終戦70年・日本敗戦史(108)朝鮮宮廷(政府)の「親清派(事大党)対「朝鮮独立党(日本派)」 の争いが日清戦争へ発展!
終戦70年・日本敗戦史(108)
<歴史とは現在への過去形である>70年前の太平洋戦争の原因は
その約50年前の日清・日露戦争までさかのぼらねばわからない③
朝鮮宮廷(政府)の「親清派(事大党)対「開国朝鮮独立党
(日本派)」の争いは日清戦争へ発展!
前坂俊之(ジャーナリスト)
壬午事変(明治15年)、甲申事変(同17年)が日清間の確執を深めた
須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房、1985年)によるとー。
もともと、江戸時代約三百年日本が安全で国際紛争の圏外におかれたのは、中国大陸に清帝国という強大な国があり、朝鮮には李王朝が清朝に臣礼をとり、2国ともあえて外征を欲しなかったからだ。
その安定と平和が崩れていったのは西欧列強の武力侵略と、清朝、李王朝ともに弱体化したからである。侵略から身を守るためには海軍力の増強しかなかったが、徳川時代の鎖国政策で、小さな木造船さえ持つことを自ら禁じ、たった4隻の黒船(鉄甲船)に腰を抜かした幕府のレベルだけに、明治維新のリーダーにとっても海軍の建設は容易な業ではなかった。
朝鮮半島はヨーロッパの歴史的な紛争、混乱、戦火の地のバルカン半島に似ている。李王朝末期の混乱と衰亡の原因を、田保橋潔著『近代日鮮関係の研究』(1940年)は次のように指摘している。
「李氏朝鮮の三大禍として、外寇(がいこう)、朋党、戚族(せきぞく)の三を挙げることに、何人も異存はないであろう。
外寇、朋党が朝鮮の政治・社会・文化に、如何に多くの惨害を及ぼしたか、史家のつぶさに論ずるところで、繰り返す必要を認めない。第三の戚族の専横については、最近の現象でもあり、ややもすれは看過され易いが、その痛弊は前二者にあえて優るとも劣らない」
「外寇はいうまでもなく外国の圧迫、干渉で、朋党とは派閥の争い、戚族とは国王の縁者、親族のことである。ここでは国王の生父大院君の一派と、国王妃閔妃一派の激烈な抗争を指すのである。この朝鮮半島の動揺がその後の東洋の禍乱を招き、清国の衰亡を早め、代わって日本の台頭をもたらすのである。」
以下、日中韓の争いはここから発するが、須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房昭和60年)によって説明する。
「明治初年から日本のそれまで全くなかった海軍力の軍備増強の必要性を痛感させたのは朝鮮問題を中心とした外交関係の紛争、トラブルである。外交問題を解決するのは海軍力である。日本の独立と安全を護るためには、何をおいても海軍力の整備と拡張が急務であることを政府に悟らせたのは朝鮮半島であった。
しかし、当時の貧乏な日本は科学技術が幼稚な上に軍艦の購入、建造に要する莫大な金などあるはずはなかった。
圧倒的な海軍力、軍事力「清国」の前に日本は弱体、貧乏小国家の悲哀
海軍力の増強を最初に建議したのは右大臣岩倉具視であった。明治十五年の壬午事変(じんごじへん)<1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害された事件>によって、今後ますます多くなるであろう国際紛争を処理し、国家の狐立と安全を護るために、何をおいても海軍の拡張が急務である。そのため増税もやむを得ない旨を論じた。これが直ちに政府の方針になったのは、トップの人々がその憂いを共にしていたからである。
