大部分が、ひとを動かす術には全く無知で、リーダーシップも人心収攬術も学ぼうともしていない、日本のトップリーダ―養成の欠陥が語られている。
 
 
陸軍大学校を首席で卒業した恩賜組の東條英数
 
 東條英数は東條英機の父。陸軍大学校を首席で卒業した恩賜組の秀才だが、川上時代の参謀本部第四部長で、専ら戦史の編纂を担当し、兵学の素養が部内でも一番深かった。
 
しかし、中尉時代より隊付したことがないので、単に学問上の本をよんだだけの非実践的な戦術家に止まっていた。山県、大山、児玉源太郎、川上らは
実戦をつみながらそのの中で、勉強し、戦略作戦を成功させて勝利をおさめた。単なる、勉強組ではなかった。東條は違っていた。
川上を神のごとく信奉すること著しく、川上没後、参謀本部を追われ姫路の旅団長となり、日露戦争に出征するや、単に本を読んだだけなので実際に、部下を統御する方法を知らないので、戦地での評判は大変悪わるく、そのため、途中で帰還命令が出される始末だった。
 
部下を統御できないのは東條一人ではなかった。陸軍大軍校出身の参謀たちで同じような指揮官失格組が続出した。学問はガリ勉でもできるが、部下を動かし、戦争での指揮官として人格、リーダーシップを備え、この人のためなら死線も越えるというような将官は少ないのである。
 
彼らは軍隊を動かすには単に一遍の命令を発するだけで足りると誤認していた。昔からの英雄のリーダーシップ、戦国武将の人心収攬術や軍略の古典さえ研究しているものは少なかった。このため、帷幄(「帷をめぐらせた場所」のことで、転じて天皇の統帥をさす言葉、作戦を立てる所の意味で参謀本部をさす)にあって、机上のプラン、作戦にたけて、好成績をあげたものも、一旦、戦地に出されて隊付となって命がけの実戦の指揮をとらせると落第組の指揮官が続出したのである。

この点はややもすれば、単に理論にのみに走る陸軍大学出身者の大いに猛省を要する点であるーと指摘されている。

これは、現在の日本のあらゆる点に通じる問題である。ドラッガーの本を何冊も読んで、ハーバード大ビジネススクールで勉強したからといって、それだけで経営者として成功するわけではない。結果こそ大事であり、経歴など問題ないのだが、その実力主義、成果主義と結果責任の追及が行われてこなかったのである。
確かに、東條は論客であり、その健筆な点、筆も舌峰も鋭い点では陸軍部内で随一だった。現役を退いたあと常に洋書の戦術書をひもとき、新しい知識の吸収することを怠らなかった。その研究の結果はすぐれた戦術書を次々に出版した。
 
東條は自分を評価してくれたボス・川上を崇拝すること一方ならず、ことあるごとに川上閣下の名を口にした。彼が参謀本部から放逐されたのも、このせいで、川上閣下の意思うんぬんを常に口にし日清戦争の戦史編纂の事業を縮小のすることに頑強に反対したためだった。
 
東條の欠点は論戦を好み、往々、民間の論客を相手に国防論を戦はせた。しかも、その主張の説く所は往々にして、陸軍に偏して国防の眞蹄が外れることもあった。しかし、流石に第一流の兵学家の所論だけあって、傾聴すべきもの少なくなかった。
 
この東條のライバル・敵が寺内正毅であった。寺内によって参謀本部を追われ、現役より葬られた。もとより、彼が葬られた直接の原因は駐韓軍司令官当時の長谷川好道と衝突したことであったが、寺内ににらまれることがなければ、まだその命脈は保たれたであろう。
 
結局、外から見ると、東條も寺内も事務能力には優れていても、器量の小さい、神経質な人物で似た者同士の反発、ケンカであった。
 
 寺内は陸軍大臣としては成功したと言えるが、参謀本部次長としては、終始、悪評の下に葬り去られた。これも当時の参謀本部が有数の逸材がそろっており、リーダーの経綸、抱負もない寺内の指図など受けたくもないという反発があった。
しかも、田村 怡与造がこれまた急死すると、後継者としてこれ継ぐことのできる名望と手腕を兼ね備えた者はおらず、寺内と太刀打できる力量のある者は田村のみで、あとはことごとく寺内以下のものばかりであることが判明した。
 
川上が晩年まで自己の子分として信頼していたものは大生定孝(福井県出身、陸軍大佐. 参謀本部総務部長.兼大本営副官兼管理部長など)、伊地知幸介、田村怡与造、福島安正の4人であった。これに明治22年以降には小川又次が加わる。
 
 小川は当時局長として参謀本部にあったが、システマチックなの頭脳を有し、見識に富み、その理論の組み立ては堂々たるものがあり、俄然として頭角を現した。さすがのメッケルも彼には一目置いたほどだったので、川上の信任を得て縦横の手腕を振るい、部内では彼に対抗しうるものはいなかった。
 
当時の参謀本部の各局長、各師団の参謀長を通じて小川と互角に太刀打できる力量をもったものは唯1人、高島信茂(仙台鎮台参謀長、陸軍士官学校次長、陸軍大佐)
だけだったが、三浦悟楼系の人物なので、三浦の学習院長になると、彼も引っ張られて同院に転じて、その後の参謀本部は小川の一人舞台の観があった。
もし、小川が順調にすすみ、川上が参謀総長に昇任すれば、その次長の椅子にすわってもよかったが、小川が余りに弁論をこのんで他と衝突することがおおかったのと、金銭的な問題もあった実現しなかったと言われる。
 
 
 
<参考文献  安井 滄溟『陸海軍人物史論』(博文館、大正5年)、日本図書センター復刻>

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