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終戦70年・日本敗戦史(116)日本と韓国(日帝36年)北朝鮮との対立、紛争のルーツを解くこれが日清、日露、日米戦争の根源

      2015/08/03

 終戦70年・日本敗戦史(116)

         <世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、どこに問題が

あったのか、500年の世界戦争史の中で考える>③

前坂俊之(ジャーナリスト)

日本と韓国(日帝36年)・北朝鮮との対立、紛争のルーツを解く

以下は2012/08/2のマイブログからの再録で、延々と続く韓国の

「反日病」のルーツをさかのぼるーこれが日清、日露、日米戦争の根源

  • 日本リーダーパワー史(304)『日韓外交衝突のルーツ』李氏朝鮮の攘夷思想で日本大使の拒絶、親書拒否で敵意を募らせ、征韓論が噴出

  • http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/2222.html

  • (2012/08/2に書いたもの)野田首相の親書の発信とその受け取りをめぐって拒絶、つき返す、外交的に非礼、無礼の非難の応酬、外交品位に欠けるとー後進国同士のようなニワトリケンカ外交が続いている。

② 延々と続くゴネ得・北朝鮮との核疑惑、拉致をめぐる外交応酬と同じ。

③ 「日韓のケンカ外交」を150年さかのぼれば明治新政府の最初の李氏朝鮮(韓国・北朝鮮)との外交交渉でも、朝鮮側のコチコチの攘夷(開国拒否)思想で日本親善大使の拒絶、親書拒否、日本の無礼外交に強硬に反対し、互いに反感、敵意をエスカレートさせていったのである。

④ いまこそ歴史を振り返りー日本が先進国、大国の自負があるなら国際法に則った論理一貫外交を展開しなければならない。

⑤ この韓国・中国との対外摩擦を起して、国民の目を問題だらけの国内から外にそらすな。政府、政治家、官庁、メディアは真の『ジャパンプロブレム』(日本改革、政治改革、経済再生、財政再建、原発処理、少子高齢化対策、日本の競争力強化などの国内大問題)に内輪の子供ケンカをやめて、知恵と経験のある大人として全力をあげて取り組まねばならない。

明治維新とともに朝鮮に修好を求めるーー
「明治」とは、維新政府が国内改革と同時に対外外交にも積極的に取り組んだ時代である。

まず対馬藩を通じて隣国の朝鮮政府に、いち早く修交の使節を送った。しかし、朝鮮・李王朝は長年の中華思想の影響で中国を宗主国と仰ぐ一方、華夷序列から遠く離れたベトナム、東南アジア、日本などを夷秋(文明化しない野蛮人)禽獣(獣に等しい存在)と蔑む冊封体制(事大朝貢体制) の意識を持っていた。

朝鮮国王・高宗(李太王) の実父で実権を握っていた大院君はこうした文化的優越主義(中華思想)にこり固まり、日本を東夷と低く見て、撰夷鎖国政策をとっていた。そして鎖国を解いた明治新政府に対して、中華秩序への挑戦であると敵視し、「怖るに足らず」と見くびっていた。
明治元年(1868) 11月、明治新政府は王政復古の内容を通告して朝鮮に修好を求めた。だが、文書のなかに「皇」「奉勅」などの文字が入っていたことに朝鮮側は驚き、会見を謝絶し、国書を突き返した。「皇」は中国皇帝にしか使われない漢字で、そのため天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味することになり、日本が朝鮮支配の野心を持っているものと誤解した。

朝鮮は日本の開国の要請は内政干渉であると強く反発し、両国の異文化衝突、異文化認識のズレ、誤解がエスカレートした。
明治3年10月、外務卿の代理が交渉に行ったが、朝鮮政府は引見を拒否した。さらに、5年3月にも代表を送って返事を催促したが、これまた回答を先延ばしした。両国とも自文化優先主義思考から、相手側が無礼な態度をとったと怒りを募らせた。

とくに日本側はイギリス、ロシアなど西欧列強が砲艦外交で中国、朝鮮に門戸開放を迫っているなかで、朝鮮が列強に支配されれば日本も危ないと強い危機感を抱いていた。そのために朝鮮の独立を促してきたが、拒否し続ける態度についに怒りを爆発させた。
おとなしい太政大臣(首相に相当)三条実美までもが征韓論を主張して、明治6年7月に閣議に諮った。木戸孝允、大久保利通らは岩倉使節団として外遊中だったが、西郷隆盛を全権大使として談判のために朝鮮に派遣することが
閣議で決まった。 西郷は廃藩置県で特権を失った全国の士族たちを朝鮮に送り込み一花咲かせて解散にもってゆく腹で、征韓論は失業士族の救済手段の一環であった。

鹿島守之助著『日本外交史③近隣諸国及び領土問題』(鹿島研究所出版会
1970年刊)の『第一節 明治新政府と日鮮関係』(3-16P)

