前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『リーダーシップの日本近現代史』(42)記事再録/『日本議会政治の父・尾崎咢堂のリーダーシップとは何か④>』★『売り家と唐模様で書く三代目』① <初代が裸一貫、貧乏から苦労して築き上げて残した財産も三代目となると没落 して、ついに家を売りだすようになるという国家、企業、個人にも通用する 栄枯盛衰の歴史的名言>

   

 
 

『売り家と唐模様で書く三代目』

 

<初代が裸一貫、貧乏から苦労して築き上げて残した財産も三代目となると

没落して、ついに家を売りだすようになるという、国家、企業、個人

にも通用する栄枯盛衰の歴史的名言>ーリーダーシップとは何かー

 
       前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)
 
  
<第3の敗戦><亡国の惨状>にある日本の現在の政治状況をみると、太平洋戦争中に『売り家と唐模様で書く三代目』といった演説が不敬罪に当たるとして起訴された「憲政の神様」尾崎行雄の裁判での陳述、警告が思い出される。
 第一回総選挙(明治23年)に衆議院議員となった尾崎は以後、連続当選して明治、大正、昭和敗戦までの3代、63年以上にわたりとして日本の政治、社会の変転を見てきた。
藩閥政治を批判し、普通選挙法の実施を求め、大正デモクラシーの先頭に立った。昭和に入り、犬養毅と並んで軍国主義の勃興に対して、「議会政治を死守せよ」と叫び、軍国主義を敢然と批判し、太平洋戦争中は東條内閣とも戦い、その結果が「不敬罪」の起訴につながった。
90歳をすぎていた尾崎は裁判闘争でくじけず戦い、そのなかで三代目につぶれて行った日本の政治と国民性について痛烈に批判している。
1945年(昭和20)以降の日本は再び、現在、この三代目が日本を潰す『日本病(死に至る病)』にかかってしまったのである。                    

日本人がいまだに封建的な日本人から、真の市民意識、国民意識をもった近代日本人にまだ脱皮できてないためである。現在の制度も一応、議会制民主主義の帽子をかぶってはいても、頭の中味は徳川幕藩体制下の士農工商の身分制度の精神の残滓が多く残っている。

ここで、尾崎の歴史的証言に耳を傾けてみよう。政治家、国民にとって一番必要なことは自国の歴史の振り返り、他国とのコミュニケーション、外交の失敗、戦争の経緯をつぶさに検証し、将来へナビゲイションとすることである。
河村名古屋市長の軽率、歴史音痴発言「南京事件はなかった」という発言が問題となっているが、政治家の自国の歴史音痴、歴史を知らないことが対立、紛争、戦争、貿易摩擦の原因になて、自国を滅ぼしたことを忘れてはいけない。日本の政治家ナンバーワンの明治、大正、昭和の失敗史の講義を聞くことにしたい。
 
                             以下は『尾崎咢堂全集第9巻―不敬罪事件の真相』(昭和30年、公論社)より
 
 
尾崎 行雄(おざき ゆきお)は安政5年(1858年12月生れ)で、明治7年に慶応義塾に入り、福沢諭吉の教えをうけて、政治家の道を志した。                    

70年前の1942年(昭和17)の尾崎の証言は
『現在を予言している』
 
「明治の末年においては、朝廷はまだ御一代であらせられた(明治天皇)が、世間は多くはすでに二代目になった。
(明治維新の元勲など)の三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允らの時代はすでに去って、西園寺公望,桂太郎、山本権兵衛らの時代となっている。これはひとり政界ばかりでなく、軍事界、学界、実業界等、すべて同様である。故に予がいう所の二代目は、明治末より、大正の末年までの、およそ三十年間であって、三代目は昭和以後の事である。
 
 全国民が三代目になるころは、朝廷もまた、御三代目(昭和天皇)にならせ玉われた。
しかし、予が該川柳を引用したのを以て、不敬罪の要素となすのは、甚だしく無理である。それはさておき、時代の変遷によりて起これる国民的思想感情の変化を略記すれば、およそ左のとおりである。
 
① 第一代目ころの社会、国民感情は・・
 
この時代は、大体において、支那(中国)崇拝時代の末期であって、盛んに支那を模倣した。支那流に年号を設定し(一世一元のこと。日本はそれまでは甲子定期改元と不定期改元の併用であった。
中国は、明朝以降一世一元になった)、かつ数々これを変更したるが如き、学問といえば、多くは四書五経を読習せしめたるが如き、各種の碑誌銘(ひしめい)に難読の漢文を用いたるが如き、忠臣、義士、孝子、軍人、政治家の模範は、多くはこれを支那人中に求めたるが如き、その実例は枚挙にいとまないほど多い。
今日でも、年号や人名をば、支那古典中の文字より選択し、人の死去につきても、何らの必要もないのに、薨去、(こうきょ)、卒、逝(せい)などに書き分けている。
 
 この時代には、新聞論説なども、ことごとく漢文崩しであって、古来支那人が慣用し来れる成語のほかは、使用すべからざるものの如く心得ていた。現に予が在社した報知新聞社の如きは、予らが書く所の言句が、正当の言葉、すなわち成語であるや否やを検定させるために、支那人を雇聘(こへい)していた。以て支那崇拝の心情がいかに濃厚であったかを知るべきだろう」
 
 
「予は、明治十八年に、はじめて上海に赴き、実際の支那と書中(本で読む)の支那とは、全く別物なることを知り得た。特に戦闘力の如きは、絶無といってもよいことを確信するに至った。
 
