記事再録/知的巨人たちの百歳学(116)/ 元祖ス-ローライフの達人・仙人画家の熊谷守一(97歳)のゆっくり、ゆっくり、ゆっくり
日本風狂人列伝(34) 元祖ス-ローライフの達人・仙人画家の熊谷守一(97歳)のゆっくり、ゆっくり、ゆっくり
日本風狂人列伝(34)
元祖ス-ローライフの達人・仙人画家の熊谷守一(97歳)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
仙人、超俗の画家として生前も人気の高かった熊谷は没後,評価はますますうなぎのぼり。その画風とともに「スローライフの」生き方に共感する人が増えている。
画家は好きなことをやっているので長生きの人が多いし、奇人、変人ばかりといっていいでしょうが、その中でも極めつきが熊谷守一でしょう。熊谷守一は九十七歳で亡くなったが、早くから、「画壇の仙人」「超俗の人」「奇人画家」、伝説の人と呼ばれていましたね。一八八〇(明治十三)年四月、岐阜県生まれ。父は岐阜市長や衆議院議員だが、中学のとき画家になりたいというと、「芸者と坊主と絵かきはみんなこじきだ」と猛反対された。懇願して何とか一九〇〇(明治三十三)年、東京美術学校西洋画科に入学、青木繁、児島虎次郎らが同級生でいた。
熊谷は小さい時から「偉くなる」ことに疑問を感じた。観察クセはこの頃から強く、小学校時代、先生の話など聞かず、雲の流れや木の葉がヒラヒラまい落ちる様子などをじっと眺めていたので、先生からよく叱られた。先生はいつも「偉くなれ、偉くなれ」というので、「みんなが、偉くなったら、偉い人ばかりで困るのではないか」と内心思った。「そのころから人を押しのけて前に出るのが大きらい」と自伝的エッセー『へたも絵のうち』で回想する。
美校時代に日暮里の踏切で、人が電車にはねられて死んだところに通りかかり、交番に届けもせず一心不乱に写生、駈けつけた巡査のカンテラまで描いてその写実精神を賞賛されたこともある。
大正十一年、熊谷は四十二歳で秀子夫人と結婚した。二十四歳の秀子夫人は変わった人と聞いた上での、貧乏覚悟の結婚だったが、想像以上だった。
明日食べる米がないという時でさえ、小鳥やネコを飼っていたり、と思えば、一晩中ローソクの明かりで時計やカメラをバラバラにして組み立てに熱中したりで、生活のための絵は一切描かない。窮乏生活が続き、翌年、長男が生まれたが、子供に着せるものがないと、『風呂敷に穴をあけてかぶせとけ』といった具合でまったく描かない。子供が病気になっても医者に見せる金もない。
昭和三年、次男陽(三歳)を疫痢で、昭和七年、三女(一歳)も肺炎で、さらに昭和二十二年に長女(二十二歳)と愛児三人を連続して亡くした。陽が亡くなった時には、この世にこの子を残す何もないことを思って、棺の中で花に埋もれたわが子の死顔を夢中で描き続けた。描いているうちに自分が嫌になって三十分ぐらいで止めた。『陽の死んだ日』と題したこの絵は熊谷の代表作となった。子供が病気になっても、生活に困った時でも、絵を描いて金にかえるといぅことは出来なかった。秀子夫人や周囲から「なぜ絵を描かないか」と責められたが、守一は「四十年も過ぎた今になっても、胸のしめつけられる思いですが、あのころはとても売る絵はかけなかったのです」と自伝で回想している。
東京 にある熊谷の家は昭和七(1932)に建てられた。老朽化し雨もりがひどいので、49年夏は屋根瓦をふきかえた。それまでは家の中にバケツを置いて何とかしのいだ。家を一歩もでず
木門をはいると、すぐ庭で真ん中が築山となっており、クリ、モモ、カキ、クルミ、ねむの木、などが生い茂っていた。ここが雑木林、今でいう小さな里山となっており、中央に小さな池がある。縁台には小鳥の鳥箱が置かれ、年中、庭に集まってくる鳥のサエズリ、ハーモニーがにぎやか。春夏秋冬と四季折々で、樹木はその姿を180度変える。水飲み場があるので集まる鳥も昆虫も年中、バラエティに富む。生物多様性のある小宇宙であり、大自然でもある。熊谷は暖かくなった時期には庭にゴザを敷き、木のまくらで昼寝をする。夏には木陰で休む、手製のパイプを吸いながら、ゴザの上で昼寝もしながら半日過ごす。何時間でも木々や葉々を眺め、鳥のさえずりに耳を傾け、地面に動き回る昆虫やアリの動きを画家の眼で見つめた。
アリの動きをゴザで横になって水平に近い真横から近接してみるとまったく違う。「蟻の歩き方を幾年も見てわかったんですが、蟻は、左の二番目の足から歩きだすんです」「雨、軒からの雨垂れ、雨の一滴。その雨を、何年も何年も見つめます。単純化の極致の熊谷の絵の1つに、「蟻」があるが、あくなき観察から生れた。庭の植物や動物、風物への愛情のこもった作品は、こうして生まれた。
