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1954(昭和29)年とはどんな時代だったのか-<大疑獄事件で幕を閉じた吉田長期政権(昭和29年)>

   

                                            2009,08、17 
 
1954(昭和29)年とはどんな時代だったのか

       <大疑獄事件で幕を閉じた吉田長期政権(昭和29年)>

               
                                                     前坂 俊之       
                         (静岡県立大学名誉教授)
 
① 造船疑獄で佐藤栄作逮捕へ、指揮権発動
 
『横田メモ』『森脇メモ』-ワイロを克明に記録した汚職メモが政界を震撼させた。
政財官が癒着した構造汚職体質にどっぷりとつた日本の政治の黒いハラワタを切り裂いた。この造船疑獄事件の摘発が吉田内閣にとどめをさして6年余に及んだ吉田ワンマン政治は終焉を迎え、保守合同で日本の保守政治は一本化して自由民主党の結成へとつながり、鳩山内閣に代わっていく。敗戦、占領、混乱から独立へと歩んだ昭和20年代は「もはや戦後ではない」、新しい高度成長期の昭和30年代の日本へと移っていく。
 
事件の発端は、当時日本最大の高利貸しの森脇将光が「日本特殊産業」の猪俣功社長を1000万円の背任事件で告訴したことから始まる。
東京地検の捜査で、猪股社長からの山下汽船へ一億六千万円、日本海運への三三五〇万円の融資が焦げ付き、海運、造船会社から政治家へ多額のワイロが流れたことが判明、一月十五日、山下汽船・横田愛三郎社長を贈賄容疑、日立造船・松原与三松社長ら四人を特別背任の容疑で次々に逮捕した。多額の使途不明金と大物政治家との会合の日付、献金額が克明に書き込まれた「横田メモ」が発見され、戦後の代表的疑獄事件の昭電疑獄と並ぶ一大政治疑獄事件に発展していった。
 
戦前、世界三位だった日本の海運業は敗戦で壊滅する。政府は海運復興のため造船業をテコ入れし、昭和22年から全額政府出資の「計画造船」をスタートさせた。
一隻十億円の外航船の場合、政府が七十%を融資。朝鮮戦争以後は、大型船舶の建造にも拡大して資金の七十%は米国の「見返り資金」を年利七.五%で貸し付ける保護政策をとった。朝鮮戦争休戦により不況が海運・造船業を直撃。海運、造船業界は銀行融資の利子の約半分を国が肩代わりする「外航船舶建造融資利子補給及損失補償法」の制定を政界に強く働きかけた。
 
28年八月、吉田自由党と鳩山自由党、改進党の保守三派はこの法案を共同で国会に提出、わずか十日間のスピード審議で可決された。この時点で早くも疑惑が浮上していた。
28年度の第9次計画造船37隻の建造費445億円のうち財政投融資は266億円で運輸省新造船舶建造審査会が船主の適格性を選考する。
 
この審査と同利子補給及損失補償法成立をめぐって、海運、造船業界の幹部から、自由党や運輸省幹部へワイロがバラまかれたが、その資金は海運会社が造船会社から受取ったリベートから出ていた。これを裏づける高級料亭で政治家、財界人が会合していた詳細な記録の「森脇メモ」も暴露された。
 
東京地検特捜部は贈賄側の日本造船工業会会長丹羽周夫,同副会長土光敏夫,飯野海運社長俣野健輔ら七十一人を逮捕、俣野社長が中心となり、政界・官界に流れた金は合計二億七〇〇〇万円にのぼったことを突き止めた。 
 
政界側では、最初に自由党副幹事長・有田二郎が逮捕され、同党の関谷勝利、岡田五郎、加藤武徳参議院議員らが逮捕され、改進党荒木万寿夫にも逮捕請求が行われた。また、自由党幹事長・佐藤栄作は造船工業会、船主協会などから2500万円を収賄、同党政調会長・池田勇人も、飯野海運社長から200万円を収賄した容疑で取調べられた。
佐藤、池田らは利子補給法制定を国会に強く働きかけていたことも判明した。佐藤と池田の吉田の両腕は収賄容疑で逮捕必至の情勢となった。
 
