日本一の「徳川時代日本史」授業④福沢諭吉の語る「中津藩で体験した封建日本の差別構造」(旧藩情)を読む⑤
「門閥制度は親の仇でござる」と明治維新の立役者・
福沢諭吉の語る「中津藩で体験した封建日本の
差別構造の実態」(「旧藩情」)を読み解く⑤
前坂俊之(ジャーナリスト)
徳川封建時代の武士はどのような社会、政治。経済環境の中で、
生活をしていたのか、福沢諭吉の「旧藩情」を読み解く⑤
「旧藩情」⑤
廃藩の後、藩士の所得を大に減ずるとは、常禄の高を減じたことではない。
中津藩では古来度々の改革にて藩士の禄を削り、その割合を昔と比べるとすでに大いに減禄しているので、維新の後にも諸藩同様に更に減少することをできなかった意味もあり、
当時流行の有志者が藩政の立て直しに当たることなく、その内実は禄を重んずる種族が禄制を適宜)(適正)にしたために、諸藩に普通なる家禄平均の災を免がれた。しかし、常禄の外に所得の減じたるものもまた甚大であった。中津藩歳入の正味はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは、40パーセントの二万石余に過ぎずして、残りのおよそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供したもの。
この公用とは所謂公儀(幕府のことなり)の御勤、江戸藩邸の諸入費、藩債の利子、国邑(くにむら)
http://kotobank.jp/word/%E9%82%91
にては武備(防衛費、)城普請(城の修繕・補修)、藩内の橋梁、堤防、貧民の救済手当、藩士文武の引立(教育・研修)等などである。
名は藩士の所得に関係ないようにみられるが、そうではない。たとえば、江戸汐留の藩邸を上屋敷は広さ一万坪余(3万3000平方m)でサッカーのコート4つ分)、周囲およそ五百間(900m)もある。類焼の跡にその灰をかき、仮に松板を以て高さ二間(約3・6m)ばかりに五百間(900m)の外囲をつくると、天保時代の金でおよそ三千両
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211053207
もかかる。
この他、平日にても普請
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E8%AB%8B
といい買物といい、また払物
http://kotobank.jp/word/%E6%89%95%E7%89%A9
といい、経済の不始末(わいろ、汚職、事件、バブル、負債)は諸藩と同様に数多くあった、。もとより江戸の町人、職人の金儲によるものだが、その一部分は間接に藩中一般の賑ぎわいをもたらした。
また国邑にて文武の引立といえば、藩士の面々は書籍も拝借、馬も鉄砲も拝借していた。借用の品を用いて無月謝の教師に就く、これまた大いに便利である。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足拝借金歟(無利息の借用金)、または下だされ切りのごとき(くれる借用金)は、現に常禄(給与)の外に直接の所得となる。
また藩の諸役所にて公然たる賄賂(わいろ)の沙汰(さたー行為、事件)は稀だが、自からの役徳(やくとく)になるものある。江戸大阪の勤番
http://kotobank.jp/word/%E5%8B%A4%E7%95%AA
より携帰る土産の品は、旅費の残りではないので、いわゆる役徳の積ったものに外ならない。
俗官汚吏はしばらくおき、品行正雅(方正)の士といっても、この徳沢の範囲を守ろうとしても実際においてほとんど不可能であった。
藩にて廉潔(清廉潔白)な役人と称し、賄賂、役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自からこれを守る者でも、町人がこの役人へ安利にて金を賃貸し、または高利でその金を預り、または元値を損して安物を売るなど、あの手この手の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識らずして賄賂(わいろ)の甘き穽(わな)に陥らざるを得ない。
しかし人として理財商売の考えがなければ、到底その品行を全うすることはできない。以上、枚挙の数々はいずれも皆、藩士の常禄(給与)の他に得るところのものであり、今日ではこのような無名間接の利益はなくなったが、当時の藩士の困窮する一つの原因であった
⑥第六、上士族は大抵、婢僕(ひぼく、下男や下女)
http://kotobank.jp/word/%E5%A9%A2%E5%83%95
を使用す。たとえこれなきも、主人は勿論、子弟たりとも、自から町に行て物を買う者はいない。町の銭湯に入る者もなし。戸外に出れば袴(はかま)を着けて双刀(刀2本)を帯す。夜行は必ず提灯(ちょうちん)を携え、甚しきは月夜にもこれを携る者あった
。なお古風なるは、婦女子の夜行に重大なる箱提灯
http://kotobank.jp/word/%E7%AE%B1%E6%8F%90%E7%81%AF%E3%83%BB%E7%AE%B1%E6%8F%90%E7%87%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%90%E7%81%AF
を下僕に持たする者もある。外に出でて物を買うことを賤(いや)しむがように、物を持つことももまた不外聞(府外分、外聞が悪い、世間体が悪いという意味)と思い、剣術道具釣竿の外は、些細(ささい、小さな)の風呂敷包でも手に持つことはなかった。
