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日本リーダーパワー史(147)国難リテラシー・『大日本帝国最期の日』(敗戦の日) 海軍省・軍令部はどう行動したのか⑤

   

 日本リーダーパワー史(147)
 
国難リテラシー・『大日本帝国最期の日』(敗戦の日)
海軍省・軍令部はどう行動したのか⑤
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)

明治以来、日本は先進国に追いつくために『富国強兵』をスローガンに、日清、日露戦争、中国への進出、大東亜戦争という『エクスパンシズム』(拡大主義)を取り、アジア最大の覇権国家になった。その中心は山県有朋らが作った国民皆兵による日本陸軍という一大官僚組織、軍人組織であった。海軍も外国と戦争するためには欠かせない。中国へ出兵するにも欠かせない。臣民(戦前、国民ではなく、天皇の赤子)がこれを全面的に支持した。
1945年(昭和20)8月に敗戦。戦後は焦土と化した中から立ち上がり、今度は軍事力ではなく経済力で、『富国経済振興』『輸出大国』をスローガンに、経済産業省、大蔵省、国土省などの官僚・経団連の官民一体による『所得倍増』『日本列島改造論』などの『エクスパンシズム』(拡大主義)で、自動車、家電製品の世界中への輸出拡大で1990年前には米国に並ぶまでの経済大国へ、再びのしあがった。
この工業製品づくりの基礎となったのは、電気であり石油、原子力である。今回の原発エネルギの最大利用が戦後の経済発展の原動力となったわけだが、戦前は軍事力が国を滅ぼしたように、今回は福島原発の暴発(国家的ミス)が日本を亡ぼすリスクが高まっているのである。
陸軍の責任も敗戦後、占領軍の手によっては裁かれたものの、日本人の手によっては徹底した責任追及、敗戦の検証が行われなかったことが、今回の福島原発事故の原因にもなっている。日本の政治・経済・軍事制度、官僚のシステム、国民の自治・政治意識、マスコミの欠陥など『ジャパンシステム』全体の、再び今回の『第2の敗戦』を生んだのである。
 
 
 <米内海相、不退転の和平説得その日の海軍省・軍令部>

米内海相は、鈴木首相よりも東郷外相よりも、はるかに確固たる信念で降伏・和平を推進した。軍令部の豊田・大西コンビによる〝一億玉砕″論を、論理でねじ伏せた米内だが、天皇の放送終了後、「よかった」と言いながら、豊田軍令部総長に握手を求めたという。

1・・豊田・大西を叱りとばした米内
八月十五日。青空が広がり、盛夏の太陽がジリジリと照りつけていた。東京霞ケ関の焼け残った建物に囲まれた海軍省の中庭の広場中央に拡声器がすえられた。正午の玉音放送を前に海軍省、軍令部の全員が東側に縦列を作って整列した。最前列には米内海相、豊田軍令部総長が並び、沈痛な表情で待っていた。
…堪へ難キヲ堪へ、忍ビ難キヲ忍ビ、以テ万世ノ為二大平ヲ開カント欲ス‥…・」聞きとりにくいが、厳然たる終戦の詔書に、頭を下げ聴き入っていた者の中には、感極まって、泣きだすもの、茫然自失するものとさまざまであった。
「湿度の高いその日の陽ざしはひときわはげしく、憔悴した米内の横顔には深い疲労がありありと見えた。
だが、その心の奥底には宿願の終戦がついに実現したことにたいする一種の安堵感がひらめいていた」 (実松譲『わが海軍わが提督』光人社、昭和五十五年刊)
 
米内の首相時代に秘書官をつとめた実松はその時の米内の心境をこう書いている。
米内は放送が終了すると、すぐ左側に立っていた豊田総長に向かって「よかった」と握手を求めて、大臣室へ引き上げた、という。

さばさばした表情の米内と比べて、対照的に思いつめた顔が特に印象に残ったのは大西滝治郎軍令部次長であった。米内からの密命で終戦工作に取り組んだ高木惣吉は、大西次長の隣で玉音放送を聞いたが、大西は顔面蒼白で「平常の巨眼の光も濁り、汗の臭気」にみちていた、という。

米内とは対照的にいんうつな表情で悄然としていた。大西が自決したのはこの翌日のことであった。終戦への過程で海軍は陸軍と比べて、より混乱が少なかったのは米内海相の存在であった。
 