国会会期中のため検事総長は佐藤の逮捕許諾請求を犬養健法務大臣に請訓する。四月十九日、吉田首相は、緒方竹虎副総理、犬養健法相と協議のうえ、「暫時逮捕状請求を延期し、任意捜査を継続せよ」と文書で指示。
 
21日に犬養法相は正式に検察庁法第14条にもとづいて検事総長へ「重要法案の見通しがつくまで延期せよ」との指揮権発動し、翌日、犬養法相は辞任した。このため、捜査は挫折、佐藤の逮捕は見送りとなった。佐藤は政治資金規正法 違反で起訴(31年12月国連加盟恩赦で免訴)されただけで、7月30日、検事総長は事件終結を発表した。結局、収賄で有罪となった政治家はわずか七人で、泰山鳴動してねずみ1匹に終った。
指揮権発動によって日本の保守政治の下部にある構造汚職の追及は阻止されたため、以後、20年間、ロッキード事件までは疑獄事件の摘発は困難な状態となった。
 
② 吉田ワンマン内閣の終焉へ、
 
暴挙ともいえるこの指揮権発動により、佐藤をはじめ池田ら百人におよぶ逮捕予定者が救われた。この事件では議員やエリート官僚、上司の詰め腹を切らされるように二人の下級官吏が自殺した。ところがワンマン吉田は汚職を肯定するかのような発言や、世論やマスコミの批判を「造船疑獄は流言蜚語だ」など居直り発言をしたため、世論は猛反発し、財界も吉田批判に回った。「MSA協定によるアメリカの援助だけでは景気が上向かない、吉田のアメリカ一辺倒の政治、西側尊重の経済だけでは将来は先細り、中国・ソ連などの社会主義国とも国交や貿易を回復しなければ、日本経済の復興、発展はありえない」との論調が主流を占めた。
十月、経団連、日経連など財界四団体も吉田退陣要求を正式に発表した。これを追い風とし、自由党の鳩山派や他派閥、他党も鳩山一郎を総裁に、日本民主党を十一月二十四日旗揚げする。衆議院一二一人、参議院で十八名の第二党である。世論、マスコミ、財界のほか、吉田を支持してきた保守勢力、自由党内部からも吉田の退陣を求める声は高まるばかりであり、ついに吉田包囲網は完成し、十二月六日、吉田内閣不信任案が国会に提出された。吉田は国会を解散し、総選挙に持ち込もうとしたが、側近の池田勇人、緒方竹虎らに説得され、翌七日、吉田は内閣総辞職を決断した。吉田は自由党総裁を辞し、緒方が後任に就任した。こうして講和をはさんで六年間も続いた吉田長期政権はついに幕を閉じた。
 
③ 保全経済会汚職
 
造船疑獄の前に政界汚職となるかと思われたのが、保全経済会事件である。一月二十六日、東京地検、警視庁捜査二課は利殖機関「保全経済会」の伊藤斗福理事長を詐欺容疑で逮捕した。同会は前年十月、一般庶民から四五億円を集めながら、株価大暴落で配当不能の休業状態となり、同種の金融機関への保護立法を実現しようと、政界工作した疑いが浮上した。
捜査の結果、伊藤は右派社会党の平野力三議員、改進党の早稲田柳右衛門議員らを顧問にすえ、自由党有力者にも政治献金をしていたことが判明。衆議院行政監察委員会では平野が「自由党工作では広川弘禅に三〇〇〇万円を手渡し、池田勇人と佐藤栄作が責任を持つと言った。また、改進党の重光葵らに立法化を承知させた際には、改進党の駒井重次にも三〇〇〇万円を渡し、鳩山一郎と三木武吉にも一〇〇〇万円を献金した、と伊藤から聞いている」と爆弾証言したが、政治献金の件はいつの間にか立ち消えとなり、伊藤たちはじめ保全経済会の幹部だけが罪に問われた。この事件で一部浮き彫りとなった政界の闇が造船疑獄によって徹底解剖されることになる。
 
