『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論①」の講義⑧『中国は無力、無秩序であるにも拘らず、中国人は尊大に構えている誤りと、日本人の過度な中国心酔の誤りとを同時に正すには両国は一度戦って見るより外にないと考えた。』
<日中韓160年三国志―尖閣問題ル―ツの研究>記事再録
<歴史は繰り返す、日中韓160年の歴史を凝視し未来の道標にせよ>
私は中国旅行中、中国は無力、無秩序であるにも拘らず、中国人は尊大に構えている誤りと、日本人の過度な中国心酔の誤りとを同時に正すには両国は一度戦って見るより外にないと考えた。(尾崎の言葉)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
●明治初期の日本はー熱病のような支那(中国)心酔病
政党の活動がふるわなくなると、民心は国内問題よりも国外問題に向けられるようになった。中国とフランスとの間で清仏戦争(1884年(明治17)―1885年)になりそうだというから、私は報知の新聞通信員となって上海へ行くことになった。
当時の日本には中国崇拝熱が頗る高かった一方、西洋崇拝熱も一部にはあったが、中国崇拝熱とは比べものにならなかつた。当時の青少年のうちには少しは英語などを学んだものもあるが、そういうものも漢学、つまり中国の古い学問を学ばなければならなかった。
私も学問の習い始めは漢学で次に国学、英学と学んだことはすでに述べた通りである。
こういう状態であったから、日本人の頭はスッカリ漢学思想に扱われていた。漢学は自分の国を世界の中心と考える野蕃時代の中国人が立てた学問だが、日本人はこれを全く鵜呑みにしてしまった。中国人が自国を中華、中国と呼び、諸外国を異狄といえば、日本人もこれに倣って英米仏などを外夷となした。
荻生祖来のように中国に対して自ら夷と称して恥ずるところなかった学者もあった。こんな風だから、日本人は言葉を覚える前に漢学を教わり、何をいうにも漢字を借りなければならないようになってしまった。
この間の太平洋戦争は中国を相手とする事変が因となって起ったのだが、この戦争中も八紘一宇、粉骨砕身、一億一心などという大げさな漢字が頻りに用いられた。
かくいう私もやはり漢学思想にかぶれていたから、オザキユキヲという自分の名前があるのに、わざわざ草堂とか等堂などという呼名を用いて喜んでいたものだ。それが飛んでもない間違いであることを漸く八十八になって気がついたが、世間は気がつかないと見えて、揮号などを漢字で書くことを頼むのでそういう時はやむを得ず漢字を用いている。
現在でさえ日本人は漢字を用いなければ何事も表現できないほどだから、学問といえば漢学が中心であった当時の青少年の間に、如何に中国崇拝熱が高かつたか想像されよう。幕末の頃、江戸に留学した書生は学校が休暇になって郷里に帰るに、彼等の多くは関西方面であったが「君は師の国に近づくのだから幸福だ」といわれたものだ。師の国というのは孔孟を生んだ中国のことであ
る。また当時盛んに行われた文学者などの会合は駐日中国公使を中心として関かれるのが通例であった。
当時、日本人は西洋のことはあまり知らないから、上海あたりに出かけて帰って来れば大いに自慢したものだ。横井小楠の如き進歩主義者も見開を広めるために上海へ行ったものだ。
当時上海へ行ったものは、そこで洋服を作って来るのが通例だつたが、日本人が行くとすぐ洋服商人がホテルへ御用聞きにやって来て「ここへ来て洋服を作って帰国した日本人はみんな出世する」などとお世辞をいったそうだ。
私も漢学で育つたから漢学思想から脱け切れなかったが、世間の熱病のような崇拝熱を冷却させなければならないと思った。そこで私は上海へ行く前、報知に執筆して「我国が初めて交わりを朝鮮・支那に通ずるにおいて、二国の文明の日本を超越していたことはいうまでもないが、今や文明の地を換へ、我国は東洋の先進国となって支那・朝鮮は遠く後に落ちてしまった。‥‥
この時に当たり進んで二国を誘導して、がその頑習陋俗を打破し、その知識を開拓するほ千六百年間の長恩に報ゆる所以にして、また本邦の利益にもなる。私はこの重任を以て本邦と支那学士に望みます」(現代文に改めた)と論じた。
