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★5記事再録『ガラパゴス・日本マスメディア(新聞/テレビ)のブラックボックスとしての記者クラブ制度―その歴史と弊害

      2016/10/20

日本マスメディアの特殊性―記者クラブの歴史と問題点
 
 
 
<現代ジャーナリズム研究会編『記者クラブ』柏書房1996 年10月刊に発表>
 
 
前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部名誉教授)
 ある記者クラブでの体験
もうあまりにも昔のことになるが、1970年代の新聞記者になって4,5 年たったころ。ある関西の大都市の市政記者クラブを担当した時のこと。毎朝、午前11時に記者クラブで記者会見があり、そのあと決まって広報課長と各社のベテラン記者らが、別室でマージャンを始める。
午後2時ごろ、市政の行事、議会、話題ものなどについて広報課員二、三人が午前中、手分けして取材してきて書いたものを、加盟社10社ほどの机に一斉に配布する。これを参考にして、ほとんど取材もせず記者たちは書き始める。不明な点には質問こそするが、多くはほとんど丸写しか、テニオハを一部変えただけで記事にしていく。
写真も広報課員が少し撮影角度を変えたものを各社にネガごと、または写真ごと配布していく。毎日、四、五本の地方版の決まりものはこうして、どこの新聞を見てもほとんど同じような記事が作成された。私は独自の取材で、各社のベテラン記者が遊んでいる間をぬってトクダネを連発して、連中をあわてさせた思いだがある。
2 ニュース製造のブラックボックスとしての記者クラブ
もちろん、すべての記事がこのようなシステムで作られているわけではない。記者が独自取材した記事もあったし、独自取材や調査報道もあるにはあった。特ダネもあった。しかし、記者クラブが取材の中心基地であり、ここで発表されたものが自動的にコンべヤにのって記事となり、広報課員が書いた原稿がほとんどそのまま新聞紙面のその過半数を占めたということも、また事実である。
マスメディアではだれもが当たり前と思ってこのシステムに疑問を持たない、これが約百年にわたって日本のジャーナリズムに定着してきた日本特有のニュース製造工場としての記者クラブの弊害である。
約二十年ほどの私の記者生活の中で、中央の官庁から地方都市、警察などのいろいろなクラブを回ったが、確かにこのクラブほどひどいところはなかった。今、このクラ
ブの担当者に聞いてみるとマージャンをする者はいなくなったが、相変わらず広報の原稿が紙面を大きく飾っている、という。
どこも似たりよったりの記者クラブ取材が依然としてがっちりと根を下ろしていた。ジャーナリズムへの厳しい批判が、こうした記者クラブ制度を、根源的に問う段階にさしかかっている。
3 記者クラブの歴史・明治から昭和戦前まで
日本における記者クラブはどのようにして誕生したのだろうか。まず、その歴史を振り返ると、一八九〇 (明治二十三)年秋に帝国議会が初めて開設された際、時事新報記者らが主導して組織した「議会出入記者団」で、議会の取材を当局に一致して、要求したのが始まりといわれる。
この記者団には「郵便報知」「東京朝日」「東京日日」「都新聞」「読売新聞」など東京の主要紙が加わり、これがさらに発展して、この年十月に「共同新聞記者倶楽部」が誕生した。
これは後に「同盟新聞記者倶楽部」に名を変えたが、帝国議会開会中には全国の新聞百八十三社、三百人以上の記者が取材に集まったという。これが今の 「国会記者会」 の前身である。
現在、各中央官庁には軒並み記者クラブが存在するが、これらの前身もほぼ時期を同じくして生まれている。
