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日本リーダーパワー史(243)150年かわらぬ日本の派閥政治の根幹<尾崎咢堂の語る首相のリーダーシップとは

   

日本リーダーパワー史(243)
 
<尾崎咢堂の語る明治の首相のリーダーシップー日本政治外交失敗史⑤>
 
―150年かわらぬ日本の派閥政治の根幹
★『総理大臣たるものの資格とは何かー宰相の器―
―今だに薩長藩閥政治から進化せぬ民主・自民派閥政治 
 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
治維新の変革とは、徳川幕府を倒した薩摩と長州とを征服者とし、日本国民全体を被征服者の地位に置き、これらの征服者はそれぞれ陸軍と海軍に立籠って勢力を争った結果が、軍国主義への暴走となった。(尾崎の弁)近代市民革命とは言えないのである。
 
<日本の政治の失敗の本質・・いまどこまで変わったのか>
①      事務官上りの大臣が役に立たないたない(戦後の官僚出身の大臣、首相が以下に多かったか。
②         加藤高明(外相、首相)の対支21ヵ条の歴史的大失敗の真相
③        明治の総理大臣の多くは藩閥の総理大臣で、日本全国の総理大臣ではなかった。今もおらが故郷(くに)の総理だんべい、とどれだけ変わったのか。
④        総理大臣たるもの先づ包容と統御の才を持つことと、調和的な能力を有することが必要である。
⑤        明治時代は、薩長以外たった二人の総理大臣より出なかったということは、如何にいびつな政治社会であったかを証明する。
⑥        日本に軍人の総理大臣が特に多いのは、薩長藩閥のためのみではなく、文武不対等のためである。

 

<以下は尾崎『日本はどうなるか』(昭和12年)より>
 
     加藤高明(外相、首相)―事務官上りが役に立たぬ例
 
日本では事務官上りの大臣が多く、事務官上りの政治家として役に立たない例は、加藤高明君(外相、総理大臣)によくあてはまる。
私は加藤・犬養・原敬の三人は何れも頭脳のすぐれた人物と思っているが、犬養、原の両君が学校において充分に頭脳を訓練する横合を与えられなかったのに反して加藤君(東京帝大法科トップ卒業)は正式に新教育を受けて居り、胆力もあったのに、長く外務省にあって事務ばかりを執っているため、外交上の事務に通暁しているだけで、眞の外交を知らなかったこと驚くばかりである。
 
彼は、外交上の文書はどういふ書式で書くかとか、外国使臣を招くときは、どう饗應すればいゝかというやうなことには頗る行届いていた。
1914年(大正3)、第一次世界大戦勃発当時、大隈重信内閣の下に、加藤君は外務大臣とて私は司法大臣として入閣していたが、加藤君は欧洲大戦に日本が参加するについて、英国政府に相談しなければならない主張した。即ちこれが儀礼的だと云った。
 
当時、英国はドイツの力を見くびっていて、日本の参戦を喜ばないような状勢だったから、私は加藤君のいうように相談すれば、英国はきつと駐支公使や東洋司令官に相談するであらう、さうなれば駐支公使や東洋司令官は日本の参戦には反対の旨を答へ、日本の参加は日本はどうなるか面倒になって時期を失すると思った。
 
 そこで私は「英国が日本に対して参加するに及ばぬと云って来た時、日本がそれに従うつもりならば、相談するのもよかろうが、それだけの気特がなくて、相談することは、外交儀礼線上は穏当であるとしても、事責上は参戦を不可能にすることになるから、相談しないがい。参戦する決心なら、単に日英同盟の義による旨を公表しさへすれば充分だ」と主張した。
 
 加藤君が閣議にこの間題を提出したとき、私とかなり議論したが、他の閣僚は外務大臣が志すのだからというので、彼に従い、英国に相談することに決った。英国に相談すると果せるかな、英国は対支公使、東洋司令官に相談し、彼等は日本の参加に反対の旨を回答したので、英国は「日本の参戦に同意はするが、暫く待ってもらいたい」との通牒をよこした。東洋司令官などは日本が参戦すれば、作戦計画について相談しなければならないから、面倒であると思って、反対したのであらうが、駐支公使は以前から日本に反対の感情を持っている人物であったことを私は知っていた。
 
政府は参戦の準備をしていたのであるから、英国の回答に接して加藤君は弱ってしまい、遂に「国論沸騰して待つことは出来ない」と英国に申込み、英政府をしてやむを得ず承諾せしめた。本来、礼をいわるべき筈のところ却って恩をきせられた。
どうせ参戦する肚が決っているなら日英同盟の義によると云へば、名分は立つものを、無用の儀礼などにこだわった結果、日本が侵略的であるとの印象を与えるような名目をわざわざ作らなければならなくなった。
 
