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<裁判員研修ノート②>全告白『八海事件の真相(中)』<昭和戦後最大の死刑冤罪事件はこうして生まれた>②

   

全告白『八海事件の真相』(中)
 
<死刑冤罪事件はこうして生まれた>②
 
「サンデー毎日」(1977年9月11日号)  前坂 俊之(毎日新聞記者)
 
 
 
八海事件がおきたのは1951年(昭和26)1月24日夜、山口県熊毛郡麻郷村(現・田布施町)でHさん(当時六十四歳)と妻(同)が殺されたのである。敗戦の混乱が尾を引き、物騒な当時としては、さして珍しくもない強盗殺人事件であった。
 こんな単純な強盗殺人事件がなぜ十八年間ももつれ、七回も単独か、五人共犯かをめぐって裁判をくり返したのか。裁判の経過や吉岡ノートを参考にしながら追ってみると、冤罪の構図″がくっきりと浮かび上がってくる。
 
 真犯人の吉岡は、被害者のH宅のごく近所に住んでいた。小さい時から片付けや掃除を手伝っおり、Hさん宅の勝手をよく知っていた。借金の払いに困り、そのHさん宅に盗みに入り、顔を見られたため、バレたと思い一瞬の恐怖から殺してしまったのである。吉岡はそれまに四回の窃盗歴があった。いずれの場合も、酒を飲み酔って度胸、をつけてから勝手を知った家に入るという手口で、八海事件もこの延長線なのだが、突如、顔をみられたため殺してしまったのである。
当初の目的はあくまで窃盗であり、現場付近には数多く、その証拠が残されていた。途中で思わぬ殺人に発展したのであわてふためき、幼稚でデタラメな偽装工件をした。混乱した支離滅裂な現場は、冷静にみれば、酔っぱらいのむちゃくちゃな犯行とわからぬはずはない。ところが、田舎の警察で捜査能力も低レベルだったので、この幼稚な工作を見抜けなかったのである。
 
当時の熊毛署のM捜査主任(後の山口県警刑事部長)の現場検証ではーーー
 
    犯人は内部から戸締りをして脱出、夫婦げんかに偽装している。
    H宅にはいる畑付近に素足、ゾウリ、ゲタの3つの異なった足跡がのこっていた。
    納屋の前に大量の脱糞とマッチの燃えがら五、六本が落ちていた。
    北裏口床下の羽目板が二枚はがれ、人間のはったこん跡が見受けられる。
    Hさんは頭と顔に四ヵ所(実際は八カ所)の傷を受け、片手を火鉢に突っ込み、室内には火鉢の灰が散乱、タビの足跡が一つ残っていた。
    玄関口の六畳間に百ワットの電灯がついたまま。四畳半との境のカへモイにHさんの妻が足をタタミ来くの字に曲げてつけ、首をつっていた。
    ヒサさんの両手両足には血が塗り付けてあり、その帯に血のりいた包丁一本、寝室とカモイの境に血のついた長オノがあった。
    タタミは一度持ち上げられており、タンスの引出しやトビラも全部開けられたあとがあった。
 
多数の計画的犯行と断定
 
 以上の状況から「本件は夫婦げんかの末、妻がオノでHさんを殺し、自ら首をつって死んだように偽装した残忍な犯罪で、一人の犯行とは認められず、数人が共同して犯したものと認められる」と一挙に多数犯の計画的な強盗殺人と断定した。吉岡にはまことに好都合な結論となったわけだ。こうして警察の見込み捜査が八海事件を十八年間ももつさせた発端になった。
 
「私は一月二十四日タ、新庄鮮魚店で焼酎二合を掛り、午後七時半ごろ出ました。C(l月十五日に酔って馬車に頼んであった土の入った箱をひつくり返し、その謝りの酒代を借りた相手)に八百円ほどの借金があり、返済がのびのびになっており、私は近所で金がたやすくとれるHさん方を思い出した。玄関のところから家の中を見ると、まだHさん夫婦は起きていた。ふろ場横の作業場にバールがあったので、これはよいものがあったと手にした。Hさんの寝入るまで私は大便をしたり、タバコを吸いながら外で待っていた。
 
 表も裏もどの戸も閉めてあった。内便所横の窓をバールでこじあけて入った。土間と炊事場の板戸はしめてあり-、板戸に小刀でノゾキアナをつけ寝入ったかどうか見た。電気が消えたのでもういいだろうと、Hさんの寝室に入ろうとすると『だれか』と大声がして、豆電気がともされた。私は顔をみられたと思い逆上して、土間にあったオノでHさんを一度、三度と殴りつけた。妻ははフトンの中にもぐり込んでガタガタふるえていた。『強盗じゃ』と声を出したので、ロをふさぎ、首をしめた。
       