また私は当時漢学者が中国に心酔する余り自ら卑下しているのを不快に感じていたから、これについても「支那学士は一度支邦人と対すれば、戦わずして既に降旗を樹つ、署して東夷と云わずといえども、その胸憶を振れば誰か東夷を以て自ら陥り、彼に譲るに中世中国の美称を似てするは何ぞ、余輩実に其心酔の実に過度なるを嘆ぜずんばあらざる也」と論じた。
ともかく仏支相争うこの機会こそ、中国の実力を観察する好期であると思った。
支那(中国)の無力と無秩序
私は弟・行隆を伴って8月26日横浜から出帆した。同船した新聞記者は時事新報の本田孫四郎、朝日新聞の長野一枝、北清日報の森常太の三君であった。そのほか自由党の小室信介君が一行に加った。
中国はあれだけの大国だから、とても短日月の間に単独で直接に研究することはできないにきまっている。そこで出発前に多年中国に在住し、または旅行したことのある人々や、中国通に面会して知識を養い、向うへ行っても先輩に種々事情を聴き、その上で実際に当ったらよく分るだろうと考え、その通り実行して見た。
ところが上海に行くと、わずか一ヵ月居るかおらぬ間に、どぅもその人達のいうことが多く間違っているような感じが起り始めた。自分は上海に来てから、まだ一ヵ月かそこらしか経たないし、耳目の及ぶところ極めて浅く狭い3年も5年も在留している先輩のいうことに間違いのあるはずはないと思い直して、さらに研究して見るけれども、どうしても自分の観た方が正しく、多年中国を見ている先輩の意見は多くは間違っているような感じがやまない。
かくて二ヵ月も過ぎる頃にはますますその感じが深くなるばかりであった。
そこで初めて私は百聞一見に若かずなどという言葉はあるけれども、国というが如き大きなものを観るには、当にならぬ肉眼を以てしては到底真相はつかめないものであるということを悟った。
この考えはその後幾度かの洋行でいよいよ強められた。西洋に行って向うの悪い所だけを強く感じて帰って来て国粋主義者になるものや、反対に向うのものは何も彼も善いように感じて西洋かぶれになってしまうものなどいろいろあるが、事物を正しく見るということはすべての偏見を棄ててかからなければできないことであるから、殊に片乗りしやすい日本人には余程むずかしいようだ。
さて上海では中国の軍隊が出動準備で大騒ぎであった。しかし私はその状態を見て驚いた。兵隊は鉄砲を持っていたが、その鉄砲は錆だらけである上に、中には逆さにかついでいるものさえあった。
それに鉄砲だけでなく、めいめい雨傘を背負ったり、提灯をぷらさげたりしていた。また無数の旗や鼓を携えているなどその騒ぎは大変なものである。にぎやかではあるが、これでは戦争は出来るはずはないと思った。
しかもこの兵隊を率いる将軍は七十歳ぐらいの老将軍が駕籠に乗っていた。ところがこの将軍の立派な駕籠の後に二、三台も駕龍が続いているから、あれには誰がのっているのかと聞くと、将軍の妾がお伴をするのだということだった。これには驚くより、あきれてしまった。
この時はフランス軍艦により福建省のある造船所が攻撃されただけで、別段大きな戦争にはならなかったが、私の素人目にも中国には全く戦闘力がないことがハあッキリと判った。
この日、張楓(立つ編)輪(糸へん)、何如(王へんに章)両大臣の福州の戦況報告が新聞に載っていた。見ると舞文曲筆甚しく、一読噴飯に堪えなかった。空中に楼閣を築く小説家の文章でも恐らくこれほどのデタラメは書けまいと思った。すべて耳目の見聞によらず、想像に基いて文を綴るのを得意としている。一、二尺に足りない白髪を三千丈と誇張して書くなどその一例である。
中国人は文字を使用することが巧みであるから、地名人名その他文字に現れたものを見ればまことに美しく、うるわしいような気がするが、事実は全く違っているのが通例である。六尺の小巷を名づけて大街といい、溝の上にかかっている小さな橋を北香花橋と称し、古池のほとりの破れ茶屋を湖心亭と呼ぶなど、中国人の美辞を用いて事実を粉飾する二、三の例だが、この習癖は風物の描写に限らず、人事百一般に及ぶのである。
私は中国旅行中、中国は無力、無秩序であるにも拘らず、中国人は尊大に構えている誤りと、日本人の過度な中国心酔の誤りとを同時に正すには両国は一度戦って見るより外にないと考えた。
そこでこの意見を当路の人々に向って述べて見たが、誰一人真面目に受取るものはかった。当時華北にあって中国の実地調査に当っていた福島安正大将-当時は中尉か大尉Iと偶々帰途に同船したから、私はこの意見を述べたが、彼はビックリしただけだった。彼も中国崇拝者の一人であったためか、中国を実地に調査しても私と同じ結論はもたなかった。