      私が再入閣を断念した動機
 
 有名な対支21ヵの条の要求も加藤君の外交上の失敗を示している。私はこんなものを日本が支那(中国)に要求することは、日本の侵略的であることを世界に表明するものであるとして、極力反対していたが、加藤君をはじめ他の閣僚が…(以下検閲で不明)…「そのうちの幾つでも承認させればいいのだ」と云うので、賛成の調印をした。しかし私はこういう大きな失敗をしたので、今後どんなことがあつても入閣はしないということをこの時、天下に公表した。私が袁世凱の即位運動に反対したのは21ヵ条問題の時の失敗の罪滅ぼしのつもりであったが、この運動の結果を待たず袁世凱の方で急死した。
 
加藤君の如何にも事務官らしい点は21ヵ条うちの何か条かをイギリスに知らせなかったことである。それらの項目は鉄道関係の問題で、イギリスに不利なものであったからであるが・そんな姑息的なことをしたところで、支那に提示するなら駐支公使から直ちにイギリス政府に通じることはわかり切っていているのに、こんな手段をとるところ、誠に属僚心理の現れと言うべきであらう。
 
加藤君のやることことごとく失敗で、いつも私が反対するものだからしまいに、加藤君は閣議に提出する前に、先に他の閣僚の諒解を求め、私に知らせるという目的だけに閣議にもちだすという方法をとるようになった。
 
総理大臣たるものの資格     
                                                       
事務官上りの大臣が役に立たないたないことは以上の通りだが、次に総理大臣たるには、どんな人物でなければならないかと言うと、先づ包容と統御の才を持つことと、調和的な能力を有することが必要である。
これらの資格のいくらかづっは日本の総理大臣にも備わっているが、明治年の総理大臣の多くは藩閥の総理大臣であって、日本全国の総理大臣ではなかった。換言すれば総理大臣は薩長の両藩閥から出ることに決っていて、日本中から採ったのではなかった。
 
人物は日本中から求めなければならないはずであるのに薩長だけから求めるという有様であったから、薩長のものなら・如何に劣っていても、資格がなくとも、総理大臣になれたが、それ以上の資格を備えていても、薩長以外の人には総理大臣にはなれなかった。
数えて見ると、明治十八年に内閣というものができてから、内閣総理大臣は十六、七度かはったが、そのうち薩長以外の者は大隈重信と西園寺公望の二人だけである。大体、薩摩には総理大臣となるべき適任者はなかったけれども、薩長交代で勤めることに決まっていたから、仕方なしに黒田清隆とか松方正義とかいうような者が経理大臣になった。二人とも包容、調和、統御のいずれの才も備えていなかった。
 
長州の方では伊藤博文・山県有朋、桂太郎等は経理大臣の資格を比較的多く備えていた。これらの人々は、長州人でなくとも、藩閥という弊がなくとも総理大臣になれた人物かも知れぬ。とも角、内閣が幾度変わっても、日本中からは、薩長以外たった二人の総理大臣より出なかったということは、如何にいびつな政治社会であったかを証明する。
 
派閥の勢力が衰えて、日本の政治が日本全対のものになったのは明治の末から、大正、昭和にかけてから後であるが・大正以後、内閣は矢張り十七度かはった。うち、薩摩、長州の人で、総理大臣になった者が幾人あるか。大正のはじめに、桂がなったがこれは大正の総理大臣といふより明治の遺物と見た方がよい仇それから山本権兵衛が二度なったが、二度分合せて任期はわずか二年位であったろう。その他に、寺内正毅、田中義一と全部で四人なったきりだ。
 
あとは原敬、高椅是清、加藤高明、加藤友三郎、若槻礼次郎、濱口雄幸、犬養毅・斎藤実、岡田啓介、広田弘毅と十人も薩長以外の者が出ているのに、薩長からは明治の遺物を入れてたった四人、その内の田中義一は長州人として大命を拝したのではなく、政友倉の総裁とし首相となったのであるから本当はたった三人よりない、実に隔世の感がある。同じ日本の事とは思えないほどだ。
 
☆★藩閥の変遷と総理大臣=150年たっても変わらぬ派閥の弊害、近代民主政治国家の基礎である『志の高い政治理念集団としての政党』が日本にはない。派閥グループ集団のみ、これが国が崩壊していく原因である。
 
人物というものは、大抵、平均して出るものであるから、薩摩と長州とを合せて日本の二十五分の一か、三十分の一であるとすれば二十人に一人か、三十人に一人は薩長からも総理大臣が出て然るべきである。
 
明治年間においては藩閥といふ弊害があったため、それを表す余地がなかった。薩長以外から出た総理大臣にはあまり低級な人物はなかった。恐らく松方正義ほど劣った薩長大臣は薩長以外から旨なかった。黒田ほどの人間もなかったかも知れぬ。寺内と較べても、薩長以外の総理大臣の方が、優れているだろう。
 
 薩長にばかりそう人物があらうはずがない。殊に薩摩は暖国であるために、一般に頭が悪い。挙校の成績を調べて見てもわかるがどこの高等学校でも薩摩人で優等生になっている者は少ない。これは別に薩摩の罪でも何でもない。気候のせいである。
 たゞ明治年間には薩摩人は大層、よい境遇に立ったものだから、自然、人物養成の仕方・常人の心掛などがよかったために、他県のものが伸びずにいるうちに、比較的、よけいに伸びたということはある。それ故に結果から見れば、薩摩人は大層人物がよくなっていたに違いないが、それも藩閥の結果さうなったのである。
 