一八九四 (明治二十七)年の日清戦争から一九〇二(明治三十五)年ごろにかけて、外務省の「霞倶楽部」、農商務省の「采女倶楽部」、陸軍省の「北斗会」、政友会の「十日会」などが次々に生まれ、さらに明治三十八年には司法省の「司法記者倶楽部」、四十年に内務省の「大手倶楽部」、四十三年には「兜会」が次々に組織されたという。当時、秘密主義に凝り固まった政府、各官庁に対して、まず力の弱い新聞側が共同戦線を組んで、団結して交渉し、情報を引き出す場とし、さらに取材の前線に足場を持ち、本社との連絡基地を確保するために記者クラブを作ったのである。これを権力・官庁側からみると、当初は知らしむべからずで新聞を拒否していたが、次第に報道の威力に押され、新聞への恐れから譲歩し、出入りの記者連中を一本化して管理できるし、広報活動もまとめて行うことができる、というメリットを計算して、記者クラブを受け入れ、各庁舎の中にクラブが誕生することになった、のであろう。記者クラブが生まれた当時は、せいぜい建物玄関わきの「供待ち」 の部屋しかあてがわれなかった。記者は車夫馬丁と全く同じ扱いを受けていたのである。最も秘密主義の強かった宮内庁に対して、「坂下倶楽部」 (現在の宮内庁記者クラブの前身)が宮内省に常駐が認められたのは、明治四十五年七月の明治天皇の逝去にともなう報道によって、新聞の威力を改めて認識させたためであった。
また、歴代内閣で初めて共同記者会見を行ったのは大隈重信内閣だが、それまでの二つの内閣が新聞によってつぶされて、その結果、誕生したといわれた大隈内閣だけに、記者会見だけではなく、首相官邸内に初めて記者クラブを新築した。
こうして、新聞と新聞記者の社会的地位が上がるにつれて、記者クラブの場所は建物の隅の方から、より権力者に近い中心部の場所に次第に、移動していく。権力とメディアの力関係を象徴しているが、記者クラブは力の弱い新聞が一致団結して、権力から情報を引き出す「情報公開の機関」として生まれ、成長してきたのである。
4・太平洋戦争下の記者クラブ
つまり、「権力の動向を逐一、監視する機関」としての役割が記者クラブの原点なのである。しかも、言論の自由がなく、労働運動に対する取り締まりが強かった戦前の時代に、記者たちが各社の枠を越えて横断的に集まり、強い自治権によって運営されていた点は注目に値する。
大正時代から昭和十年代にかけて、現在とほぼ同じ記者クラブの原形が形成された。当時「東京日日」(現毎日)の鈴木茂三郎の「新聞批判」などをみると、記者のゆすり、たかりの腐敗問題、官庁や業界との癒着など、記者倫理が問われ、記者クラブのあり方がすでに問題となっている。
その後、戦争への道を進む中で、言論統制は一層厳しくなる。一九四一年、太平洋戦争が始まる前に新聞統制は完成し、社団法人新聞連盟が設立された。「一県一紙」の名のもとに、全国に二千数百紙あった新聞は強引に整理統合された。新聞連盟の下部機関として位置づけられた記者クラブも、「一官庁一クラブ」に改組され、規約も統一され、自主的なクラブ運営は一切認められなくなった。太平洋戦争中の報道のシンボルと化したのは大本営発表であった。
これは途中からウソと誇大発表の代名詞ともなったが、「黒潮会」は当時の海軍省の記者クラブで、戦争中は新聞記者の花形クラブでもあった。当時の新聞、軍報道部関係者は「大本営発表」のことを朝刊、夕刊と呼んでいた。
「今日、夕刊は出ますか」
「いや、明日の朝刊は三本だよ」
といった調子であり、当時の黒潮会担当記者は次のように述懐している。「われわれはただ報道部の大本営発表を、機械的に右から左へ、国民に知らせるだけのものなのだ。報道部長が発表文を読み上げ、それを筆記して社へ速報し、さらにレクチャーを聞き、それを参考に解説記事を書く。そこにはいささかの批判も許されない。発表文に矛盾があっても、追及することはできなかった」
記事の作られ方は、約六十年以上たった今の記者クラブとよく似た感じだが、情報局の下部組織にがっちりと組み込まれた新聞社、記者クラブには、情報局や各官庁から「内面指導」 「懇談」「指導」「注文」といったさまざまな形での国策に沿った新聞づくりが強制された。情報統制の装置としての記者クラブの極限の形がここにある。
5・戦後の記者クラブの矛盾