 
④ MSA協定
ところで、日本国内は相変わらず不況と混乱が続いていた。前年から続いて日本製鋼所室蘭工場で、労働者の二五%にあたる九〇一人が解雇され、尼崎製鋼所でも賃下げに反対した労働者四六六人を解雇されたが、こうしたスト中に経営が破綻した。
 こうした不況の打開策として吉田内閣は3月にMSA協定(相互防衛援助協定)を締結した。これはアメリカの軍事援助を中心とする対外援助法のこと。援助を受けるには「自国の政治的安定と経済的自立」「人力、資源、施設および一般的経済状態が許す限り全面的寄与を行う」という条件と義務が伴い、日本に対して再軍備を求める性質の援助であった。アメリカは朝鮮休戦後のアジア情勢に備え、日本を反共の防波堤にするために再軍備を強く求め、吉田も経済復興のために同協定を選ぶという双方の利害が一致した。
吉田内閣は同協定による援助を実現させるため、重要法案を次々と提出した。その一つが防衛二法。講和発効後に警察予備隊は保安隊と名を変えていたが、同年七月、保安隊を自衛隊に拡大し、陸上、海上、航空の三自衛隊として、主たる任務を「直接侵略および間接侵略」に対して日本を防衛することにし、防衛庁設置法と自衛隊法を制定した。
2つ目は「愛国心」を育むための教育法案である。政府の意に沿わない教育は、中立に背くものとして取り締まる「義務教育緒学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置」を用意した。三つ目はアメリカ軍が提供した兵器は防衛秘密であるとした「秘密保護法」。四番目は警察力を強化するため、自治体警察を廃止し、戦前の中央集権的警察制度に戻すための「警察法改正案」である。
このMSA協定と一連の法案に対し、国会や世論からは強い反対運動が盛り上がった。だが、政府は国会を延長させて教育法案を通過させた。また、与野党議員による乱闘騒ぎを引き起こした警察法改正案も、野党議員欠席のまま与党議員だけで強行成立させた。こうした吉田ワンマンの強硬姿勢に野党、反吉田グループ、世論、マスコミなどは反発を強めていたが、「造船疑獄」がこれに追い討ちをかけた。
 
⑤ 高度成長への足がかりとなった設備投資ブーム
 
経済はどうだったのか。(前年53)度は独立後初となる外貨危機を迎え、政府は金融・財政両面からの厳しい引き締め策を実施した。この結果、不況に陥って、鉱工業生産は三月のピークから八月には約八%低下し、六十万~七十万人の失業者が出た。
しかしこの「二十九年不況」は、世界経済の拡大に乗じて国際収支が六月には黒字に転じるなど、短期間で回復してくる。また、敗戦によって壊滅的な打撃を受けた日本の産業界も、戦後に発足した通産省(当時)の手厚い保護政策のもと、重化学工業などあらゆる分野で次々と近代的設備投資をしてその基盤を固めていく「設備投資ブーム」が到来する。
鉄鋼業界ではホット・ストリップ・ミル(熱間連続圧延装置)を導入して間もなく、ゴールド・ストリップ・ミル(冷間連続圧延装置)を取り入れるなど、近代的な設備を完備した結果、労働生産性は一挙に十倍まで高まった。川崎製鉄千葉工場のように、従来の工場の継ぎ足しではなく、新しい鉄鋼一貫生産の工場が各地に建設されるようになったことから、品質の点でも欧米品に劣らぬ薄板を大量生産することが可能となった。
電力では佐久間ダムの着工(52年)、三重、多奈川、苅田の新鋭火力発電所のプラント輸入契約(53年)がなり、石炭では西ドイツ技術の導入による採炭法の普及、たて抗開発の一般化が進む。さらに化学工業(硫安合理化計画)、石油化学(三井など四グループの起業)、合成繊維(東レ、倉レのビニロンの量産化)の投資も伸び、また、造船、電気機械部門もこの時期に生産様式の近代化が急速に進み始めた。その結果、55(昭和三十)年から始まる高度経済成長への足がかりを築くことになる。
 