下士はよき役を勤めて、家族の多勢なる家でなければ、婢僕(ひぼく、下男や下女)を使わず。昼間は町に出でて物を買う者は少なけれども、夜は男女の別なく町に出るを常とした。男子は手拭(手ぬぐい、タオル)を以て頬冠(ほおかぶり)りし、双刀(2本刀)を帯する者もあり、或は一刀なる者ある。
或は昼にても、近所の行く場合には双刀は帯すれども袴を着けず、隣家の往来などには丸腰(無刀のこと)のこともあった。また宴席、酒酣(酒席)などのときには、上士が拳を打ち歌舞するは極て稀なれども、下士は各隠し芸なるものを披露して、盛り上げる者が多かった。これを概するに、上士の風は正雅にして迂闊(うかつ)
http://kotobank.jp/word/%E8%BF%82%E9%97%8A、
下士の風は俚賤(りひ、野卑)
http://www.weblio.jp/content/%E9%84%99%E4%BF%9A
にして活溌なる者というべし。その風俗を異にするのは、言語のなまり(方言)までも相同じではない。今、旧中津藩地士農商(士族・農民・商人)の言語なまりの一、二を示すと次のようになる。
見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
いうことを 行けよという いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じ ことを、又いきない、又いきなはりい 如何せんかと どをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか 商に同じ いうことを、又どをしゆうか
この外、筆にも記しがたき語風の異同は数多い。故に隔壁(かべをへだてて)にても人の対話を聞けば、その上士なのか、下士なのか、商(人)、農(民)の区別は明らかに知ることができる。
以上のように、上下両等の士族は、権利を異にし、骨肉の縁を異にし、貧富を異にし、教育を異にし、理財活計(経済生活)の趣を異にし、風俗習慣を異にする者なので、自からまたその栄誉の所在も異なり利害の所関もまた異ならざるを得ない。
栄誉、利害を異にすれば、また従て同情相憐むの親愛の情は互にあまり感じていない。たえば、上等の士族が偶然会話の語次にも、「以下の者共」(下士)には言われぬことなれどもこの事は云々、ということあり。下等士族もまた給人分(下士)の輩は知らぬことなれども彼の一条は云々、とて、互にひそかに疑うこともあり、
またいきどうることもありて、多年苦々しき有様だが、天下一般(世の中の出来事)は分を守る(自分の立場を守る)との教を重んじ、事々物々秩序(ものごとには秩序)があり、動かすことのできない時勢(社会)なれば、ただその時勢に制せられて平生の疑念憤怒を外形に発することはできない。我慢するしかない。或は、忘れることにして、怒りを抑えたのである。
中津の藩政も、他藩のごとく専ら分を守らせる(既成の秩序を守り、従うこと)の目的にして、圧制を旨とし、その精密なることはほとんど完成していた。
しかして、その政権はもとより上士に帰属することなので、上士と下士と対するときは、藩法(藩の法律)は常に上士に便利にできており、下士には不便ならざるを得ないが、、金穀会計(予算)については上士の不出来によって、名は役頭または奉行などと称しても、下役の下士のために籠絡される者が多い。故に上士が常に心を砕いている点は、尊卑階級http://dictionary.goo.ne.jp/examples/jn2/132110/m0u/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8D%91%E5%88%86%E8%84%88
のことにあり。この一事においては、往々事情に合わず有害無益なるものある。たとえば藩政の改革とて、藩士一般に倹約を命ずることあった。この時、衣服の制限を立てるのに、何の身分は綿服、
何は紬(つむぎ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AC
まで、何は羽二重
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E4%BA%8C%E9%87%8D
を許すなどと命令を出すため、その命令は一藩経済のためか、衣冠制度のためか、両様混雑してわからない。あたかも倹約の方便に形式ばったことをしただけで綿服の者は常に不平を抱き、到底倹約を永久したることはない。
また今を去ること三十余年、固め番とて非役の「徒士」(かち)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB
に城門の番を命じたることあり。この門番は旧来足軽の職分であったが、要路の者(上司)の考に、足軽は煩務(忙しい)ので、徒士は無事(そうでもない)なので、これを代用す
べしといい、この考と、また一方には上士と下士との分界をなお明にして、下士の首を押えんとの考えを起こして、その実はこれがため費用を省く(経費節減)でもなく、武備(防衛)を盛にするでもなく、ただ一事無益なことを企画しただけのこと。
この一件については下士の議論が沸騰したれども、その首魁たる者(首謀者)二、三名の家禄を没入し、これを藩地外に放逐して鎮静した。
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