 タンスの中から千円札を五枚、百円札二十枚、十円札五、六十枚を取った。酒の酔いも一度にさめ、明日になると、バレルと不安になってきた。どうしたらよいか考えているうち、殺人を自殺したかのように見せかける芝居を、いつか見たのを思い出した。台所の階段付近に黒いヒモがあったので、ヒサさんをカモイにつり下げようとしたが、死体が重すぎて切れた。今度はロープでやったが、やはり重すぎて何度もずり落ちて失敗。妻が夫のHを殺したように見せかけるため血を妻の手や足に塗りつけ、オノや包丁を手で握らせ指紋をつけた。火鉢の灰を部屋にまき散らし、Hさんがまいたと見せかけるため左手を火鉢の中に突っ込んだ。中から戸滞りをして、床下かちはって表に出た」(吉岡ノート.一冊目要約)
 
焼酎を一升飲んでの犯行
 
 吉岡は一升近く焼酎を飲んでの犯行だった。書間ノートでも、犯行については大筋だけの記述しかない。細部についてはよく覚えておらず、、警察での第一回調書で記憶しているかぎり、ありのままを述べたという。
                            -
 吉岡は事件後間もない一月二十六日朝、柳井市の遊郭で逮捕された。警察での第一回供述調書(二十六日)自分1人の単独犯行▽第二回調書は警察が紛失してない▽第三回(二十八日)六人共犯に一転する▽四回(同)六人共犯▽五回調書(二月一日)五人共犯とめまぐるしく変転した。
 
単独犯行から2回目の供述調書はどうかわったのか、単独犯のままなのか、警察は紛失したとして、最後まで公判には出さなかった。すべての冤罪事件に共通するミステリー、重要書類はいつのまにかなくなるという警察の証拠隠しがここでもまかり通った。
 供述調書がころころ変わった裏には何らかの強制か誘導が介在したのではないか、と公判中に弁護側から何度もきびしく追及されたのである。
 
警察は最初から「一人では不可能、多数による犯行」ときめつけた『見込み捜査』にたいして、単独犯行を吉岡が素直に自供すると
「『お前は警察をバカにしているのか』と私のほおべたを2,3回なぐった。私が『本当です』というと、『こちらにはお前が一人だといっても、ちゃんとわかっているのだ。いわなければお前の体にきいてやる』と裏の道場に連れていった。刑事が私の手を前で両手錠にして、殴る、ける。そして私を正座させ、足の下に警棒を四本くらい置き、その上に上がり、ドスンドスンと力を入れる」(吉岡ノート二冊目)
 
 二十八日には共犯としてI、M、Nの3人、二十九日には主犯としてAさんが逮捕された。
 
『Aたちは一緒にやったと言っているぞ』と言った。私は何のことかさっぱりわからなかった。どうしてAたちがそんなバカななことをいうのだろうと思った。しかし、M捜査主任たちは『いわんか』と片方の手を肩の上から背中にまわし、もう一方の手を背中の下から回して“鉄砲手錠”をかけて、背中をなぐりつけた。そのため、手首が切れ、血が出た。『お前が一人でやったといえば死刑になるぞ』とおどした」(同)
 
「刑事が聞くままに『ハイ、ハイそうです』と答えた。Aたちに罪をきせて死刑から逃れようなどとはかんがえてもみなかった。ただ拷問の苦もきから逃れたい一心で刑事のいうままに調子を合わせた。」(同)
 
「そのうち、ウゾを言つておれば・甘い汁が吸えるという悪いことを覚えはじめた。うまい飯もたべられるし、タバコも吸わしてくれる。自分の無理も聞いてくれる。私の人間的な弱点をうまく利用された」(同)
 
検事の調書にも
 
 傑作なのは、このデッチ上げのカラクリがI検事(第一審)の吉岡第五回調書(二月十五日付)に見事に記載されているのである。  
『六人共犯』の場合は、「山田説夫」(仮名)という人物も加わっていたことになっているのだが、吉岡は、その内幕について、
「山田説夫という人はあまりよく知りません。警察で取調べを受ける際にも」私は山田とはHさん方で悪い事をしたことはないといいました。しかし、警察の方から山田も一緒に悪い事をしたのではないかと聞かれるのせ、そんなことないと思うが、あるいは私の考え
 違いで、そんなことがあったかもしれんと申しました」
 
 当時の刑事裁判の量刑なら、二人を殺した強盗殺人の場合ほぼ死刑はまぬがれない。ウソの供述で拷問はひとまず収まったが、今度は死刑の恐怖が吉岡の全身を貫いた。ウソの供述か死刑か。生か死かの絶対的な状況に追い込まれたことを吉岡はひしひしと感じた。生きのびる道はウソをつくしかないのだ。
 