戦後の記者クラブはこうした反省の上に再出発する。戦争中、記者クラブから締め出された地方紙が加入を一斉に要求し、GHQ(連合国軍総司令部) の指示で、記者クラブは全面的に改組され親睦団体と位置づけられた。一九四九(昭和二十四)年十月に出された「記者クラブに関する新聞協会の方針」では、「記者クラブは各公共機関に配属された記者の有志が相集まり、親睦、社交を目的として組織するものとし、取材上の問題には一切関与せぬこととする」と規定した。
それまでの取材機関としてのクラブの性格を明確に否定し、親睦団体と規定している。当時のGHQ 新開課長のインボーデン少佐によって、戦前の新聞統制で、その末端機関として重要な役割を担った官制の記者クラブの存在をはっきりと否定して、「報道の自由」を守るために、報道機関に取材の自由のすべてを保障することを原則としたものであった。
記者クラブの基本的な性格には親睦機関と、取材機関の両面を備えている。記者クラブの歴史は、この二つの性格のどちらに比重をおくか、その変遷の歴史であるといえよう。
親睦機関と割り切ったものの、現実は取材機関としての記者クラブのあり方との矛盾がたちまち露呈することになった。日々の取材のなかで、取材先との「黒板協定」や「紳士協定」といった取材、報道そのものの自由を規制、制限する協定が相次ぎ、日本新聞協会は六二(昭和三十七)年七月、再び次のような「記者クラブの協定に関する方針」を出した。
「記者クラブだけの協定は、これを認めない。各社の幹部がその必要を認め、これが各社の協定とならぬ限りは、報道の出先だけの協定をみとめることはできない」これを見ると 「取材上の問題には一切関与せぬ」として記者クラブを、親睦機関と位置づけた四九年の方針からの全くの逸脱であった。この方針の理由としては以下の三点を挙げている。
① 本来、親睦機関である記者クラブが協定という名のもとに報道制限を行うことは取材活動自由の原則に反する。
② 協定を乱用することは、ニュースソースに一方的に利用され、報道の自由が損なわれる恐れがある。
③ 各社の幹部が協定のあることを承知していない場合は、他のニュースソースから同様のニュースを入手することがあり得るから、出先だけの協定は無意味である。親睦機関としての建前を維持しながら、取材機関としての協定を認めるといういわば折衷案だが、以後ますます各社間協定、クラブ協定が増加していく結果となった。
もともと、記者クラブを親睦機関とするならば、官庁の一角に堂々と半永久的に場所を専有し、ニュースを独占しているのは、どうみてもおかしいし、そうかといって取材機関とするならば、取材報道の自由の観点から、特定の新聞社だけが独占し、他の報道機関にクラブを開放しないのは、これまたおかしいことになる。
結局、建前は親睦機関だからとして他を排除する理由として、現実は取材活動をしているので、という矛盾を、何とか糊塗しようとしてきたのが戦後のクラブ制度の偽らざる実態なのである。
六〇年代から七〇年代にかけて、新聞協会の討議では記者クラブは「親睦機関」か「取材機関」かをめぐっての激しい綱引きがあり、結局、現状を追認する形で「取材機関」としての性格を打ち出した。
6・記者クラブの取材機関としての性格を追認
1978(昭和五十三)年十月の「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」が現在の記者クラブや報道協定の指針とされているが、そこでは取材、報道の調整的機能をはっきりと認め、さらには統制的性格がより一層強く打ち出された。それによると、記者クラブは-
① 所属各社の編集責任者の承認を得て報道各社の有志が組織するもので、取材活動を通じて相互の啓発と親睦をはかる。
② 取材活動の円滑化をはかるため若干の調整的な役割を果たすが、この調整的機能が拡大、乱用されないように注意する。
③ 調整機能のひとつであるニュース協定について は各社間協定以外の出先だけの協定は認めない。