文化勲章受章を断わる昭和四十二年、熊谷は文化勲章受章者に内定したが、断わってしまった。宮内庁が再三にわたって説得したが、「めんどうで煩わしい」と聞き入れない。「小さいときから勲章はきらいだったんですわ。よく軍人が勲章をぶらさげているのを見て、どうしてあんなものをべたべたさげているのかと思ったもんです」「欲しがっておられる方に差し上げてくださればよい」と最後まで固辞した。世間の損得などを超越して、無関心な熊谷は静かな日々は失われることを恐れ、無心に創作三昧の日々を選んだのである。
熊谷は勲章もきらいだが、ハカマもきらい。晴れがましいこと、かしこまることも一切きらい。だから正月もきらい。結婚式に招かれてもハカマは着ないで、モンペで通した。
その翌年、ある新聞で、熊谷は淡々と次のように語っている。
「…犬が横になって寝るのも、猫が病気になると地べたに寝ころんで眠るのも天の
理。私はゴザをしいて庭に寝ころんで眠り、アリが走ればそれが絵になる」 「絵を上手に描こうとは思わない。上手になってどうするんだ。絵は描いているうちにどうなるかわからない。そこがおもしろい。腹が減ったら食う。食うときが旨いので腹がふくれればおわりだ。いまはなにも欲はない。しいて欲しいと思うのは、いのちだけだ」
「私は生きていることが好きだから、他の生きものもみんな好きです」でも・・・。「犬はあまり人間に忠実なので見るのがつらくて飼ったことはありません」、猫の方が好きなのだ。
関連記事
-
-
『Z世代のための<日本政治がなぜダメになったのか、真の民主主義国家になれないのか>の講義③<日本議会政治の父・尾崎咢堂が政治家を叱るー『明治、大正、昭和史での敗戦の理由』は① 政治の貧困、立憲政治の運用失敗 ② 日清・日露戦争に勝って、急に世界の1等国の仲間入り果たしたとおごり昂った。 ③ 日本人の心の底にある封建思想と奴隷根性」
2010/08/06 日本リーダーパワー史(82)記事再録 &nbs …
-
-
★『大爆笑、そしてラブラブの日本文学史』④『大歌人・斎藤茂吉』 ♡『ウナギ』狂でスタミナ倍増『老らくのラブラブ』 (。・ω・。)ノ♡に恋心を燃やし続けた大歌人・斎藤茂吉(71)』
★『大爆笑、そしてラブラブの日本文学史』④ 「大歌人・斎藤茂吉」 ♡『ウナギ』狂 …
-
-
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争カウントダウン㊱』/『開戦2週間前の『申報』の報道ー『『東三省(満州)を放棄し.境界線を設けて中立とするは良策にあらざるを諭す』
『日本戦争外交史の研究』/ 『世界史の中の日露戦争カウントダウン㊱』/『開戦2 …
-
-
速報(324)『日本のメルトダウン』●『橋下徹・大阪市長よりすごいぞ、千葉の熊谷俊人市長」●『総選挙で確実となる民主党の終焉』
速報(324)『日本のメルトダウン』 ●『橋下徹・大阪市長よりすご …
-
-
片野勧の衝撃レポート(73)★『原発と国家』封印された核の真実⑩(1970~74)近未来開く「万博怪獣エキストラ」(下)
片野勧の衝撃レポート(73) ★『原発と国家』―封印された核の真実⑩(1970~ …
-
-
速報(122)『日本のメルトダウン』<日中百年の難題?『放射能 福島原発は廃炉にできない』『中国は「乱世」突入の前兆か』
速報(122)『日本のメルトダウン』 <日中百年の難 …
-
-
再録『世田谷市民大学2015』(7/24)-『太平洋戦争と新聞報道』<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年の世界戦争史の中で考える>②
『世田谷市民大学2015』(7/24)- 戦後70年夏の今を考える 『太平洋戦争 …
-
-
日本リーダーパワー史(163)『戦わずして勝つ』ー塚原卜伝の奥義インテリジェンスこそ『無手勝流』
日本リーダーパワー史(163) 『戦わずして勝つ』剣道の秘義・塚原 …
-
-
終戦70年・日本敗戦史(97)『大東亜戦争とメディアー<新聞は戦争を美化せよ>内閣情報局による情報操作の実態』⑤
終戦70年・日本敗戦史(97) 『大東亜戦争とメディアー<新聞は戦争 …
-
-
日本リーダーパワー史(70)辛亥革命百年⑩孫文大統領誕生の「二六新報」報道、パーセプション・ギャップの発端
日本リーダーパワー史(70) 辛亥革命百年⑩孫文大統領誕生の「二六 …