⑥ 「衣食」の充実と「住」の欠乏
 
生活面はでは、衣料切符による購買統制が撤廃されたのが50(昭和25)年九月。その後、外貨獲得のための輸出向けに生産されていた綿布が、51年秋以降の輸出不振のために国内市場に出回り、価格は急落する。これで綿製品や、品質が改良された人絹などに需要が高まった。53年の国民一人当たりの繊維消費量は約六・八五キロと、すでに戦前を40パーセント上回り、洋裁ブームに伴い、子供服や婦人服の既製服化、ファッションの大衆化を促進した。
 食生活の面でも改善が進んだ。敗戦後から米の配給制度は維持され、外国米の配給に頼らざるを得なかったが、54年ごろになると低価格のヤミの内地米に注目が集まり、配給を辞退するケースが増え始めた。配給による外食券なしでも食べられるようになったのもこの頃から。こうした配給に頼ることのない食生活で、国民一人当たりの一日摂取カロリーは二〇四八カロリー(終戦当時のは一三五〇カロリー)にまでに回復。エンゲル係数も五〇%(同・七二%)程度まで下がった。
 
 その一方で深刻な状態が続いていたのが住宅事情。54年十月末の住宅不足は、都市部を中心に約二八四万戸であり、国民一人当たりの畳数はわずか三・三畳と、終戦当時よりも悪化していた。その背景は、都市生活の安定で、農村、漁村から次男、三男、そして引き揚げで職にありつけない人々が大都市に職を求めて流入してきた。
そのため土地価格と建設費高騰が住宅難に拍車をかけた。前年八月、東京都住宅協会が杉並区和田、大田区石川町、世田谷区経堂の三ヵ所に、六畳、四畳半、台所、ガス風呂、ベランダ付きの鉄筋コンクリート賃貸アパートを公開、募集したところ一万六〇〇〇人が殺到、競争倍率は何と七十倍となった。同年十月、都内初の区営建売住宅が杉並区久我山で売り出されたが、敷地六十坪で土地代が約二十五万円、建築費四十二万円の計七十万円以上という価格となった。
 
当時の公務員の給料が約一万二千円だったので、いかに高額の物件かがわかる。だが、こうした住宅難も翌55年に設立された日本住宅公団により、大型団地やアパートなどが郊外に順次建設され、次第に解消されていく。
 住宅難とともに政府を悩ませたのが「交通戦争」である。
都市部への人口集中や全国的建設ラッシュなどにともないタクシー、ダンプカー、砂利トラックなどが増加、全国の交通事故死亡者は53年に五五四四人。五十五年が六三七九人と増加していく。東京では交通緩和策として営団地下鉄丸の内線(池袋・御茶ノ水間)を54年に開通させたものの、追いつかず、車両の増結と運転間隔の短縮で対応、やがて学生アルバイトによる「尻押し部隊」が登場する。
 
⑦ 正月を襲った「二重橋事件」
 
 この年は正月早々から大事故も起きた。「二重橋事件」である。二日午後、皇居正門二重橋上で人々が一般参賀に殺到して、押し合いへしあいの大混乱となり、折り重なって倒れて死者十六名、重軽傷者六十三名を出す大惨事となった。警視総監は警備の責任をとって辞表を提出したが却下され、警視庁と皇宮警察本部は九人の行政処分を行った。東京地検は「丸の内、皇宮警察双方の警備責任者の過誤はある。しかし、刑法上の責任は無理、不起訴とする」との結論を公表した。同事故では十歳になる少女が失明したが、手術によって開眼したことが救いだった。
 
⑧  「第五福竜丸」が死の灰を被爆
 
三月一日早朝、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁近くで、アメリカによる水爆実験が行われた。使用された水素爆弾の爆発力は広島型原爆の約千倍の二十メガトンと推定される、想像を絶する代物だ。付近を航海中の静岡県焼津漁港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」(見崎吉男漁労長、乗組員二十三人)が死の灰を浴びた。
 