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つまり、このように李氏朝鮮では大院君と閔妃の仲が悪く、殺し合いの権力闘争、を繰り広げて、亡国国状態であった。閔妃と開化派は明治維新を見習って朝鮮の近代化を推進するため、堀本礼造少尉を軍事顧問に迎えて新軍隊を作った。
ところが、守旧派と清国指導の旧軍隊はその差別待遇に怒って明治15年(1882)7月23日、クーデター「壬午事変」を起こした。堀本教官ら数十人を殺害し、日本公使館を焼き討ちして王宮に乱入した。
政権を国王の外戚・閏一派(改革派)に奪われたことに不満をもっていた大院君(保守派)が指図したもので、閏一派は虐殺され、日本公使館も標的となり襲撃された。アジアで初めての反日暴動となった。
暴動は、清国の裏世凱軍がすぐに鎮圧し、大院君を拉致して天津に連れて帰り幽閉した。この事変での日本の敗北をみて閲妃一派は清国側に鞍替えした。
この2年後、再び朝鮮を揺るがす政変が起きる。日本に留学し福沢諭吉の教えを受けた開明派の金玉均、朴泳孝( ぼくえいこう)らの独立党がクーデター「甲申事変」こうしんを計画した。清仏戦争で宗王国の靖国が敗北して、在朝軍が手薄になった隙を狙ったのだ。
独立党は明治17年(1884)12月4日、王宮を占拠して国王高宗を保護し、日本公使・竹添進一郎指揮の日本軍200人の保護の下で新政権を作った。ところが、衰世軌の靖国兵1500人によって王宮はたちまち奪回され、わずか3日の天下に終わった。
日本公使館は焼き討ちにあい、独立党や幹部、日本人居留民40人以上が殺害された。竹添公使は命からがら仁川に避難して帰国、金、朴らも日本に亡命して福沢邸に逃げ込んだ。
この甲申事変の処理をめぐり、日本政府は伊藤博文全権を北京に派遣、天津で、舶北洋通商大臣の李鴻章と交渉した。伊藤は衰世軌による王宮の日本軍への攻撃と漢城(ソウル)市内での清国兵による在留邦人への殺害、略奪の責任を追及した。だが、李鴻章は逆に日本側のクーデター関与を批判して、交渉は難航した。
結局、「日清両軍は4カ月以内に朝鮮から撤退する」「将来、朝鮮に出兵する
場合は相互に連絡し、派兵後は速やかに撤退し、駐留しない」との天津条約を翌年4月にやっと結んだ。
甲申事変の失敗に失望した福沢は、頑迷な靖国、朝鮮の態度に憤激し、主宰する「時事新報」(明治18年3月16日)の社説に『脱亜論」を掲載した。
「日本のみがアジアで唯一、文明開化している。ところが近隣国は近代化を拒否しており、明治維新のような変革ができなければ数年のうちに亡国するであろう。悪友(清国と朝鮮)と親しむ者はともに悪友となる。我は心からアジア東方の悪友を謝絶する」
ところが、日本は正直に朝鮮から撤兵したのに、清国は条約を履行せず逆に兵を増加した。靖国から兵を逐次ソウルに送りこむ一方、袁世凱が「通商事務全権」名目で大公館を構え、朝鮮政治を支配した。
長崎清国水兵事件での海軍力の圧倒的な落差
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/1844.html
明治19年8月、長崎清国水兵事件が起きた。当時、日中間の海軍力には大きな差があった。ドイツ、英国の最新鋭の「軍艦」を清国は多く保有し、貧乏小国の日本は清国の脅威の前に海岸砲台の建設、海軍力増強に取り組んだが、予算不足に苦しんでいた。
その清国の大艦隊が清国北洋水師提督丁汝昌率いる旗艦「定遠」に乗り「鎮遠」「済遠」「威遠」の三艦を帥いて、長崎港に寄港したのは八月十日。
7月中旬に本国を発し、朝鮮の仁川に立ち寄りロシアのウラジオストックを訪問、堂々と艦列を組んで長崎港に入った。わが国へ威圧を加えに来航したのである。
定遠艦長は英国士官のロング大佐で、英国やドイツの海軍士官多数が乗組んで、清国の士官や水兵の指導に当たっていた。航海訓練と日本へのデモンストレーションが目的だった。