2・・米内海軍大臣に不退転の決意
海軍大臣として、「海軍の全責任を預かる以上、米内の胸には海軍を微動だにさせず押え切る」という不退転の決意があった。
米内は鈴木内閣の海相に声がかかった時、固辞して引き受けなかった。「君があくまで承知しないなら、自分は組閣の大命を拝辞する」と懇願されて、留任した。鈴木が終戦を目的とした内閣であり、終戦に持ち込むためには、米内がどうしても必要なことも、米内はわかっていた。
米内自身も終戦に向けて不退転の決意を固めていたのである。
そのために、どのような汚名を着ようと意に介さない、という鉄の意志を内に秘めていた。
終戦への困難な、しかし奇跡的な成功の真には、天皇の一貫した強い意志を補完する形で、微動だにしなかった米内の功績と海軍の存在が何といっても大きかった。鈴木首相も時々、グラついていたし、東郷外相も米内が敢然と支持しなければ、あれだけガンバリつづけられたかどうか、は疑問であった。

「終始一貫、東郷を支持し、挫けんとする鈴木の腰骨を鞭撻して、終戦にこぎつけさせた米内の卓見と実行力は終戦史上、特筆大書されねばならぬ」と緒方竹虎は激賞している。
終戦三旦別の八月十二日、日本政府のポツダム宣言受諾通告に対して、連合国から回答の放送があった。

この回答の中の「サブジェクト・ツウ」をめぐって豊田軍令部総長、梅津参謀総長とと
もに、米内海相には無断で天皇に反対の惟帳上奏したのであった。海軍内でも最強硬派であった大西次長にたきつけられて、「陸海軍の軍令系統は断じて不可」と米内海相を飛びこす形で行われた。これを聞いた米内は烈火のごとく怒った。
豊田総長を大臣室に呼び、一時間半にわたって激しく叱責した。
「何を基礎にして上奏したのか」との質問に、肥満した豊田は一語も答えられなかった。
米内はじゅんじゅんとといた。
 
3・・米内は烈火のごとく怒った


 
「私の意見に盲従しろとは言わぬ。人それぞれ考えがあり、その所信に従うのはやむを得ないが、そのためには大臣とよく意見を交え、私の意見が違っておれば、私はこれを改めるにやぶさかではない。逆に私の意見が正しいとすれば協調するのが当然である。質問に答えられないような基礎で行動するのは甚だ軽率至極である」
体はやせ細ってはいるものの、すさまじい気迫の米内に激しく詰め寄られた豊田は「敵側の条件では甚だ困ると思っていたところに、放送を開いたので誤った」と弁解し、「進退はいつでも覚悟している」と言った。「進退は君が考えることではない。私が考えることだ」と米内は突っばねた。
大西次長に引きずられての結果であった。
豊田総長が退席したあと、大西次長が血相を変えてあらわれた。口論となった。大西の声は荒々しかったが、米内の声も驚くほど大きく、激しく大西をしかりつけた。
一触即発の雰囲気で、隣室の大臣秘書官も思わず身構えるほどであった。
「すでに聖断が下った以上、絶対であっていかなる困難があっても思召にそうように万全を尽くすべきである」
米内海相の不退転の、断固たる意志に圧倒されたのか、大西次長は悄然たる表情で退席した。
陸軍省ほどではないが、以上にみたように海軍省、軍令部もー枚岩ではなかった。終戦を万難を排して推進するという米内と、特攻による徹底抗戦の大西次長派が対立していた。
高血圧の持病を押して孤軍奮闘をしていた米内を高木惣吉少将が十二日に訪問し、激励した。
その時、米内は海軍の内部についてこう述べている。
「部内が分裂することは私の責任としてまことに重大であるが、しかし、悲観もしない。大したことにはならぬと見ている。
また、たとえ分裂が起っても大局上やむを得ない、と覚悟している。国内では真相を知らない者を、煽動する輩があれば分裂も起りうるが、しかし大観してそうはならなくてすむと思っている」(高木惣吉著『私観太平洋戦争』)
 
4・・ 「陛下一人残して死ねない」

終戦が刻一刻と近づき、緊張がピークに達するにつれて陸軍軍務局の少壮将校たちのクーデターのウワサは海軍省にも伝わってきた。
「霞ヶ関の襲撃は八月十四日午後六時に予定されており、海軍の腰抜けどもを焼き打ちにする」とのまことしやかなクワサも流れた。
万一を心配した大本営海軍報道部では、この日は部員以外は早めに帰宅させ、警戒に当たるという騒ぎがあった。

