日本リーダーパワー史(452)「明治の国父・伊藤博文が明治維新を語る④」下関戦争の真相はこうだ。
「明治の国父・伊藤博文が明治維新を語る④」
◎<伊藤博文がいなければ、明治維新の開国・西欧文明の受容・明治
憲法の制定、議会制度の導入、初代総理大臣に就任し、元老として
日露戦争勝利の外交インテリジェンスはできなかった。
明治の奇跡「坂の上の雲」の主人公こそ初代大宰相・伊藤博文なのであ
る。明治時代は伊藤時代といって過言ではない。
前坂俊之(ジャーナリスト)
長州藩はヨーロッパ共通の敵となり、下関戦争(1863年)で負けた
結果、攘夷から開国派に180度転換、薩長同盟(1866年)を結び、倒幕に
乗り出した。
この以前、帰朝早々高杉と我々の意見を談合し置くの必要を感じ井上は萩に行きて面暗したる故、高杉直ぐに同意した。そこで私も久し振りで高杉に面会した所が、「オレは牢に這入って居ったが、罪を免すと云ぶ事もなく御用がある出て来いと云ふ、実に何んといふことか分らぬ、兎に角ここに居っても仕方がないから、馬関に出掛けて見よう」と云って、其日の午後二時頃私は高杉と共に駕籠に乗って出掛けた。
井上は其前に馬関に行った。夫から山口から二里程もある小郡近くへ行くと、大砲の音が馬関の方面に聞える、凡四つ時分、今の十時過ぎと思ふが、白鉢巻具足で駕に乗ってドンドン来る者がある。
誰れだといふと、長府の士だ、何事だと云ふと今日馬関において戦争が始まったから御本家様へ御注進だと云ふ。それから構はず行くと、又駕寵が来る、今度は誰れかといふと、井上が馬関に行った帰りだ。三人そこへ駕を下ろして評議した、井上の話に馬関に行った所が話しする所でない。軍艦に往きてサトウにも面会せり、サトウは言ふに今度はこの弾丸を御進物にするからということで話にならぬ。
それから今日夕方より開戦になりたり、帰り掛け壇の浦の砲台のある所を通過したるが、アムストロングの大砲の丸は存外的らぬで皆上に行くやうである。併し兎に角鉄砲を打たれた以上は一と戦争せずして和議をやらさぬやさせねばならぬ、さうしなければ目が覚めぬ、是れから三人とも山口に帰って君公の出馬を勧めよう
、これは防長の士気を作興する為にも、君公の出馬が宜からうというので、翌日御前会議を開いたら、至極尤だから出るといふことになって、其翌日君公は小郡まで出て、井上は小郡の防禦を言ひ付った。之は山口の関門である、高杉と私は馬関の戦争の方参るといふ話だ、それで出て行き清末と云ふ処まで行くと、君公から急に御用があるから帰れというので、小郡まで帰って来た所が、君公は和議論に極ったと云う話だ。
連合軍はアムストロング砲で砲撃
井上と私と高杉と三人和議論の事を仰せ付った、段々攘夷をやったけれども、権謀を以て一時休戦するから和議をと云ふ話だ、それから高杉は捻ぢ込んで、今日に至って和議といふことは甚だ聞えませぬ、戦争が起らぬ前ならやるけれども、起った以上はどこまでも御貫きなさるが宜しいと云うたら、
君命を聞かぬかと言はれた、君命を聞かぬと言へば其結果割腹より外はなし、それからマー君命を聞かぬといふ事ではないと言って、漸く和議と定むる時に、各部の兵隊に休戦を命ずる必要あるが為めに、一面には君側の重役を派出して君命を伝へ、其報を待て我々は軍艦へ談判に出掛けようといふのであるが長府まで行って見ると、兵隊押への使ひは帰らず、仕方がないから、私一人行って軍艦の砲撃だけ止めさせようと云って、漁船に乗って軍艦に行った。
さうすると一番大きな「コンクエスト」七十二門の大砲を備へた軍艦が居って、それに乗船しまうと云うて軍艦の膚兵と話した所が上らせぬ、旗艦はアノ船だといふから「ユラヤルス」と云ふ船へ行って旗艦はこれかと言うたら、サトウが出て来た。
アー伊藤さん、戦争にアグミましたかと尋ねたり、私はどうか水師提督に面会したいから逢せて呉れというたら、今陸上の大砲を分捕る指揮をして居るから、マアこっちへ御出なさいといふから這入ると、カビテン、アレキサンダーという人は足を撃ち抜かれて居って、今あなた方の人がこんな悪いことをしたというやうな訳で、誠に気の毒であった、さうかうして居る中に、水師提督が帰って来たから、どうかボンバートだけは止めて貰ひたいと言うたら、直ぐに止めた。
君公はなぜ出て来ないと云ふから、君公は病気だから使ひだ、さうかうして居る中に漁船に乗って高杉は宍戸備後と名乗り烏帽子垂衣でヒヨコフオコ来る。
眼鏡で見て居ると其姿がおかしい、やがて来て談判をした所、委任状を持って来たかといふから委任状は持って居らぬ、それぢや戦争は止める訳にはいかぬ、是非君公を連れて来いと云ふ。
それからその時色々条件を付して請求された、和議の成るまで彦島を占領すると云様な事もありたれども、之は断りたり、私は高杉と共に一応君公へ伺ふために、船木の本陣迄帰る。
誰れか一人残れといふ話になって、井上が残るとなって、高杉と私は帰って、それだけの用意をしなければならぬといふことになった、そこで其話をして行くと、本陣にて評議中なんだか十四五人ざわざわして居る。
妙な事だと思ってると、モト私共が手習に行きました師匠の息子久保孫三、当時船木代官が来て窃に高杉と私に告るに、今度お前達ちを暗殺するという訳だ、当時山田顕義品川弥二郎の率ゐたる御楯隊中の者、京都一敗後、和議嫌ひで暗殺をやると云ふ者等なり、それからマー困った奴が居る。