④ 取材源である各公共機関は取材活動を行うあらゆるメディアの記者に対して正確な情報を提供する責務がある。記者クラブはクラブ加盟社以外の報道機関と当該取材源との間での取材上の 問題について影響力を行使する立場にはなi。
⑤ このほか、同行取材についてのクラブ加盟社以外の同行の希望は、認めるのが望ましい。
⑥ 外国特派員の取材については、公式記者会見には参加を認めるべきなどの便宜をはかるべきである。
⑦ 取材源からのいかなる形においても特別の便宜供与を受けてはならない。 ―――などと決められた。
同行取材や、外国特派員の取材など従来から批判のあったものには門戸を開いたり、認めたりしたのは当然の措置だろうし、これまでのあいまいな取材機関の位置づけを、調整的な機能として、ニュース協定なども明確にして、タガをはめ直したものであった。しかし、メディアを取り巻く激しい環境の変化の中で、記者クラブの在り方が根本的に問われる事態になった。
新しいメディアが次々に生まれ、国内、外国の報道機関が大幅に増える中で、ニュースの量も、取材範囲も飛躍的に拡大している。情報公開、国民の知る権利の拡大など国民のメディアを見る目も厳しさを増してきた。
その中で、取材装置としての記者クラブだけが従来のままで許されるはずがない。メディア側は、「(記者クラブは)取材源に対してできるだけ近づくアクセス権の確保という意味で、新開の先人が積み上げてきた歴史的成果であり、国際的に比較してこれほど濃密に情報が交流している場はない」(「記者クラブの行方」『いま 新聞を考える』日本新聞協会研究所発行 九五年五月)と、「公権力へのアクセスポイント」としての記者クラブの存在を評価するが、それ以上に弊害が大きく目立ってきたのである。
7・記者クラブのどこに問題点があるのか
記者クラブの問題点、批判の第一点は、クラブの本質が報道、取材のカルテルであ
るということだ。クラブが閉鎖的、排他的であり、特定の加盟社がニュースを独占しながら、他方では、ほかのメディアの情報源へのアクセスを拒んで、情報独占の特権を享受しているという批判である。
「関係者以外の入室お断り」という張り紙に象徴されているようにクラブ室は、加盟社以外は入れないし、取材源もクラブ第一主義であり、他の取材機関は容易に取材できないのが実情だ。
わざわざ「他の取材機関と取材源の間で取材上の影響力を行使できない」(七八年の新聞協会の見解)と断り書きをしているのも、排他、閉鎖性の批判をかわすための言い訳にしか聞こえない。
特に、批判の強かった外国人特派員からの要望に対しては八五年九月にクラブ主催の公式記者会見の参加を認めるなど門戸開放を打ち出したが、今度は国内メディアからの風当たりが一層強くなっている。
第二点は官庁との問でほぼ情報を独占し、他を排除することによって官とマスメディアの癒着、談合が生まれる点である。
官庁側からの情報操作や情報統制の道具としてクラブが利用されやすいし、取材、報道の手足を自ら縛り、権力の監視機能が衰弱し、国民の知る権利を奪い、逆にその障害、阻害要因ともなっていることだ。
第三点はその結果、増え続ける官庁の広報、発表の処理に記者が追われ、どの紙面も似たり寄ったりの画一的な内容となる、発表ジャーナリズムの温床と化してしまっていることである。
どの新聞やテレビ見ても「報道が横並びで、一過性、表面的」「問題を掘り下げた記事が少ない」といぅ読者からのメディア批判の根底に、記者クラブ問題が存在しているのである。
さらに、第四点は、この結果、ジャーナリズムとして自殺行為へとつながるという点。ジャーナリズムの重要なアジェンダ・セッティング機能(議題設定機能)の放棄である。数多いニュースの中から、一体何が重要かをメディア側が知らせていくニュースの位置づけと、社会の中で何が問題かの、議題を設定していく役割が大量の広報、官庁発表の中で埋没、見失われてしまっていく。
官庁情報やお役所ニュースの中にも、国民にとって大切な情報があることは間違いないが、広報ニュースの洪水のなかで、記者たちがおぼれてしまい、アジェンダ・セッティングの主導権を官庁側に奪われていないかということである。
