『なぜ日中は戦争をしたのか、忘れ去られた近現代史の復習問題』―「日清戦争の引き金の1つとなった『長崎清国水兵事件(明治19年)の5年後、再び日本を震撼させた清国艦隊『巨艦』6隻の東京湾デモンストレーション」
『なぜ日中は戦争をしたのか、忘れ去られた近現代史
の復習問題②』―
『日清戦争の引き金の1つとなった『長崎清国水兵事件
(明治19年)』の5年後、再び日本を震撼させた
清国艦隊『巨艦』6隻の東京湾デモンストレーション
再び、日本を震撼させた清国艦隊
1886年(明治19年)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした「長崎清国水兵事件」から5年後の1891年(明治24年)に丁汝昌のひきいる北洋艦隊が、再び、今度は正式に日本を訪れた。
日本ではまだ見たこともない7400トンの装甲戦艦の定遠・鎮遠をはじめ、経遠・来遠・致遠・靖遠の六隻の新鋭艦が、威風堂々長崎を訪れ、ついで六月三十日、神戸に入港した。
この年二月、ロシア艦隊を迎えて大津事件を起こし、心痛をきわめてからわずか半年ののちに、神戸市民はまた清国海軍のデモンストレーションを眼前に見なければならなかった。
「わが警察においては、艀(はしけ)業者、ちゃぶ屋、寄席、人力車夫等に清兵に無礼の振舞いをしてはいけない注意を促し、二千余名の乗組員一時に上陸すると、あるいは騒擾、トラブルが発生する恐れがあるとして、甲乙両組に分かれて交互に上陸するように交渉し、市中各所に多数の巡査を配置し、万全の警戒態勢をとった。」(『神戸開港三十年史』一八九八年)
在留清国人たちばかりが「喜悦と意気とは、にわかに上がり、辮髪を揺るがせて舞い踊るものがあった」という。
このとき、大阪朝日新聞記者・藤浪健二は、丁汝昌と会談をゆるされた、ただ一人の新聞記者として、旗艦定遠を訪問した。
「綿の紋付、仙台平の袴、右手に白扇をかざしながら小蒸気を乗りすてて左舷から昇り、三度階段を下って提督室に導かれた。(略)
室内は十畳ぐらい、 もえぎ萌黄(もえぎ)の絨毯をしきつめ、大きな唐草に革張りの支那椅子五、六脚、万事お約束の支那風である。その室の正面、安楽椅子に悠々とよりかかっていたのが丁汝昌その人であった。満面に笑をたたえた五十いくつかの偉丈夫、会見までの交渉の厳めしかったのに反し、自画の一新聞記者を遇するになかなか愛嬌がある。笑声ゴウゴウ、葡萄酒をすすめ、葉巻をすすめ、ビスケットや緑茶をつぎつぎに運ばせてくれる。
話は当面の問題にふれて、新聞には書かないようにというきわどいところまで進んでいったが、すでに日清開戦を予期している彼は、(略)日本全図を卓上にひろげながら、日本海軍の根拠地-地形-船渠(ドック)などについてずいぶん熱心な質問の矢を向けた。」(藤浪健二「丁汝昌を定遠に訪う」、『新聞記者打明け話』一九二八年)
北洋艦隊は、さらに七月五日、東京湾にのりこんで横浜港に十日あまり停泊した。新聞は連日、艦隊の動静を伝えた。そのなかには「清国軍艇、何のために来る。見せびらかしか、示威運動か、ただしは演習すんでの気ばらしか」(「日本」七月十六日)などというくやしそうた記事もあった。けれども、そこらへんが、多くの日本人のいつわらぬ気持かもしれない。
丁汝昌は入京して参内し、また、政府高官、貴衆両院議員、新聞記者に招待状を発し、旗艦定遠で懇親会を開いた。
東京日日新聞(現毎日新聞)社長で、衆議院議員の閑直彦も招かれた者の一人だった。
「鄭重なる饗応をなしたるうえ、艦内をくまなく案内して、巨砲の機械的操縦の状況を示して、どうじゃ、えらいものを持ってるだろう、とても、日本はおよばないぞと言わぬばかりの態度を示されたり。
余もまた招かれし一員にてつぶさにこれを見るに、なるほど、大艦、巨砲その威力はたしかに認められるも、その乗組将士の状態のごときは、士気旺盛なりとは認めがたく、実戦に臨みてはわが日本将士の敵手にはあらざるべしとは、早くも看破したるなり。
われわれ議員の一団は、それより、わが軍艦に乗り移りて、くまなくわが指揮官より案内せられる。くやしきことながら、いま、支那の戦闘艦を見たる眼で、この日本軍艦を見ては艦も小さく、砲も少なく、これでは一朝事あるときにはゆだんはできぬ。何とか考えねばならぬとの感を起こした。清国側がわれわれを招待したのは、その大を誇り、その威を示すにあった」(関直彦『七十七年の回顧』一九三三年)
この中で、関社長はその大艦・巨艦に比べて、清国乗組み士官の士気のゆるみを一目で見抜いたが、それと同じく艦内を視察した東郷平八郎中佐は清国水兵たちが洗濯物を艦砲にたくさんかけて干してあったり、そのルーズな態度や規律のなさに接して、勝利を確信したという。
清国水兵たちは、長崎で日本人と衝突したので神戸では上陸をゆるされず、横浜では百名程度にわけて上陸した。
彼らは浅黄色の羽二重金巾の服に赤木綿の帯をしめ、麦藁帽といういでたちで、おとなしく居留地南京町界隈を見物して、おおかたはコウモリ傘をみやげに持ち帰った。(「日本」 七月十三日)
上泉徳弥(日露戦争時は大本営運輸通信部参謀、海軍中将)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B3%89%E5%BE%B3%E5%BC%A5