午前4時前、水平線から一斉に光があふれて空が閃光に包まれた。見崎は久保山愛吉無線長(四十歳)に「アメリカの船や飛行機が哨戒しているはずだ。厳重に見張ってくれ」と指示、甲板員に「エンジンを掛けろ」と命じた。閃光から七~八分してドーンという爆音が響き、キノコ雲が上空を襲った。午前七時頃には、白い灰が雨といっしょに降り始め、灰は甲板に足跡が残るぐらい降り積もった。乗組員は二日目には目や口元がヒリヒリし手のひらが痛み出し、一週間目には髪の毛を掴むと髪が抜けた。
 
三月十四日、第五福竜丸は静岡県焼津に帰港。全員をガイガー・カウンターで計測したところ、「急性放射能症」と診断され、久保山さんら二人が緊急入院した。水揚げされたメバチ、キハダマグロやサメ約九四〇〇キロは、東京・築地のセリに掛けられるはずだったが、放射能汚染により廃棄処分にされた。これに立ち会った関係者は「見た目には色も無く、音も無い、熱くも無く普通の状態なのに放射能の恐ろしさを感じた」と言う。
「原爆マグロ」という風説はあっという間に広がり、マグロの売れ行きは急落し、十七日には仲買相場は半値まで下がった。こうした経緯から、ビキニ環礁付近で操業した漁船の寄港・水揚げは東京・三崎・焼津・清水・塩釜の五港に限定され、全て赤ペンキを塗り房総半島沖に破棄された。
 
事故から半年後の九月二十三日、東京・戸山の国立第一病院で久保山さんが息をひきとった。他の乗組員も翌年五月に退院したが、七人が帰らぬ人となった。悲劇の象徴となった第五福竜丸は東京湾に朽ち果てた姿をさらしていたが、現在、東京・夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」で永久保存されている。
広島、長崎、そして第五福竜丸と、三たび原水爆の惨害に原水爆禁止運動が大きく盛り上がり、超党派で地方自治体、議会、各種団体も動き出した。八月二十日には原水爆禁止署名全国協議会がつくられ、学士院院長の山田三良と、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹らが代表世話人となった。署名の数は日増しに増え、全国運動成立後の十月はじめには一千万人、十二月には二千万人を突破し、新たな平和運動となった。
 
だが、こうした原水爆反対の運動に対してもアメリカはソ連に対抗して「原水爆の増産と実験を継続する」と言明。日本でも四月の日米協会で岡崎外相が「共産主義の脅威がある以上、原水爆はやむを得ない。アメリカに禁止を求めない」と発言して物議をかもした。数々の汚職や疑惑に加え、これで世論は吉田内閣の姿勢に見切りをつけ、吉田が外遊から帰国してわずか二十日後の十二月七日、吉田内閣は倒れるのである。
翌年(昭和三十)八月、広島市では原水爆禁止世界大会が行われた。米国、オーストラリア、中国、イタリア、ポーランド、セイロン、インドネシア、マレーなど世界十一カ国から五千名が参加し、世界大会は毎年行われることになる。
この水爆実験をヒントにした映画「ゴジラ」(東宝、製作・田中友幸 監督・本多猪四郎 特殊技術監督・円谷英二)が制作され、大ヒットした。水爆実験で太古の眠りからさめたゴリラとクジラが合体した怪獣「ゴジラ」は、放射能をはきながら人間社会を徹底的に破壊するというストーリー。人間の愚かさと科学の過ち、水爆の恐怖を描いた『ゴジラ』は怪獣映画の元祖として海外でもヒットし、シリーズ化される。
 