「Aらがかわいそうだという考えはなくなった。私は本当に鬼になった。人間としての考えや人の子としての血も涙もなかった。ただ刑事の言うようになっていれば、死刑から逃れられるかもしれ、ない。Aらがかわいそうだと思ったら自分は助からない。真実を
守ったら死刑だ。ウソがばれてももともとだ。おれには警察がついている」 (吉岡ノー上4冊目)
 
 以後、吉岡の警察と合作のウソはますますエスカレートする。Hさん宅にNがロープを探す、Mは口笛を吹く、Aからオノで順番に殴ることを決めたとか、身体に血がついたら石油かオキシフルでふけば、すぐ落ちるとAが話していたと、一見して架空とわかる児戯に等しい供述をせっせと述べた。死刑を逃れたい一心だったのである。
 被告人は弁護士は自由に選択できる。しかし、裁判官を選ぶわけにはいかない。冤罪につきおとされたAたちにとっては、このことが最大の「不運」になった。
 
 クルクルと変わった気持
                           
 第一審の山口地裁岩国支部は二十六年五月十四日から始まり、二十七年六月二日にAさんに死刑、吉岡以下に無期を下した。裁判長が藤崎晙氏。後に「裁判官は弁明せず」の鉄則をやぶり、正木ひろし弁護士『裁判官』に対抗して『八海事件・裁判官の弁明』を出版
した。向こう意気の強い人で、訴訟指揮もかなり強引だったという。
 
「公判ではAらの顔は一度も見られなかった。死刑になりたくない。今さら本当を言うと再び拷問をされるのではないか。私の言うことを信じてくれている被害者の親類の人たちを裏切れない。一度ウソをつくと、ひっくり返すのに大変な勇気がいる。特に相手は、絶対的な権力を持った警察なので一層だ。エエィ、グソー。Aらはここにおらんのだと目をつぶってウソを言った。この場の一瞬さえ逃れればよいと思った」(吉岡ノート四冊目)
 
      ノ
「あまり考えたくなかったが、自分が単独でやったということは裁判ではバレルという気持もあった。Aらはやっていないから、裁判官は必ず見抜くだろう。そうなればAらも助かり、私の警察や検事への義理もたち、すべてがうまくいくという気持ちもあった」(同)
死刑への恐怖とAらへの罪の意識。この相克に吉岡は苦しんだ。一時間おきに気持はクルクルかわった。こうした心の動揺、変化を吉岡は、何度もノートに書きつけている。
 
一方、Aたちはどうだったか。裁判官といえば、頭のよいりっぱな人だと無条件に信じ込んでいた。まさか、裁判官が自分たちを罪に落とすなど想像さえしなかったのである。
 
「毎回、裁判所に行くのに吉岡も同じ車で行った。車の中でわれわれ四人は自由に話していたが、吉岡は外ばかり眺め、こちらの方は一切見なかった。法廷でも蚊の鳴くような声で、途切れ途切れに陳述、その態度をみれば裁判官は偽証していることがすぐわかると思った」(Aさんの話)
 
「初公判がすんで、現場検証になった。吉岡は単独で行き、われわれは車で行った。吉岡は柳井署に一泊し、われわれは熊毛署の留置場に泊った。この時も吉岡には警察の差し入れがだいぶあった。後で聞いたことだが、現場検証の時、藤崎裁判長はMをかげに呼んで、『君は直接、犯行に加わていないので罪も軽い、早く白状して罪を清算したらどうか』と説諭したという。これを知って、もしかしたら不正な判決が出るかもしれないかなと思った」 (Aさんの話)
 
Aさんを担当した丸茂忍弁護士は、専門家だけに裁判の進み方に不安を抱いた。
 
吉岡が弁護側に突っ込まれて答えに窮すると、藤崎裁判長は弁論必要なしとか、追及をかわさせる助け舟を出した。検事以上に一方に偏した計訟指揮なので、これをセーブするために当時としては例のない速記を入れて公正な記録を残そうとした」と話す。
 
 十二回の公判の末、藤崎裁判長は予想通り、Aさんに死刑、吉岡以下五人に無期の判決を下した。判決では吉岡についてこう述べている。
 
「吉岡は他の被告と違って検挙された後、しだいに落着きを取り戻し、反省を重ねた結果果、深く自分の非を認め、日夜被害者の冥福を祈るなど悔悟の情がいちじるしいものがある」
一方、『八海事件・裁判官の弁明』で藤崎裁判長はAさんには『死刑の判決は当然と考えていたから、割合平静に言い渡すことができた」と書いている。また、判決の瞬間の表情は「Aは二人の老人を殺して何等、悔ゆることがなく、死刑の判決を受けたときも嘲笑的な苦笑をしていた」とも書いた。
 
オドオドで第一関門通過
 
 罪を二重に犯した吉岡がひどく悔悟するのは当たり前で、無関係のAさんらが胸を張って、悔ゆる表情がないのに何の不思議もないのではないか、それが裁判官には理解できないのである。
 