<長沢直太郎編『上泉徳弥伝』上泉きう、1955年、非売品>によると、
1891年(明治24)7月、提督丁汝昌が清国北洋艦隊を率いて来朝し、横浜、呉等においては何れも大歓迎会が催されたが、長崎においては、前回、来朝の際における清国水兵の暴行事件に対する反感より、歓迎はおろか、彼等が上陸すれば復讐する者が出てくる有様であった。
上泉少尉は「折角親善を標ぼうして来朝してくる者を遇する道ではない」と彼等が日本を去るに際し、最後の交歓をなすべく率先奔走したため、遂に支那側に非常な好感を与え、それがため丁汝昌は2,3日後に迫っていた万寿節を長崎で迎える事として、帰航延期を本国に電請し、盛大な返礼の宴を開いた後、帰航の途に上った。その当時の話を長沢中将の手記により左に記す。
我が艦隊、武蔵、葛城、外1隻(天龍か)長崎港に入学。(艦隊6月中旬より隣邦諸港へ回航すとある故、多分月日その頃なる可し。)早速上陸して1杯やると料亭での噂で・今度支那艦隊が入港すれば、陸上の壮士連が兵員に一挙、大打撃を与えんとの計画ありとの事。
国策上、わが艦隊は支那艦隊を歓迎,交歓せよとの命を受けて此所へ来たのに、陸上にかかる企図があることこそ由々しき一大事なり直感す。(これは先年、支那艦隊が長崎へ入港した際、兵士が上睦して各所に横行、乱暴を働き、長崎の若者たちをおおいに憤慨させたことによる。)
よって帰艦後、早速艦長に報告し、対策を進言した。その意見は、支那艦隊が入港すれば、われより進んで司令官以下士官以上に対して大歓迎を行うというものであった、艦長は上泉少尉の意見には賛成だったが、「接待費がないので如何ともしがたい」と積極的でなかった。当時艦長一ヵ月の外国人接待費はわずかに金五円で、事情により三ヵ月分までは支出できることになっていた。
艦隊三隻3ヵ月分全部を集めてもただの45円である。
今日より考えれば全くおかしなことだが、この大事をただ金がないという理由だけで傍観すべきでないと決心した上泉少尉は、「金がなければ鎮守府へでも申し出て援助を受けては如何、命令があれば進んでその任に当らん」と申し出た。
そこで小蒸汽艇を出すから乗って鎮守府へ行き交渉せよとの命令をうけた。長崎から汽艇で大村湾へいき、そこより鎮守府まで徒歩で行った(その頃は汽車も通じていなかった)。
鎮守府では参謀長にあって意見を述べた。参謀長も長官に申上げ、意見には同意したが、さりとて鎮守府が主としてそれに当る訳にはいかぬが、先ず金五十円を贈って艦隊の仕事を援助するとの事で50円もらって帰った。このような事は現時(昭和前期)の少尉ではほとんど考えられぬ事である。
とにかく、概算で約百円の金が出来た、このお金を基として実行に着手するのであるが、ほとんどすべてが上泉少尉実行委員長の形なのである。先ず県、市を説いて協力させ、会場は長崎遊郭とした。
(このような事はおそらく空前絶後であろう。)娼婦、芸妓総員が接待に奉仕の事、屋外に大食卓を設け、提灯をつるし、酒は勿論、肴として支那人大好物の料理
大●(骨に盧)=たいろう(牛頭を釜で骨の健で煮る料理、支那人には大礼に饗するもので大した御馳走であるが、当時日本人は牛の頭など食べぬ故、極めて安価に求められたるを好都合に考えられたのである。)を調へ、日支の国旗を交叉し、長崎全市が艦隊に協力、準備に万全を期し、支那艦隊の入港を歓待したので、支那の司令官丁汝昌以下士官全部大悦びにて出席し、余り歓迎が御気に召し司令官以下全部がそのまま陸泊したとの事、それだけ大満足であった。
その結果、もちろん日本艦隊の士官以上を御礼の意味で艦上に招待し、上陸兵員には厳命を下したるため、先年の如き騒動もなく彼我交歓極めて円満に遂行されたりとの事、これは上泉将軍ならでは出来なかったことと思われる。
<以上は長沢直太郎編『上泉徳弥伝』(上泉きう、1955年、14-15P)>
●日本政府は早速、清国に対抗して海軍拡張に取り組んだ
清国艦隊の威容を眼のあたり見せつけられた日本の政府は、翌年の第四議会で、さっそく、甲鉄艦二隻の新造を含む海軍拡張予算を組んで議会に提出した。議会の多数は軍艦建造の必要は認めながらも、海軍部内の腐敗を理由に削減を要求し、政府と対立したまま双方ゆずる気配もない。
それのみか野党の「民党」は内閣弾劾上奏案を提出し、多数でこれを可決してしまった。窮地に立った首相・伊藤博文はついに窮余の一策として天皇に詔勅を奏請した。
「国家軍防ノ事二至テハ、一日ヲ緩クスルトキハ、或ハ百年ノ悔ヲ遣サン。朕、茲(ここ)に内廷ノ費ヲ省キ、六年ノ間、毎歳三十万円ヲ下付シ、又文武ノ官僚二命シ、特別ノ情状アル者ヲ除ク外、同年月間、其ノ俸給十分ノ一ヲ納レ、以テ製艦費ノ補足二充テシム。」
文字どおり鶴の一声である。毎年、皇室費を節約して三十万円提供し、官吏の俸給一割を天引きして製艦費に供出するから、あとの費用は承認せよ」との詔勅である。議会はこの奉答文を可決して、さしもの動乱議会も幕となった。
<参考文献 日本の百年8巻「強国をめざして」筑摩書房 1963年 132-134P>
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