⑨ 日本の最大の海難事故・洞爺丸沈没事故
 
死者一一七五人という日本の最大の海難事故となった「洞爺丸沈没事故」は九月二十六日に起きた。大型台風十五号は四国で大きな被害を与え、関西地方から日本海に抜け佐渡を通過し北海道へ。青函連絡船の大型フェリー、洞爺丸(四三三七トン)は午後二時四十分、函館港から青森港に向けて出航する予定であったが、平均四十メートルの強風と雨で出港を見合わせていた。
午後六時三十分頃、風雨が弱まり晴れ間が見えてきた。昼の天気予報でも夕方頃に台風が通過するとの情報もあり、出港できると判断した船長は一路、青森港に向け出航した。ところが、函館港からわずか五キロほど進んだ午後七時、空は急激に曇天となり風雨が激しくなり、船体が大きく揺れだす。船長は、「台風通過後の影響」と判断、「函館港に戻るよりは投錨し風雨が弱まるまで待つ」と決断した。ところが、台風は日本海で急速に速度を落としていたため、まだ北海道に到達していなかった。まさに投錨した段階で台風が最も接近していた最悪の条件となった。
暴風で積載していた貨物のバランスが崩れて船は大きく左右にローリング、近くの岩礁に座礁させ船を固定させたが、午後十時四十三分、洞爺丸は横転沈没した。海岸線までわずか六〇〇メートルで、海に投げ出された乗客は泳げない距離ではなかったが、暴風雨で泳げず、乗客・乗員合わせて一一七五人が死亡(行方不明含む)。生存者はわずかに一六三人という日本の海難事故では最大の被害者を出した。
同夜の台風に巻き込まれたのは洞爺丸だけではなかった。貨物連絡船「十勝丸」「日高丸」「北見丸」「第十一青函丸」の四隻も沈没し、合わせて289人が死亡した。この事故で青函トンネルの早急な実現が叫ばれた。また、この事故を題材として水上勉は「飢餓海峡」を、三浦綾子は「氷点」の小説を描き、いずれも映画化(「飢餓海峡」は内田吐夢監督「氷点 」山本薩夫監督)された。
 
⑩ 近江絹糸の人権ストライキ
 
滋賀県、大阪府などに七つの工場を持ち、従業員一万三千人の国内有数の大紡績「近江絹糸」がその名を世界にも知られたのは「人権無視の会社」としてだ。「工員なんてものは牛か豚ぐらいに考えなければ金儲けはできん」。これは雑誌「改造」で述べた近江絹糸社長・夏川嘉久治の発言だが、同社の労働者への姿勢はまさに奴隷そのものだった。48(昭和二十三)年から54年までの六年間に、不当労働行為や労働基準法違反などを一四七件(うち起訴九件)起こし、地労委などから再三戒告を受けていたが会社側に改善する姿勢は全く見られなかった。
54年五月、同社に全繊加盟の労働組合が結成されたのを機に、従業員は「近江絹糸紡績労働組合決起大会」を決行、二十二項目からなる「人権要求書」を可決した。その内容は「信書の開封と私物検査の即時停止。結婚の自由を認めよ。仏教の強制反対。密告者報奨制度と尾行等のスパイ活動の強要停止。月例首切り反対。残業手当の支給」など驚くべき人権無視の実態が明らかになった。
組合は六月三日に即時団交を申し入れたが、会社側が拒否したため、翌四日に無期限ストに突入、一〇六日間にわたる「近江絹糸争議」が始まった。会社側に対して、「信書の開封、私物検査の即時禁止など、よくもこんな会社が存在するものだとあきれる」(新聞の投書)など全国から非難の声が殺到、一方、組合を支持・応援する多数の声が寄せられた。
結局、会社、組合双方の乱闘事件が起こったり、国会議員による現地調査などを経て、中労委は「十大紡績並みの労働協約を結ぶ」「人権に関する事項について会社側は諸機関の指示に従い改める」などの斡旋案を提示。双方がこれを受け入れ、ストライキは収拾されたが、この間に四百数十名の負傷者と自殺者など多数を出した。作家の三島由紀夫はこのストを題材に小説「絹と明察」を著した。
 