 二審は二十七年十二月二日、広島高裁、伏見正保裁判長で始まった。吉岡は相変わらず顔面そう白で、オドオドしながらウソの供述をくり返した。吉岡担当の田坂戎三弁護士が、最終弁論で次のように述べているほどだ。 
 
「吉岡の法廷での供述はえらくぼんやりして、考えなければなかなか理解できないような模様で、〝優秀ですぐ判断がつく頭″ではないことがわかる」
 丸茂弁護士も、こう追及した。
 「吉岡以外がもしやっておれば、あれだけの顔付きはしていない。自白した吉岡がしょうすいし、その他の者が平然としているのはおかしいではないか」と。
 
 吉岡は裁判の第一の関門は通過した。しかし、二審でウソが見破られれば再び死刑に直結する。生への望みが出てきただけに、吉岡は必死になった。Aを前にした公判では、うまく言えないウソを上申書という形で出しまくった。実に十二通にのぼった。上申書ならいくらでも作文することができたのである。
 
「共犯者である四人の者は公判の時、今までの自供を否認して私一人でやった犯罪と述べています。気の弱い私はいかにすれば公平な判決を得られるか毎日苦しんでいます。共犯者は非常に性格が強く、私は彼等と共に公判を受けると自然に気おくれを感じ・・」(昭和二八年三月一〇日付)と、分離公判を要求するなど、必死に狡智を働かせて、裁判長に哀願していた。伏見裁判長も黒白つけがたく、二十八年六月二十六日と決めた判決を職権によって延ばし、吉岡、Aらを分離して公判、心証を確認し、やっと三カ月後の九月十八日に判決を下した。
 
「吉岡は年少者であり、性格に弱い点があること、同被告が本件犯行により心理的に衝撃を受け、興奮し、恐怖、驚愕、狼狽などの感情に支配されていた。被告人の悔悟の現状より見るとき、同人が自己に有利な結果を招来せんとして、ことさら他の被告を共犯に引
きこんでいると断ずることも真相に合した見解といえない」として、吉岡の肩を持ち、Aさんは死刑、吉岡は無期に、Iは懲役一五年、M、Nは同12年を下した。
 
 無罪を期待していたAさんらは、二度にわたる誤判に初めて自分たちが置かれた状況の容易ならざる事態をやっと悟った。いかに無知であるとはいえ、最高裁の狭い門については聞かされていた。正木ひろし弁護士、地元の原田香留夫弁護士らへ必死の救援活動を依頼した。
 
一方、死刑の恐怖からひとまず脱却した吉岡の心にはしだいに、Aさんらへの罪の意識がふくらみはじめた。
 
 二十九年一月から、原田弁護士が広島拘置所で吉岡と面会を重ねるうち、A氏らは関係なく金山某と一緒にやったと吉岡は発言。以後約一年間にわたって、金山、金村、林(〝共犯″の名が次々変わる)らと二人でやったと上申書や手紙などを最高裁に出しまくる。
検事が取調べを始めると、前言をひるがえすなど猫の目のように変転、動揺をくり返した。
 
「何とかAらを助けたい一心だった。単独でやったど本当を言っても、裁判の経過からみて信じてもらえないので、架空の男を共犯にした上申書を出した。とにかくAが無関係であることを訴えたかった」(吉岡ノート7冊目)
 
上申書を出し続けているうち、刑務所から圧力がかかった。
「『君が今まで公判で言ったことはみんなウソか』と看守部長から聞かれた。『こんなウソを言ったら、また二、三年は罪がふえる。長い刑務所務めで一生独房で過ごさなくてはいけないぞ』と言われた。刑務所にいる間、看守に憎まれたら損だと私は気持ちがぐらつき出した。(同六冊目)
 
 
シーソーゲームの変転で
 
「吉岡の良心の芽がふき出すと、刑務所側が押しつぶすことはありえる。看守からかわいがられるのが一番大切だから。囚人は一切の自由、権利を看守に握られている。一度にらまれると、出るまで浮かばれない。かわいがられないとイヤな仕事に回される。待遇も差別される。楽で一番自分のやりたいような仕事にもつけない。吉岡の良心が時々芽を出しはじめると、刑務所側が圧力をかけたり好餌を持ち出して、ウソを維持させたのだろう」(Aさんの話)
 
 吉岡は相変わらず、煮え切らず、弁護士、検事の双方にいい子になろうとしていた。このシーソーゲームのような変転が一、二審の吉岡の自供を頼りにした有罪の根拠を自ら掘りくずしたことも事実だった。三審の最高裁(垂水克己裁判長)は三十二年十月十五、日、原判決を破棄、広島高裁に差し戻したのである。                                                                                   
                                                                                                                                                               
                                                                                                                                                     (つづく)

                                              八海事件の真相(上)    http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=275
 

 

 - 現代史研究

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