定遠・鎮遠は7200トンの巨艦で、ドイツから購入し新鋭艦で、東洋1の巨艦だった。日本の戦艦では扶桑が3700トンで最大、この2倍もあり日本人の肝を冷やした。
8月13日、定遠の清国水兵5人が上陸して酒を呑み酩酊した上に、丸山町の遊郭で遊ぼうとしたが、楼主に断られたため腹を立てた水兵が持っていた刀で戸や障子をメチヤメチャに壊したのが長崎事件の発端である。
逃走した2人の水兵を巡査が拘引しょうとしたが刀で斬りつけて抵抗、巡査は重傷を負ったが、長崎警察署に引き渡した。
それを逆恨みしたのか15日、清国水兵300人が、日本刀や棍棒をもって続々上陸、市内を徘徊し、夜に入っても帰船しない。長崎警察署は非常警戒体制をとり、3人1組となって市内を巡察中に各所で巡査に水兵が暴行する事件が続発、市民も、剣や棍棒をもって巡査たちを助けようとして清国水兵と大乱闘となった。
結局、死傷者は清国の士官1、水兵4人死亡、重傷6、軽傷9人、日本側は巡査の死亡4、重傷1、軽傷傷18・居留民の支那人も死亡5人、長崎市民も重軽傷者多数を出した。このため丁汝昌は日本巡航を取れ止めて、早々に本国に帰航してしまった。
外相井上馨と清国全権公使・徐承祖と談判したが清国側は非を認めようとはしない。結局、ドイツ公使が仲に入りて斡旋し20年2月、協定が成立した。事件の犯罪者は各各の法律で処分し、犠牲者には自国の政府が見舞金や弔慰金を支払ぅというもの。
石光真清『曠野の花」(中公文庫)によると
事件はもともと清国水兵の暴行から起こったもので、取り鎮めようとした巡査や、水兵に襲われた巡査が殺傷された。清国の水兵や居留民の死亡や、重軽傷多数が出て、応援にかけつけて多数の市民も巻き込まれた。これに対して清国は謝罪をしないのみならず、日本側の対応を非難し大清国の威力を示した。
日本側も清国水兵の非を鳴らしたが、結局押し切られて決着した。東洋一の老大国に対して弱少の後進国日本は、互角に談判できなかったのである。この報道は日本国民を激昂させた。これが七年後の日清戦争での遠因となり、激烈な敵愾心になって現れた。
「時は丁度、朝鮮において日清両国の外交争覇が火花を散らし末、全権公使の竹添進一郎氏が敗退するという惨めな事実にあつたから、長崎市民の驚きもきさることながら、日本政府も腰を低くして清国艦隊のご機嫌をとり、清国水兵と衝突しないよう一般市民に指示したものある。
上陸した清国将兵は傍若無人の狼籍をしたが、日本官憲は手の出しようもなかった。市民は戸を固く閉ざしてふるえあがり、被害の始末を他日のこととして、一日も早く艦隊の去ることのみを祈ったのである。この艦隊が東京を訪問した時も、わが国は朝野を奉げて大歓迎を行い、乗ずるスキをえないことに懸命であった。(石光真清『曠野の花」305頁)。
当時の日清の力関係、軍事的なアンバランスは大国清国」「小国日本」だったのである。
こうして日本側は第一次海軍拡張計画を急いだ。明治16年2月、海軍卿川村純義は、向う8カ年間に毎年300万円ずつの建艦費をもって、大小艦艇40隻を建造する計画を立てたが、3年後の18年に建造、あるいは購入できた艦艇は12隻しかなかった。
明治18年にさらに朝鮮情勢が緊迫したので、あらたに92隻の建造を計画したが、財政難を理由に21年までに着手されたのは22隻だけ、強大な清国海軍とは比較にならぬ弱体だった。
明治21年、海軍大臣西郷従道は、強大な清国の海軍力に脅威を感じ、従来の計画を改め、22年より向こう五カ年間に艦艇46隻の建造計画をたてたが、これまた財政面から承認されず、23年までに建造されたのはわずか5隻にすぎなかったのである。
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