⑪ 「カービン銃事件
 
この年にも痛ましい犯罪や事件が相次いだ。その中で、外国のギャング映画をほうふつとさせたのが「カービン銃」事件である。
六月十四日、カービン銃や短銃で武装した一味が、保安庁(現・防衛庁)技術研究所会計係夫妻を脅し、小切手七枚(額面一七五〇万円)を奪取。そのうちの九七万円を現金化したうえ、係長夫妻をロープで縛って監禁、逃走した。同夫妻は十六日になって監禁先から脱出して、警察に駆け込んで事件が明るみに出た。警視庁の捜査で、保安庁の元隊員・大津健一(当時二十八歳)の犯行と断定、全国に指名手配、七月二十一日、大分内で強盗容疑で逮捕する。だが、その共犯者であり同伴者に世間はあっと驚いた。元女優で準ミス銀座のN子(当時二十七歳)と一緒だったからだ。

二人は夫婦気取りで、逮捕されるまでの一ヶ月間、大金でゼイタクな逃走旅行を続けていた。大津は、一見紳士的で穏やかな雰囲気を持ち「宮様」のようだと言われて人気があった。一方のN子は元女優での美人で、二人の護送は大騒ぎとなり、東京駅では報道陣や野次馬五〇〇〇人が集まり一時パニック状態となったほど。

大津は、警視庁の取り調べで本件以外にも東京都下で発生し迷宮入りと言われていた「マンホール殺人事件」の犯行も自供。昭和三十三年六月七日、東京地裁は十一件の罪名で大津に死刑判決。大津は控訴して東京高裁で無期懲役となった。
 
 
⑫ アジアではジュネーブ協定の締結で、ベトナムの戦火やむ
 
ところで、この年の世界情勢、アジアの情勢はどうだったのだろうか。朝鮮戦争の休戦、そしてスターリンの死去にともなう東西冷戦の緊張緩和。ようやく平和が訪れる気配が漂いはじめた七月、インドシナ休戦のためのジュネーブ協定が結ばれた。
 インドシナ戦争とは、第次世界大戦での日本の敗戦で、インドシナへの復帰をはかったフランスと、ベトナム、カンボジア、ラオスの独立運動の勢力との間で、一九四六年から8年余わたって戦われた戦争である。大戦終結後、四五九月二日のベトナム民主共和国の独立宣言に象徴されるように、旧フランス領インドシナでは独立の気運が高まった。しかし、当時のフランスは現地の完全独立を一切認めず、復帰をはかるフランスと現地の独立運動勢力との間で戦争が勃発。ベトナム民主共和国との間では、四六に戦争が本格化した。
 四九年に中華人民共和国が成立すると、このインドシナ戦争も東西両陣営の対立という冷戦構造にとりこまれ、アメリカが、共産主義との戦いということでフランスを支援したのに対して、中華人民共和国はベトナム民主共和国を支援し、またカンボジアでも共産主義者が増えていった。
戦争は長期化していたが、東西対立に緊張緩和の動きが生まれた五四年になり、ようやく停戦に関する会議がジュネーブで開催されることになった。月にベトナム北西部のディエンビエンフーでフランス軍がベトナム民主共和国軍に降伏し、月にはジュネーブ協定が締結されて、戦争に終止符がうたれた。
しかし、このジュネーブ協定によってベトナムは南北に分断され、協定に調印しなかったアメリカが共産主義勢力の浸透から南ベトナムを支援に回り、今度はアメリカとベトナムの民族解放戦線との約二十年にわたる戦いが始まる。いわゆるアメリカによるベトナム戦争の始まりとなった。
ともあれ、これでひとまずアジアでの戦火らしきものはやんだ。これから先は平和な世界が訪れるだろうと、多くの日本人はそう思い、願った。
 
⑬ 話題と人気殺到のモンロー、ヘップバーン
 
 暗い事件や事故が多発する一方で、華やかな話題をふりまいたのが二人の外国スター女優の来日である。1人はアメリカのセックス・シンボルといわれた「マリリン・モンロー」。アメリカ大リーグのニューヨーク・ヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオとの新婚旅行中、2月に日本に立ち寄った。