 明治の維新は薩長土肥といふ藩閥が成就したのであったが、土佐、肥前から出た人間は、薩摩、長州に較べて劣らなかったようだ。副島、大隈、板垣、江藤などは、何れも土佐か肥前事ら出た人物で、薩摩と長州から、西郷、大久保、木戸、広澤がでただけであった。伊藤、山県は当時はまだ低い地位にあった。それがだんだん薩長藩閥が強くなったから、土肥は追い退けられた。
 
      軍人総理の輩出する理由
 
・日本に軍人の総理大臣が特に多いのは、薩長藩閥のためのみではなく、文武不対等のためである。武官はすべての官職に就くことが出来るが、文官は行政官でも、軍事関係の行政官にはなれないことになっている。
 
 私はこれを直そうと思って、随分努力したが、なかなか直らない。近年その不対等は、ますます激しくなりつつある。陸海軍とも最初は薩長の陸海軍で、上の方には、絶対に他県人を入れなかった。だから元帥などには皇族と特別人の外は薩長以外の人は一人もなく、大将も大部分は薩長人、他県人でも少将くらいにはなれたがその上へ行く前に多く休職になった。
ところが藩閥打破が出来て、内閣から藩閥者流が迫われると同時に、陸海軍からも迫われて、今日の陸海軍は全日本のものになって.近年は陸海軍大臣はみな、薩長以外の人物である。やっと陸海軍は薩長組織から日本組織になったわけだ。
 
・薩長の陸海軍が日本の陸海軍になったにも拘わらず文武不対等といふ昔の遺物が残っているのは、薩長以外から出た軍人でも文武不対等の方が自分達のために便利であるというので、薩長の根拠としておつた悪弊を、そのまま受け継いでいるからだ。
 
文武不対等であるから政党が今日のように信用を失った以上は当分、軍人中心の内閣を続けるより外、仕方がないだろう。軍人が反対すれば内閣は出来ないという制度は薩長藩閥が、自己擁護のために作ったものだが、これが今日もなお現存している以上は政党がよほどの力を持つか、大豪傑が出て力を振ふかしない以上、今後は陸海軍の手先となって、内閣を作ることは出来るが、然らざる以上はできない。従って人物の有無に拘らず、事責上、陸海軍人をして内閣を作らせるより外に途はないと思う。
 
      陸海軍対立は薩長の対立抗争がその原因
 明治年間において、陸海軍が対立して存在したことは国内的にも理由があった。即ち明治初年における薩長の対立が、陸海の対立を生んだのである。明治維新の変革は、徳川幕府を倒した薩摩と長州とを征服者とし、日本国民全体を被征服者の地位に置き、これらの征服者はそれぞれ陸軍と海軍に立籠って勢力を争った。
 
最初は薩摩の方が、長州より勢力を振っていたが、明治十年の西南の役に働いた長州の山賄有朋は陸軍に勢力を張り、薩摩の西郷従道や樺山資紀を海軍に追ってしまった。その結果、陸軍中将であった西郷や樺山は、海軍中将に転じた。このように薩長の対立は激しかったが、それと同時に、薩長人でさえあれば木こりが漁師になり、漁師も木こりとなり得たのである。
 
陸軍から追はれた薩摩は、海軍に立こもったが海軍だけでは陸軍の長州に対抗出来なかったので、警視庁をその勢力範囲に置いて固守した。かくて薩長の対立は陸海軍の対立となり、双方が競争的に予算を増加し始めた。私どもがこの事態を見て、国家のために憤慨に堪えなかったから、議会において「薩摩の海軍、長州の陸軍はあるが、帝国の陸海軍はない」と喝破して・大いに当局の忌憚にふれた事もあった。
 
兎に角、明治の末年までは、薩長以外の者は、容易に陸海軍と警視庁の要職に就くことが出きなかった。元帥の如きは、皇族を除けば、全部薩長人の占める所となっていた。
薩長人でさえあれば、その適否を問わず陸海軍の要位を占め得たが、普通の日本人は傑出した人物といえども、容易にそれができなかった。
 
然るに、大正年間に至って事態は大いに変化し、有能の士は何れの地方の出身者たるを問はず、軍部の要職に就き得るようになり、薩長の陸海軍は、ここに始めて帝国の陸海軍となった。のみならず、陸軍においても、長州人たることが、却って昇進の妨害となると云うものさへ生ずるに至った。
 
薩長の陸海軍が、すでに日本の陸海軍となった以上は、軍人も独りその担当部内の事のみを考へず、行政機構の改革を唱へる以上、国家的見地から、内外の状勢に於て共に対立すべき根拠がなくなった今日は、何はさて置き先づ陸海軍を合併すべきであらう。
 
                              つづく
 
 

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