明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変①』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった』
2017/08/25
明治150年歴史の再検証
『世界史を変えた北清事変①』
義和団事件の発生
1897年(明治30)年11月1日に、山東省巨野県菏沢市(かたく-し)で義和団という宗教結社によって、ドイツ人宣教師2人が殺害される事件が起こった。
日清戦争後の「ドイツ、ロシア、フランス」による三国干渉で勝利した日本に軍事攻撃を突き付けて、遼東半島の返還させた、ハイエナ・ドイツは、虎視眈眈と利権獲得の機会を狙っていた。
膠州湾租借
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%86%A0%E5%B7%9E%E6%B9%BE%E7%A7%9F%E5%80%9F%E5%9C%B0
もともと19世紀にビスマルクらによって「大ドイツ帝国」が成立したが、中国の植民地獲得レースでは英国、フランス、オランダ、周辺各国よりも大幅に遅れをとっていた。有名な思想家のマックス・ヴェーバー
も母国経済を発展させドイツ製品の輸出市場としても中国市場の植民地獲得政策を推進するように国に求めていた。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は
「ドイツ人宣教師の保護」という名目で上海にいたドイツ東洋艦隊に11月7日に膠州湾占領作戦を開始するように命令、「われらの権利を阻害する者は、武装した拳で撃つべし」と皇太子を派遣し、暴徒鎮圧の砲艦外交を展開した。
この「武装の拳」は、第一次世界大戦の「条約は一片の反古なり」の言葉とともに外交史上に残る有名なカイゼル主義(強権主義)である。皇太子の乗ったドイツ東洋艦隊は膠州に向かい、同月14日には膠州湾を占領した。
ドイツは、
①被害者の遺族、破壊された教会堂などの建設費約七万両を支払うこと
②青島占領の軍費を償還すること
③山東省内の鉄道敷設権、鉱山採掘の専有権をドイツに付与すること
④膠州湾をドイツの海軍根拠地とし、九九年間の租借権をドイツに付与すること
を要求した。
清国はあまりに不当な要求に朝野をあげて憤激し「夷(外国のこと)をもって夷を制する」の中国の常套的な外交術でロシア、フランス、イギリス、アメリカと次々に応援を頼んだが、いずれも同じ穴のムジナ(植民地帝国)だけに、支援してくれるはずはない。
泣く泣く、翌明治31年3月6日、ドイツ帝国と独清条約を結び、膠州湾を99年間租借させることになった。
このさらに上をいったのがロシアで、1897年年12月、突然、東洋艦隊九隻が旅順港に入港し、ドイツとの膠州湾問題が片づくまでの臨時の処置であると通告して、居座り続けた。ロシア流の恫喝外交で清国を脅迫し、翌年3月には、
①旅順、大連、関東州の二五年間の租借権を獲得する
②付帯する鉄道権益の獲得と、シベリア鉄道の支線を関東州に延ばす
などの「旅順大連租借条約」を結んだ。
その後、1900(明治33)年には、ロシアは韓国の馬山浦付近を租借、1901年にはシベリア鉄道をウラジオストックまで開通させた。
フランスもこれに追随して、一八九八年四月、広州湾の租借権(九九年間)を得た。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B7%9E%E6%B9%BE%E7%A7%9F%E5%80%9F%E5%9C%B0
一方、イギリスはロシアの旅順租借は極東における均衡を破壊するとして日本軍の撤退後、旅順と同一条件で威海衛を租借すると清国に迫り、これまた同年7月、威海衛租借権(25年間)を獲得した。
http://www.geocities.jp/keropero2003/china/weihaiwei.html
弱小国(清国)にささいなことで因縁をつけて、金や土地を奪っていく「帝国主義・植民地主義国家」(イギリス、ロシア、フランス、ドイツ)の行動パターンは、かつてビスマルクが忠告した通りの「ダブルスタンダード(2重基準)」で日本は見事にだまされたのである。
この一八九八年は、アジアだけではなく世界中で列強による侵略の嵐が吹き荒れた年でもあった。四月にアメリカはスペインと開戦(米西戦争)、七月にはハワイを併合した(日本・ハワイ関係史では一八八二年に、ハワイのカラカウア王が外国一昔として初めて来日し、欧米列強の支配に対抗してハワイと日本の合併を提案したが、これは日本がそこまでの力はないと拒否していた)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88
九月、イギリス・エジプト軍がスーダンを占領、一二月には米西戦争の講和が成立し、アメリカはスペインからプエルトリコ、グアム、フィリピン、キューバを順次獲得した。
一方、英国は南アフリカで危機に遭遇した。南阿戦争(ボーア戦争)の勃発であり、苦戦である。
遠いボーア戦争の日本への影響
ボーア戦争とはhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
でこれが日本に大きな影響を及ぼしたことはあまり知られていない。
ボーア戦争は米西戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%A5%BF%E6%88%A6%E4%BA%89
のあった1899年(明治32)年、アフリカ大陸南部において勃発した。
以下は杉田一次『国家指導者のリーダーシップ」によると、
ボーアとは南アフリカのトランスバールなどに住むオランダ系白人の呼び名であり、英国が南アフリカの豊富な金、ダイヤモンドの独占を企図し、同地方の支配をもくろんで起こしたもので、白人相互の植民地再分割の戦争であった。
一八九九年(明治32)10月2日に戦争は始まり、英国軍は苦戦を強いられ一九〇二年五月三一日に終結するまでに二年八カ月を要した。