モンローウオークやセクシなスタイルでの会見の席上、「ベッドでは何を着て寝るのか」との質問に、「私のネグリジェはシャネルの五番だけ」と答え、日本男性を悩殺した。この1言で香水「シャネルの五番」がヒットし海外で買い求める男性や女性が数多く出た。しかし、モンローはこれからわずか8ヶ月後に精神的虐待を受けたとして離婚した。
 

もう一人は「オードリー・ヘプバーン」。ウイリアム・ワイラー監督「ローマの休日」(4月に封切り)でデビュー。王女役で主演したヘプバーン」は、そのボーイッシュでいながら上品で清楚な雰囲気が受け、世界的な人気女優となり多くの日本人ファンも獲得した。ヘプバーンが映画で食べるソフトクリームと前髪を垂らしただけのショート・カット(ヘップバーンスタイル)はたちまち大流行となった。
二作目となった「麗しのサブリナ」では、細身のトレアドール・パンツ、底の浅いサブリナ・シューズも人気となり、人気女優としてだけではなく、女性たちのファッションリーダーともなった。六月には日本橋にある百貨店の白木屋で「ヘプバーン・スタイル審査会」が開かれ三十数人が参加し「ローマの休日」のヘプバーン・ヘアーなどを競った。離婚したモンローとは逆に、ヘプバーンは九月、俳優のメル・ファーラとスイス・アルプス山中の教会で結婚式をあげた。
 
⑭ プロレスブームと雑誌ブーム
 
テレビは前年のNHK東京テレビジョン、日本テレビ放送網(NTV)の開局に続き、この年はNHK大阪と名古屋(三月)が、民放ではラジオ東京テレビ(現・TBS 四月)が開局した。受信契約者数は五万人(五十四年度末)と前年の3倍に増えたが、まだ受像機は高価なため、多くの人々は街頭テレビに群がった。人気の中心はなんといってもスポーツ中継で、中でも力道山のプロレス中継は他を圧倒し大人気となった。シャープ兄弟やオルテガなどアメリカ勢の悪役を空手チョップでなぎ倒す姿に、溜飲を下げ、街頭テレビは黒山の人だかりで老若男女とも大歓声をあげた。
テレビ登場と並んでマスコミ時代の到来を告げたのが、雑誌ブームである。54年度の雑誌発行部数ベスト十は、主に農家向けの「家の光」をトップに、以下「週刊朝日」「サンデー毎日」「文藝春秋」「平凡」「主婦の友」「婦人生活」「婦人倶楽部」「リーダーズダイジェスト」と続く。「週刊朝日」と「サンデー毎日」を除くとすべて月刊誌で占められていた。
ベスト十にはランクされなかったものの、「週刊読売」と「週刊サンケイ」の新聞社系の週刊誌がすでに人気となっており、これに刺激されたかのように出版社系の初めての週刊誌「週刊新潮」(56年)、「週刊女性」(57年)、「週刊ベースボール」「週刊大衆」「週刊明星」「週刊女性自身」(以上58年)、「朝日ジャーナル」「週刊現代」「週刊平凡」(59年)など、その後の空前の週刊誌ブームを迎えることになる。 
赤ちゃんの命名でもブームがおきた。前年下半期の赤ちゃんの名前が、上半期までの「えり子」から「君の名は」の影響で「真知子」に取って代った。また、岸、津島、淡路の三女優の「恵子」も人気となった。男は吉田の「茂」からノーベル賞湯川博士の「樹」をとった名前が多く付けられた。
 
コラム ・・主な物価
公務員の給与(国家公務員・一般職) 一五四八三円
大卒初任給(民間) 八九二〇円
煙草(ピース十本入り) 四五円
コーヒー(東京の喫茶店) 五〇円~一〇〇円
ウイスキー(特級) 六〇〇〇円
同(一級) 七三〇円
米価(一キロ・公定価格) 七六円
自転車 一五七〇〇円
 
 
 
 
 
 
 

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