前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

「終戦70 年」ージャーナリスト高杉晋吾氏が「植民地満州国の敗戦地獄」の少年体験を語る(3/3)

      2015/03/06

1234

「終戦70 年」歴史ジャーナリズム)ージャーナリスト高杉晋吾氏が

「植民地満州国の敗戦地獄」」での少年体験を語る(3/3)

  • 3月2日、日本を代表する社会派ジャーナリストの高杉 晋吾氏(82歳)と前坂俊之(ジャーナリスト、71歳)の間で「終戦70年、戦争体験・歴史認識を問い直す」をテーマに対談を行った。

以下は「この語りの部分」に該当する高杉晋吾氏の父の手記「満州国の思い出」からの転載する。

「大陸の冬(奉天、現在の瀋陽での1945年10月以降)は足早に来る。家では、他の室は皆、略奪されて、逃げ込んできた社員とその家族のために開放し、私たち親子二人が占めているのは六畳一間にすぎないが、最小限度の必需品以外は全部売りつくし、部屋においてある家財も売り払ってすくなく、がらんとしているし、電燈もつかず、炊く石炭もなく、薄暗い室内は寒々としてわびしいものだった。

私は、毎朝、相変わらず平安広場に仕入れに通っていた。早朝の人通りも少なく凍てついた路面に白い息を吐きながらコツコツと足音を立ててゆく。零下30度の冷気で、手足がピリピリと痛い。こうした日常の中にも、子供のことがいつでも気にかかった。鞍山被爆以来、早くも一年を経過して、健康を回復して、元気になったものの、母と姉を失い、兄は予科練に行ってしまい、ぶっきらぼうの父と二人っきり、温かい家庭は崩れてしまって、ただ生き抜くために働く私を運命をかこつこともなくてつだっている子供を気にかけながら、どうしてやることもできなかった。

幸いにも10月半ばを過ぎると、学校が再開され、午前中に時間だけ、寺子屋式の授業が行われるようになったので私の心は軽くなった。

ある朝、買い出しの帰途、平安通りを駅のほうから、異形の隊列が進んでくるのに出会った。足を止めて私の前をその行列は音もなくふらふらと青葉町のほうに曲がっていった。二百人ぐらいの列の大部分は女と子供、男と言えば50すぎる年配者だけで元気のものはみあたらなかった。

男女の別なくぼうぼうと延び乱れた頭髪、風雨にさらされ、泥土にまみれた顔と手足、空腹を通り越したやせ衰え、青黒い栄養失調の肌色の中に、両眼だけが大きく光って見えた。抱かれている幼児も、手をひかれている子供も幼い子供の愛らしさもなく、しなびている。そして着ているものはある者は汚れてよれよれになった布切れを乞食のように寄せ集めてまとっていたし、他のものは麻袋の三方に穴をあけて首と両腕を出して裸の両足を出して歩いていた。

この列の中に僅かに生きた人間の温かみを残すのは、女性たちが幼児を抱き、手を引いていることだった。そこに母性愛という人間らしさがわずかに残っていた。だがその母親も女性とよぶべくあまりにも不潔、でやせ衰えていた。これは幽界に行きかねて未だ浮き世をさまよう生ける屍の行列と言うほかはない。

「私はこの行列を見て、これは北満から逃れてきた開拓団のひとびとに違いないと考え、「どこから来たの?」とその列に声をかけてみたが、そんな疲れ果てた人間の形骸から答えが返ってくるはずがない。(中略)

そのころ、難民救済資金募集のガリ版刷りの回覧が、隣組を通じて回ってきた。それは日僑俘瀋陽総所」の名においてであった。「日僑俘瀋陽総所」というのは日本人居留民会奉天本部ともいうべきものなのだが、俘虜の俘という字が目障りであった。のちに我々は皆囚人のように、( 瀋陽日僑俘第○○号〕という札を胸部に下げさせられたが、ソ連人にも分かるように(Emigurant No―)とも書いてあった。

これは在満日本人全体の措置、方針について、ソ連具司令官と折衝する窓口としてなくてはならないものだったが、その設立は難民救済資金の募集が動機であった。旧満州の役人や関東軍の幹部は、もうほとんど、シベリアへ送られた後なので、民間人の元満州重工業総裁の高崎辰之助さんが中心になった。

ハルピンや新京等北方の都会には、早区から難問が流れ込んだのだ。そこから溢れ出たものが奉天や大連等の南部に移されてきたのだ。

 