<以上は尾崎行雄『民権闘争70年』(読売新聞社 1952年)>
関連記事
-
-
73回目の終戦/敗戦の日に「新聞の戦争責任を考える➀」再録増補版『太平洋戦争までの新聞メディア―60年目の検証➀』★『国家総動員法によって新聞統合が進み、1県1紙体制へ。情報局の下で国家宣伝機関紙化』★『日本新聞年鑑(昭和15年版)にみる新統制下の新聞の惨状』
再録 2015/06/27 終戦7 …
-
-
片野勧の衝撃レポート(29)太平洋戦争とフクシマ② 悲劇はなぜ繰り返されるの★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➋
片野勧の衝撃レポート(29) …
-
-
日本風狂人伝(21)日本『バガボンド』チャンピオンー永井荷風と散歩しよう①
日本『バガボンド』チャンピオンー永井荷風と一緒に散歩しようね …
-
-
日本リーダーパワー史(55) 海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向かったかーハワイ攻撃を立案した悲劇①
日本リーダーパワー史(55) 海軍トップリーダー・山本五十六は国難にどう立ち向か …
-
-
現代史の復習問題/「延々と続く日中衝突のルーツ➈』/記事再録『中国が侵略と言い張る『琉球処分にみる<対立>や台湾出兵について『日本の外交は中国の二枚舌外交とは全く違い、尊敬に値する寛容な国家である』と絶賛した「ニューヨーク・タイムズ」(1874年(明治7)12月6日付)』
2013年7月20日/日本リーダーパワー史(396) 中国が尖閣諸 …
-
-
野口 恒のグローバル・ビジネス・ウオッチ③『コンテンツ産業で急がれる海外で稼げるビジネスモデルの構築』
野口 恒のグローバル・ビジネス・ウオッチ③ 『コンテンツ産業で急が …
-
-
昭和戦前期に『言論の自由」「出版の自由」はあったのか→谷崎潤一郎の傑作「細雪」まで出版を差し止められた『出版暗黒時代』です①
昭和戦前期に『言論の自由」「出版の自由」はあったのか→ 答えは「NO!」ーー19 …
-
-
『画狂老人・葛飾北斎(89)の不老長寿物語』★『70、80洟垂れ小僧、洟垂れ娘に与える』★『クリエイティブ/熱狂人間は年など忘れて不老長寿になる』★『画業三昧で時間に追わて描きまくり、気がつけば百歳』
2025年12月23日午前7時「なぎさ橋珈琲店テラスより富士山を拝みながら<不老 …
-
-
「Z世代のためのウクライナ戦争講座」★「ウクライナ戦争は120年前の日露戦争と全く同じというニュース]⑥」『開戦37日前の『米ニューヨーク・タイムズ』の報道』-『「賢明で慎重な恐怖」が「安全の母」であり,それこそが実は日本の指導者を支配している動機なのだ。彼らは自分の国が独立国として地図から抹殺されるのを見ようなどとは夢にも思っておらず,中国が外部から助力を得られるにもかかわらず,抹殺の道を進んでいるのとは異なっている』
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争カウントダウン』㉚ …
-
-
福沢諭吉の「韓国独立支援」はなぜ逆恨みされたのか⑦ー「井上角五郎伝」による甲申事変の真相、脱亜論への転換これで起きた
「日本開国の父」『アジア開国の父』の福沢諭吉 の義侠心からの「韓国 …
- PREV
- 『Z世代のための<日本政治がなぜダメになったのか、真の民主主義国家になれないのか>の講義⑦★『自民党裏金事件の処分を見れば、これが真の政治家のやることか』★『政治家の本来の仕事とはー政治家(ステイッマン)は高い志を持ち、国益や国民益を考えて行動する人。逆に「政治屋(政治稼業)ーポリティシャン」は「自分の選挙や当選することを主目的に、国民益よりも収入の自益、地盤益、党益、派閥益を優先する人』★『岸田首相は3代にわたる政治屋家業』
- NEXT
- 『Z世代のための<憲政の神様・尾崎咢堂の語る「対中国・韓国論①」の講義⑨日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究(パーセプション・ギャップ)―尾崎咢堂の「『朝鮮(韓国)は助けて、支那(中国)は討て』②