発表ジャーナリズムはジャーナリズムとは正反対のものである。残念ながら、今の新聞は国民のジャーナリズムではなく、政府、官庁の広報紙と化している。
例えば、東京都の1993年の広報件数をみると、合計で四千五十七件にも上っており、その大部分は資料配布だが、このうち記者に背景などを関係者が説明するレクチャーは百八十件となっている。一日平均で十五件以上という発表の洪水の中で、記者たちはクラブに居続けざるを得ない結果となる。
これは都庁クラブに限られたことではなく、他の記者クラブも変わりはなく、「発表漬け」 の状態に陥り、独自記事の減少、画一的紙面へとつながってしまう。当事者の記者たちも、こうした弊害に気づいており、九三年十一月に新聞協会研究所が行った新聞記者への意識調査のアンケートをみると、「記者クラブについて」の質問では、そのマイナス面を指摘する回答が目立った。
①「画一的な報道につながりやすい」 七三・七%)
②「情報操作されやすい」 (六四・九%)
③「会員外の記者に対して、閉鎖的だ」 (五一・一%)
④『記者の足腰が弱まる』(46,5%)
⑤「独自取材をしなくなる」 (三七・九%)と半数以上がマイナス面を指摘していた。
一方、「多量の情報を得やすい」(三四・八%) 「同業他社の記者と切磋琢磨できる」(二六%)、 「特オチを防げる」 (二四・八%)などクラブ制度を積極的に肯定し、そのプラス面を評価する者は、逆に少ない結果が出ている。
また、興味探いのは、こうしたクラブ取材から抜け出して、独自の取材のために「夜討ち朝駆け」などをしているか、という質問に対しては、五三・六%と過半数がしておらず、「しているもの」はわずか三割ほどしかなかった。つまり、「画一的な報道になる」、「記者の足腰が弱くなる」と、その弊害を自覚しながら、記者たちは実際には深く突っ込んだ取材や調査報道はしておらず、記者クラブに漬かって、発表もの中心主義に流されている現状が浮き彫りにされているのである。
最後に、「現在の形態の記者クラブはあった方がいいか」の質問では、存続派が四〇・九%、廃止派が二七・三%、「どちらともいえない」が三〇・九%と、記者クラブ廃止派はまだ約三分の一しかないが、記者たちも問題を意識しながら現状を追認している結果が表れていた。
以上のアンケート結果などをみると、今や、記者クラブの存在がジャーナリズムの本来あるべき姿をゆがめる、大きな阻害要因となっていることがわかる。さらには、読者、視聴者がこうした官製クラブニュースの一方的垂れ流しに嫌気がさし、メディアは見放されてしまうのではないか、そこが大きな問題である。クラブ問題は、取材し、されるメディアと役所だけの問題とされているが、肝心の読者や視聴者を忘れて論議されていないだろうか。
8・記者クラブの改革案について
いま、記者クラブ改革論議が盛んになってきている。クラブの部屋、備品の提供、電話代などの支払などクラブ経費をメディア側が公平に負担するという方向へと転換し始めている。これまでは、丸抱えで一定の加盟社が独占的に使用して、便宜供与や利益供与を
受けていた点も改めて、記者やメディアのモラルを示すのと同時に、原則的にだれでもが自由に利用できる「公権力へのアクセスポイント」としての、開かれた記者クラブに変えていくべきであろう。記者会見への参加は原則自由にして、協定や縛りといった報道の自由を奪うものは極力、行うべきでない。
言うまでもなく、報道機関は市民の知る権利に奉仕するものであり、記者クラブも「国民の知る権利」を擁護するための一つの機関として、「情報公開制度」を実現すべく努力していくものであろう。「国民の知る権利に奉仕する記者クラブ」へ、真の改革・脱皮が求められているのである。
(終了)<以上は現代ジャーナリズム研究会編『記者クラブ』柏書房1996 年10月刊>

 - IT・マスコミ論, 現代史研究

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