この混乱期に当たって、終戦への能力を維持していたのは海軍しかなかった。陸軍に対等にものが言えて、陸軍をおさえられるのは海軍しかない。
米内海相を支持していた数少ない和平派の一人、井上成美は「終戦のためには海軍の名誉も何もいらぬ」とまで言い切っているが、米内も同じ心境であった。
米内は後の回想で、「自分の長い海軍大臣の生活のうちで、八月十四日から二十三日までの期間ぐらい苦労したことは他になかった」と述懐している。
十四日の最後の御前会議の席上、阿南陸相、梅津参謀総長に続いて豊田総長も反対意見を述べた。
米内は意見を求められると、「外務大臣と同じ」とあっさり告げただけで、あとは全く何
も言わなかった。そつけない米内らしい態度であった。
この時の心境を後に小泉信三に「もう落ち着くところは分っていましたから、私はあまりしやべる必要はありませんでした」と語っている。
十四日正午の第二回目の聖断で終戦は決定したが、天皇も涙ながらに「陸海将兵の動揺も大きいであろう。
どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要あらば、自分が親しく説き諭してもかまわない」
と述べた。
天皇が自らが陸海将兵を諭さなければ局面は収まるまいと考えていた背景には、阿南陸相がそう望んでおり、「そうでもして頂かないと部内は容易に収まらない」との陸相の意向があった。


5・・米内は最後まで阿南がわからずじまい
米内は断固として、これをしりぞけた。陸軍がどうであろうと、海軍は辞退すると。
「自分が部下である将兵に対して、そのようなことまでお上にお願いするとなれば、海軍大臣として輔弼の任はつとまらぬ」と自己の全責任で押え切ると断固反対したのである。
このため、陸軍もこれにならった。
阿南陸相は十四日夜から十五日朝にかけて自決するが、その直前に竹下中佐に「米内を斬れ」との謎の言葉を残した。米内も戦後、「自分はとうとう阿南という人物が
わからずじまいだった」ともらしている。
太平洋戦争の開戦から終戦まで陸海軍がことごとく分裂、反目したように、最後まで米内、阿南も互いを理解することがなかった。
十四日夜、宮城は反乱軍に占拠された。侍従武官室と海軍省を結ぶ電話以外はすべて通信が切断されたため不通となってしまった。私邸でクーデター騒ぎを伝え聞いた米内は「夜が明け次第、御機嫌奉伺に参内する」と海軍省に出向いた。

「一番狙われているのは大臣ですよ」といさめられたが、米内はきかなかった。この反乱軍も第十二方面軍の鎮圧で十五日早朝には解決し、米内は参内した。玉音放送があり、一息ついた時、第三〇二航空隊(厚木航空隊)の司令小薗安名大佐が全海軍に向かって激励や命令の電報を発信した。全海軍に徹底抗戦を求め、決起を促す電報であった。

そればかりか、航空隊員を使って、関東一円から東北、九州に至るまで「国民諸子
に告ぐ、海軍航空隊司令」と題した戦争継続を訴える宣伝ビラを大量にバラまいた。小薗大佐はマラリアに冒され、病床についており、正常な精神状態ではなく、混乱していた。中央の終戦命令に服しない状態を心配した天皇は「海軍航空隊がもし命令に服しないならば、高松宮を厚木に差しっかわしてはどうか」と米内海相に伝えたが、米内は言下に「それには及びません。大丈夫です。もし間違った者でもあれば、厳罰に処しますと申し上げていただきたい」と断わった。
米内は一貫して、自らの責任で断固収拾する態度に変わりはなかった。十五日、海軍省内でも「米内さんも阿南陸相と同じく自決するのではないか」と心配する者もあった。
 
 
6・・特攻隊の生みの親・大西次長は割腹自殺
自重するように言う人に対して、米内は「いや、私は自分では死なない。陛下一人残して死ねない」ときっばりと言い切ったといわれる。
一方、十五日夜、国定謙男少佐ら軍令部有志が大西次長官舎を訪問した。痛飲した抗戦派の大西は「これから日本はどうなるかわからない。君たちは日本人として恥じないように行動してもらいたい」と涙ながらに語った。
国定少佐は宿舎の第一ホテルに帰り、「降伏とは残念だ。俺はもう生きてはおれない」と同期の少佐に話し、
二十二日に「降伏後に妻子をつれて路頭に迷うような恥は受けたくない」として妻と二人の子供を道連れに茨城県土浦町の善応寺で自決した。
大西も官舎で十六日午前二時四十五分に、割腹自殺した。
遺書は2通あり、妻へは
「百万年の仮寝かな」と末尾にあり、もう一通の「特攻隊の英 霊に目す」では、「吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」 とあった。

                                                                           つづく


<前坂俊之『大日本帝国の最期』 新人物往来社 2003年7月刊より転載>
 

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