では次のように書いている。

明治新政府は成立とともに、懸案の朝鮮との修好問題を速やかに解決しようとし、明治元年三月二十三日(1868年年4月15日)対馬国厳原藩主宗義達に対して、旧来通り朝鮮との外交事務を掌り、同時に王政復古の顛末を、朝鮮政府に伝えるべき旨を次のように命じた。(日本外交文書第一巻第一冊二四五及二四六文書)

『朝鮮との通交取扱の件』

宗 対馬守

今般王政御一新、総て外国御交際之儀、於朝廷御取扱被為在候に付ては、朝鮮国の儀は古より来往の国柄、益御威信を被為立候御旨趣に付、是迄の通両国交通を掌候様家役に被命候。対朝鮮国御用筋取扱候節は外国事務輔之心得を以て可相勤候条被仰付、尤御国威相立候様可致尽力御沙汰候事。

但王政御一新之折柄、海外之儀別て厚く相心得、旧弊等一洗致し蛇度御奉行可有之候事。 朝鮮との国交は朝廷に於て取扱はるべき旨同国へ通達の件

今般被廃幕府王政御一新、万機御震断を以被仰出候に就ては今後朝鮮御取扱の事件等、総て朝廷可被仰出候条、此旨朝鮮国へ可相達御沙汰候事。

このため、宗義達は同年十二月、執政樋口鉄四郎を大修大差使として釜山に派遣し、礼曹参判及び礼曹参議宛の公簡二通を東菜府使に交付して、旧好を修めようとした。

ところが樋口が東菜府使鄭顕徳に書契を交付しようとしたところ、任訳訓導安(注1)東唆は直ちに異議を唱え、あるいは皇祖、皇上等の文字が旧例に反するといい、あるいは押印が旧と異なるといって、受理を肯んじなかった。

樋口がいかにその真意を披涯しても、府使の態度は頑迷を極め、日鮮交渉は遅々として進まなかった。

(注1)当時朝鮮国には日本判事と称し、伝語官三十員がいた。そのうち訓導別差と称し、二員ずつ京城より派出し、日本との交通の事にあたらせ、これを任訳訓導と称した。

こうして対州藩主の交渉が停頓したので、政府は明治二年十二月、外務省出仕佐田白茅、森山茂及び斎藤栄を釜山に派遣して、実情を調査させることにした。三人は翌三年二月二十二日釜山の草梁倭館に到着し、局面の打開に努めたが、得るところはなかった。そして帰国するや佐田は三月三日付、森山と斎藤は四月に、それぞれ建白書を政府に提出し、いずれもそのなかで征韓論を上申した。

そのうちでも佐田は、朝鮮が武備を固めてわが国を蔑視することに痛憤し、朝鮮を攻略する戦術を論じて、もし今日わが国が朝鮮を取らなければ、他国の有に帰すると言い、いま直ちに三十大隊を派遣してこれを征すべきであり、かつ朝鮮の金穀は出兵費を償って余りあると説いている。(日本外交文書第三巻八八文書付属書一)

その後政府は自ら交渉にあたることとし、同年九月十八日外務省出仕吉岡弘毅、森山茂及び広津弘信に渡鮮を命じ、外務郷沢宣嘉から礼曹判書に、外務大丞丸山作楽から東莱府史、釜山検使に公簡を送って、修好を促そうとした。そのうち沢外務卿の公簡(日本外交文書第三巻九八文書付記には、次のごとくであった。

日本国外務卿沢宣裏書を、朝鮮国礼曹判書某公閣下に奉る。術に我朝廷より宗義達に命じて貴国と旧交を尋く事を謀る。今に三年に造れども未だ回奏する所あらず。顧ふに貴国諸賢或ひは未だ本邦尋交の旨を了せざる者有んと。故に特に重ね陳て以て我国家中世以降兵馬の権を将門に委ね、東城の政も亦之に管せしめしに、

今や世運一変し、我朝廷綱紀を更張し弊を革め害を除き政令維れ新たなる事を告ぐ。原ぬるに夫れ貴国と隣誼の深き、業に既に三百有余歳なり。宜く更に旧誼を尋き・両国の盟をして愈篤く愈固く、永遠漁らざらしむべし。

之に加ふるに海外諸邦星の如く確り碁の如く布き、文を修め武を講じ、舟梶の便なる碩磯の利なる邁となく道となく至らざる所なし。此時に当って凡そ国土人民の責ある者、豊遠く慮り深く謀らざる事を得んや。而して貴国の東は即ち我の西にして、相距る事僅かに一葦のみ。盾歯の相依りて存亡相関かる者の如し。是最も隣誼の愈篤く愈固きを要する所以なり。閣下の高明なる、必ずここに見る所あらん。誠信のあるところ、言表より出づ。閣下尋交の誠意を彗裁して、両国の為めに艮図をなし、明らかに覆音を致さん事。

不宣

 かくて一行は10月2日、釜山に到着し、朝鮮側との下交渉に入ろうとした。ところが任訳訓導安東駿は、日鮮外交には古来成規があり、いまにわかに宗氏を除外して、日本政府自ら衝にあたるのは不当であるとして、依然吉岡らとの会見を拒否した。