◎「華美な女の衣服を募集,日僑俘総所の回覧版」

それから一二週間後、また回覧版が回ってきた。前回のは現金、衣服、 寝具であったが今度は[華美〔派手〕な女の衣装]の募集であった。とくに華美な、と注が付いている理由については,我々にはさして考えずにわかることである。

シベリア育ちのクマのように餓えたソ連兵。監獄から解放された凶暴な兵隊の横行は少しも収まっていない。

自警団で防げるものではない。女性が断髪して、男装をしてみても、それで彼らの目をごまかしえたのはわずかの間であった。女性の災禍は少しも減っていなかった。華美な衣装、何未の女性、ソ連の将兵の結びつきは容易に考えられ、我々は暗い気持ちでそのことを話あった。

青葉町の裏通りに赤レンガ作りの倉庫があった。ここでもしばしば建物の側の陽だまりに集まって日向ぼっこをする姿が見えた。有刺鉄線の外側から人びとが好奇の目を放っていても、中の人は何の反応も示していない。難民は自らをみじめと思い、恥ずかしいなどと思う必要もないし、そんなことを思ってもいられない。無関心が一番よい。見世物にするならするがよい。こう語っている姿である。

私はある日、たまらない気持ちで倉庫の入り口に立って中をのぞいてみた。百坪もあろうかという広さに、一面藁屑が分厚く強いて有り、百五―六十人の難民が思い思いに寝ころんでいた。

 

 - 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158)-『渋沢栄一(91歳)の国民平和外交を潰した関東軍の満州事変の独断暴走が、日本を破滅(戦争)の道へ陥れた。この4ヵ月後に渋沢は亡くなった』

近現代史の重要復習問題/知的巨人の百歳学(158) 明治、大正、昭和で最高のトッ …

no image
『忘れ去られた近現代史の復習問題』―『日清戦争の引き金の1つとなった『明治19年の長崎清国水兵事件とは何か』

  『忘れ去られた近現代史の復習問題』― 日清戦争の引き金の1つとなった『明治1 …

no image
速報(131)『田中三彦氏、中手聖一氏と小出裕章氏が講義 (第2回 核・原子力のない未来をめざす市民集会)』

速報(131)『日本のメルトダウン』     『田中三彦氏、 …

『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座(41)』★『日露戦争開戦の『御前会議」の夜、伊藤博文は 腹心の金子堅太郎(農商相)を呼び、すぐ渡米し、 ルーズベルト大統領を味方につける工作を命じた。』★『ルーズベルト米大統領をいかに説得したかー 金子堅太郎の世界最強のインテジェンス(intelligence )』

2021/09/01  『オンライン講座/日本興亡史の研究 …

no image
日本メルトダウン脱出法(542)「福島第一の原発所員、命令違反し撤退、吉田調書で判明」「ブラジル、W杯の場外に厳しい試練」

       日本メ …

『オンライン講座/日本興亡史の研究』★『末広鉄腸の『インテリジェンス①』★『1888年(明治21)、優勝劣敗の世界に立って、日本は独立を 遂げることが出来るか』★『<各国の興亡は第1は金力の競争、第2は兵力の競争、 第3は勉強力の競争、第4は智識(インテリジェンス)の競争であります』

2015/11/23 日本リーダーパワー史(610)記事再録 前坂俊之 …

『オンライン・日本経営学講座』★『 日本の歴代大経営者(最初はみんな中小企業) の遺言、経営訓、名言30選』★『『昭和経済大国』を築いた男・松下幸之助(94歳)の名言30選」』

ホーム >  人物研究 > ● 『企業 …

no image
片野勧の衝撃レポート(63) 戦後70年-原発と国家<1954~55> 封印された核の真実ービキニの「死の灰」と マグロ漁船「第五福竜丸」(下)

片野勧の衝撃レポート(63)  戦後70年-原発と国家<1954~55> 封印さ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(269)★日本が真の民主国家(自由平等、男女平等)になれない理由は—日本の前近代的な政治閥、官僚閥のルーツはー「日本の秘密結社としての 陸軍は山県有朋の長州閥(山口閥)が作った」,

2012/05/03日本リーダーパワー史(256)記事再録 『明治の巨大国家プロ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(78)記事再録/ ★歴史の復習問題ー日清戦争『三国干渉』後に、 ロシアは『露清密約』(李鴻章の巨額ワイロ事件)を結び遼東半島を入手、シベリア鉄道を 建設して居座り、日露戦争の原因となった。

    22016/09/19 /中北朝 …