この時、高杉は私に云て曰く、是れはいかんぞ、我々は此大事のことを抱へて居るのに暗殺すると云ふ者が眼の前に現われて居っても政府はどうすることも出来ぬ。実に犬か畜生か、もう斯うなっては仕方がない、去るに如かずと云って、殆ど二里三里夜通し行って山中の農家に隠れた、久保と云ふ人は我々を保護するために隠伏の援助を与へたり、同人も長州はこういう情態では滅亡だ、どうも仕方がないといって大に憂慮したり。
我々潜伏の為に政府も大に驚いて井上を下の関に呼びにやって、井上も帰て来て君公始め政府も両人の身体上に於て決してそんな不慮なことはさせぬと保証をして、我々の潜伏所は久保が熟知するゆえ久保の案内にて宍戸磯と井上の二人は君命を帯びて迎いに来た、それから仕方がない、また再び船木に帰って来て、今度は家老その他十一人を連れて馬関に出て、到頭談判和議の決了をしたという訳であります。
<『東京経済雑誌』明治三十年四月十日号に掲載>
「伊藤博文直話」(千倉書房、昭和11年刊)より
(つづく)
関連記事
-
-
日本リーダーパワー史(611)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』⑥『1888年(明治21)、優勝劣敗の世界を視察した末広鉄腸の『インテリジェンス』②<西洋への開化主義、『鹿鳴館」の猿まね外交で、同文同種の中国 を排斥し、日中外交に障害を及ぼすのは外交戦略の失敗である>
日本リーダーパワー史(611) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』⑥ 『188 …
-
-
知的巨人の百歳学(141)-日本画家・奥村土牛(101歳) は「牛のあゆみ」でわが長い道を行いく』★『スーパー長寿の秘訣はクリエイティブな仕事に没頭すること』』
『60歳から代表作を次々に出した奥村土牛』 芸術に完成はあり得ない …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(150)』『台湾の政権交代、習近平を相手に米欧のデモクラシーを満喫して登場した蔡英文氏が何をして見せてくれるのか? 興味津々です」
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(150)』 『 …
-
-
日本リーダーパワー史(610)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』⑤『1888年(明治21)、優勝劣敗の世界に立って、日本は独立を 遂げることが出来るか」末広鉄腸の『インテリジェンス』①
日本リーダーパワー史(610) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』⑤ 『1888 …
-
-
日本リーダーパワー史(586) 「日本飛行機の父」「殿様飛行士」徳川好敏のパイロット人生
日本リーダーパワー史(586) 「日本飛行機の父」「殿様飛行士」徳川好敏の …
-
-
『米中新冷戦時代に突入しているが、中国の思想・行動パターン(中華思想)を理解するためには清国新聞『申報』で150年前の日中韓対立戦争史の論説を読むとよくわかる』★『前坂俊之HPで「申報」の検索結果は 153 件あるので見てください。』
●前坂俊之HPで「申報」の検索結果 153 件ある、ので見てください。 http …
-
-
『オンライン講座/太平洋戦争史』★『日本海軍のゼロ戦(戦闘機)のエースパイロット,で200回以上を出撃し、敵機64機を撃ち落とした『撃墜王』坂井三郎が語る『 生死をこえる究極の心得10ヵ条・』★『あの戦争全体を通して私を支えてきた信念は、自分はいつか死ぬだろう、しかしそれは今日ではない、という事でした』
2010/07/18 / 日本リーダーパワー史(75) 生死をこえる究 …
-
-
梶原英之の一刀両断歴史ルポー『日本の物語としての辛亥革命(上)』ナゾに包まれた孫文像(上)
<辛亥革命百年と近代日中の絆―辛亥百年後の‘‘静かなる革 …
-
-
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』 < アメリカ・メルトダウン(1058)>『弾劾か刑事訴追か、泥濘にはまったトランプ 息子までロシアと接触、次は周辺から逮捕者の可能性』★『トランプ長男、ロシア疑惑の動かぬ証拠を自らツイート』●『トランプ「支持率最低」政権の深刻すぎる前途 就任半年で政策動かず、ロシア疑惑が重し』★『「大惨事」もありえる米議会のヤバすぎる状況 大事な夏休みも短縮する勢い』●『 四面楚歌のトランプ、弾劾は時間の問題か 全米で次々提訴され、ロシアゲート捜査は核心に迫る』
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』 < アメリカ・メルトダウン(1058) …
-
-
明治150年「戦略思想不在の歴史⑾」ー 『ペリー黒船来航情報に対応できず、徳川幕府崩壊へ』★『「オランダからの来航予告にまともに対応せず、 猜疑心と怯惰のために,あたら時間を無駄 にすごした」(勝海舟)』
(ペリー黒船来航情報に対応できず、徳川幕府崩壊へ 「オランダからの来航予告にま …