越えて翌五年八月十八日、政府はこんどは外務大丞花房義質に渡鉾を命じ、花房は軍艦春日に乗り有功丸を従え、熊本鎮台兵も護衛につき、九月十吾釜山の倭館に到着した。しかしなんらの成果を得られず、十二月六星しく東京に引き返した。(日本外交文書第五巻二五七、一六七文書参照)

しかもその後朝鮮では、釜山の倭館に対する態度も冷淡となり、薪炭食糧の供給まで絶たれたりした。明治六年五月ごろには、その形勢はいよいよ悪化し、在朝鮮広津私信は同月二十一日付上野外務卿代理宛書簡(日本外交文書第六巻二八文書)のなかで次のように述べている。

……当月上旬以来朝市の人は廿廿人宛入館候へども、布綿飴魚卵肉等に至るまで一切持込み不申、橡か三五人文少しの野菜を持来るのみにて、折々柴の一二拾中東も入来り申候廿入会の者どもは松葉さらへ及び日雇人足のみにて、唯々撤市はいたさぬと申ばかりの事にて、万々一魚卵の類少しにても持参り候へは、守門にて取揚げ追放すなどの事も時々有之よしに御座候……

また同人の三十一日付書簡(日本外交文書第六巻二九文書)では、東菜府よりの伝令書が倭館の門壁に出入の

朝鮮人に示すため貼り付けてあったことを伝え、その写しが同封㌔てあった。それにはあるいは日本を目して、

「彼制を人に受くるといヘども恥ぢず。その形を変じ俗に易ゆ。これ則ち日本の人と謂ふべからす。我境に来往するを許すべからず」と言い、あるいは「近頃彼人の所為見るに、無法の国と謂ふべし。而して又これを以て羞と為さず」と言い、日本は旧幕時代の様式に依らない限り、日本を朝鮮に入るを許すべからすというのである。

それには朝鮮の内情に基づくところが大きかった

もっともこうした伝令書は、いわゆる潜商を禁止するためのものでもあった。

こうして日鮮両国の修好回復は容易に達成されなかったが、それには朝鮮の内情に基づくところが大きかった。

朝鮮では一八六四年(文久三年)一月、李朝第二十五世の哲宗が死去するや、遠戚の興宣君李是応の第二子(高宗、のちの李太王)が国王を継いだ。年僅かに十二歳だったので、生父李是応が大院君と称して摂政となった。彼は政権を独裁してその強化に努め、内は苛欽誅求、外は排外鎖国政策を断行した。

この排外政策により、一八六六年(慶応二年)二月に、多数のフランス宣教師、天主教徒が虐殺された。また九月に、アメリカ帆船ジェネラル・シャーマン号が、大同江で撃沈された。

このため十月十四日、フランス極東隊可令官海運少将ローズが軍艦七隻を率いて江華島に東軍十六日江華府を占領した。そして朝鮮国政府にこの虐殺事件の謝罪と条約の締結を要求したが、朝鮮側が応じないので、陸戦隊を奥地へ進入させようとした。しかしかえって朝鮮側から反撃され、その後、11月十一日江華府からも撒退した。

その後しばらくして1871(明治四年)5月、アメリカアジア艦隊司令官海軍少将ロジャースが、軍艦四隻を率いて来襲し六月十日江華府に迫った。しかし朝鮮側が持久戦とったのに持て余し、このときもまた朝鮮国政府に謝罪させることができずして、七月三日撤退するに至った。

アメリカ艦隊の撃退に成功した大院君は、ここにおいて攘夷の断行を中外に声明した。かくて朝鮮の八道の要衝には、「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国」の文字を刻した斥洋碑が至る所に建立された。明治政府の前述の修好提議も、こうした大院君の実権下にあった朝鮮には、容易に受理されなかったのも当然であった。

この間、わが国で征韓論が急激に高まり、明治六年(1873年)六月二十日には朝鮮問題が廟議に上るに至った。かくて西郷隆盛、板垣退助らの征韓論の主張が通り、8月17日には西郷の意見により、政府はまず西郷自身を特派大使として京城に派遣することに決めた。これは特使に対する朝鮮国政府の態度次第によっては、さらに一層の強硬政策に出ることを含みとしたものであった。

しかしまもなく欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが内治充実の急務を唱えて征韓論に反対し、十月十四、十五両日の閣議で両論が激しく対立した。太政大臣三条実美は西郷説を支持して勅裁を仰ぐことになったが、その後動揺し十八日発病した。そのため二十三日暮右大臣が臨時代理として、天皇に閣議経過とともに、併せてその時期尚早説を上奏した。二十四日天皇は岩倉説を容れ、ここに遣使は無期延期となり、征韓論は破れた。(日本外交文書第六巻一望文書付記参照)

◎『野田首相の書簡 「李大統領の竹島上陸」に3度も言及』(中央日報)

http://japanese.joins.com/article/129/158129.html?servcode=A00&sectcode=A10

 - 戦争報道

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