英国は約二〇万の大軍を投入した。アフリカ大陸は日本から遠く離れた別世界であったので日本からの関心は少なかったが、英国にとっては大きな負担であった。
英国は当初、ブラー大将の指揮する一個軍団(三個師団と騎兵一個師団)を派遣した。戦況は悪化にして欧州各国より非難を受けたが、一八九〇年一月ロバート大将を軍司令官(キチナー少将を参謀長)にし、さらに六個師団を増派して戦勢を挽回し、六月プレトリアを占領し大勢を制した。
しかし、その後もゲリラ戦が行なわれ、年末にはさらに英軍三万を増援せざるを得なくなり、ようやく一九〇二年五月になって講和となった。英軍の死者約六〇〇〇、負傷者約二万三〇〇〇にのぼった。
日本は日清戦争当時、独仏露の三国干渉を受けたが、英国の態度は好意的であったこともあり、政府のボーア戦争に対する態度は親英的であった。南阿戦争には観戦武官として平岡八郎大尉が派遣された。
このころ、ロシアの極東政策が積極化しっつあり、日英の接近が政府(外交官)間で具体化され、一九〇一年四月七日、英外相と林董公使との間で会談が行なわれた。その席上ランズダウン外相は、「極東での両国の利益保護のための何らかの″永久協定″を考える必要がある」と発言し、両国は日英同盟へと進むのである。
(以上は杉田一次『国家指導者のリーダーシップ」原書房、1993年、43-44P)
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当時の日本人はボーアの方を応援
日本政府とは別に、当時の日本人の多くはボーアの方を応援していた。
1899年10月、南アフリカのトランスバール共和国に侵略を開始したイギリス軍は、キッチナー将軍指導のもとに一九〇〇年(明治33)九月には共和国を征服し、その併合を宜言した。
しかしボーア人の頑強な民族解放ゲリラ戦は、その後に一層、激しくなり、イギリスの大軍を各地に撃破して、大英帝国を苦しめた。
遠い極東の島国日本でも、この戦争の推移を複雑な思いをだいて見守っていた。日本人の心理にはわずか4年前の明治28年(1895)の日清戦役後の三国干渉の生々しい記憶が残っていた。白色人種は、イギリスをふくめて、生馬の眼を抜くような弱肉強食の怪物というイメージで考えられていた。人びとは心ひそかにボーア人のたたかいに声援をおくった。
イギリスは三国干渉の当事者ではなかったものの、日本を助けなかったし、かつて駐日外交団の首席として、明治政府を使用人のように叱咤したハリー・パークスhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B9
の印象は、なお伝説的な畏怖の像として青年たちの心に刻みつけられていた。彼らはいずれも、イギリスを呪うあの「ノルマントンの歌」http://www.nicozon.net/watch/sm12160617
を耳にして成長した世代であった。
ノルマントン号事件
当時明治学院の学生であった生方敏郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%96%B9%E6%95%8F%E9%83%8E
は、つぎのような思い出を記している。
「それ(南阿戦争)は人も知るごとくオランダ人の南阿の植民トランスバールの人民と、セツル・ローズのごとき大資本家の利益のために戦う英国との戦争だ。オランダ人は自由のために、イギリスは強欲のために、オランダ人はきわめて少数で、イギリス人は十五万の大軍を擁し、しかもその百分の一に近きオランダ兵のために、英軍は戦うごとに敗けをとった。
にくさもにくき英国である。それがかくのごとく敗北するのだ。誰か痛快を叫はずにいられよう。トランスバールの人びとは、じつに日本人のために敵をとってくれたような気がするのだ。
けれども多勢に無勢、よく半歳をささえたが、ついにやみやみと征服されてしまった。できることならわれわれは義勇軍を組織してトラソスパールへ行きたかった。学院の教授水戸幾次郎先生は悲憤憤慨、学科をそっちのけにして、毎日のようにわれわれに南阿戦争の模様を語った。南阿の将軍タロンジェなどは、ずいぶん人気があったものだ。」(生方敏郎『明治大正見聞史』中公文庫)
青年たちも、日本の民衆も、先進帝国主義諸国にたいしてなお深い不信と怨恨の感情をいだいていた。彼らの心理は、つぎのような軍歌にみごとに象徴されている。
「西に英吉利(イギリス)北に露西亜(ロシア)油断ななせそ国の人
表に結ぶ条約も 心の底は測られず 万国公法ありとても いざ事あらは腕力の弱肉強食をあらそうは 覚悟の前のことなるぞ」
「ノルマントンの歌」
http://embed.nicovideo.jp/watch/sm12160617
しかしこの心理は、だからこそ日本は強くならなければ
ならない、だからこそ日本は西欧帝国主義の技能をすみやかに学びとらねばならないという、虚栄と膨脹の心理にたやすく交換しうるものでもあった。
<以上は『日本の百年7巻 明治の栄光』(筑摩書房、1972年刊、11-13P)>
一方、清国同様に被植民地の危機迫る日本は西欧列強のパワーゲームに翻弄される弱小国の悲哀を胸に、軍事力の増強以外にこの国難を脱する道はないと「臥薪嘗胆」して復讐戦に備えていった。
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義和団の乱の勃発
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
こうした『弱肉強食』パワーゲーム、列強のあくなき侵略に対し、ついに清国民の怒りは爆発した。
1900年(明治33)5月、義和拳という武術をマスターすれば鉄砲も刀も怖くないという迷信的な政治秘密結社『義和団』の暴徒が「扶清滅洋」(清国を助け、外国を滅せよ)をスローガンに山東省内で排外運動を起こし、
キリスト教徒を次々に殺害し、教会、鉄道、電線など西洋的のものを破壊し、北京に迫まり、ついに20万人以上の暴徒と清国軍が、各国大使館のある北京城を取り囲む事態に発展した。
つづく
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