故に予はこれと一戦して、彼(中国)の倣慢心(ごうまんしん)を挫(くじ)くと同時に、わが(日本)の卑屈心(ひくつしん)を一掃するにあらずんば、彼我の関係(日中関係)を改善することの不可能なるを確信し、開戦論を主張した。
 
しかし全国大多数の人々、特に知識階級は、いずれも漢文教育を受けたものであるから、予を視て、狂人と見倣(みな)した。しかるに明治二十七年に至って開戦してみたら、予が十年間主張したとおり、たやすく勝ち得た。しかし勝ってもなお不思議に思って予に質問する人が多かった。
 また一議に及ばず、三国干渉に屈従して、遼東半島を還付せるのみならず、露国(ロシア)が旅順に要塞を築き、満州に鉄道を布設しても、これを傍観していた。これらの事実を視ても、維新初代の国民が、いかに小心翼々であったかを察知することが出来よう」
 
 
② 第二代目ころの社会、国民感情はどうなったのか
 
 
明治二十七、八年の日清戦争後は、以前の卑屈心に引換え、騎慢心(きようまんしん)がにわかに増長し、前には師事したところの支那も、朝鮮も、眼中になく、その国民をヨボとかチアンコロなどと呼ぶようになった。
 
また(東大の)七博士の如きは、露国(ロシア)を討伐して、これを満州より駆逐するはもちろんのこと、バイカル湖までの地域を割譲せしめ、かつ二十億円の償金を払わしむべしと主張し、世論はこれを喝采(かつさい)する状況となった。実に驚くべき大変化、大増長である。
 
古来識者が常に警戒した驕慢的精神状態は、すでに大いに進展した。前には、支那戦争(日清戦争)を主張した所の予も、この増長慢をは大いに憂慮し、征露論(日露戦争)に反対して、大いに世上の非難を受けた。伊藤博文公の如きも、これに反対したらしかったが、興奮した世論は、ついに時の内閣を駆って、開戦せしめた。
 
 しこうして個々の戦場においては、海陸ともに立派に勝利を得たが、やがて兵員と弾丸、
 
その他戦具の不足を生じ、総参謀・児玉源太郎(こだまげんたろう)君の如きも、百計尽き、ただ毎朝早起きし太陽を拝んで、天佑(てんゆうを)乞うの外なきに至った。
 
 僥倖(ぎょうこう)=思いがけない幸い)にも露国の内証(内紛=革命の勃発)と、米国の仲裁とのため、平和談判を開くことを得たが、御前会議においては、償金も樺太も要求しないことに決定して、小村(寿太郎)外相を派遣したが、偶然の事態発生して、樺太(カラフト=サハリン)の半分を獲得した。政府にとりては望外の成功であった。
 
 右などの事実は、これを絶対的秘密に付し来ったため、民間人士は、少しもこれを知らず、増長慢(増長、慢心しておごり高ぶること)に耽って平和条約を感謝するの代わりに、かえってこれに不満を抱き、東都(東京)には、暴動が起こり、二、三の新聞社と、全市の警察署を焼打ちした。
 
 近今に至り、政府自ら戦具欠乏の一端を公にしたが、日露戦争にあの結末を得たのは、-天佑と称してよいほどの倦倖であった。不知の致す所とは言いなが年あの平和条約に対してすら、暴動を起こすほどの精神状態であったのだから、第二代目国民の驕慢心(きょうまんしん=おごり高ぶること)の増長も、すでに危険の程度に達したと見るべきであろう。
 
 右の精神状態は、ひとり軍事外交方面のみならず、各種の方面に生長し、ややもすれば国家を、成功後の危険に落とし入るべき傾向を生じた。
 前回の(第一次)世界戦争に参加したのも、また支那に対して、いわゆる21ヵ条の要求を為したのも、みなこの時代の行為である」
 
 
                                                                 (つづく)

 - 健康長寿 , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本の最先端技術「見える化」チャンネル/『文字から音声認識の時代へ』★『AI・人工知能EXPO2019(4/5)』-TISの「業務用スマートスピーカーによる音声文字起こし、スマホで会議録、報告書がサクサクできる』

日本の最先端技術「見える化」チャンネル AI・人工知能EXPO2019(4/5) …

鎌倉カヤック釣りバカ日記(2/28)−坂の下周辺でシーバースに挑戦『老人と海』<金を残すより「筋肉貯金で百歳生涯現役めざせ」

鎌倉カヤック釣りバカ日記(2/28)−坂の下周辺でシーバースに挑戦、空振りの巻① …

no image
現代史の復習問題/記事再録★『山本五十六海軍次官のリーダーシップー日独伊三国同盟とどう戦ったか』★『ヒトラーはバカにした日本人をうまく利用するためだけの三国同盟だったが、陸軍は見事にだまされ、国内は軍国主義を背景にしたナチドイツブーム、ヒトラー賛美の空気が満ち溢れていた。』

  2012/07/29 記事再録・日本リーダーパワー史(2 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(270)★『佐藤一斎(86歳)いわく『少(しよう)にして学べば、則(すなわ)ち 壮にして為(な)すこと有り。 壮(そう)にして学べば、則ち老いて衰えず。 老(お)いて学べば、則ち死して朽ちず』

  2018/04/11 『百歳学入門』(222) …

『オンライン講座・大谷翔平選手と日本政治家の実力比較』★『世界中から有能な人材を超高給でスカウトし、スピーデイなリーダーシップで世界覇権を死守する米国」★『世界一の超高齢少子人口減少社会の解決に30年間も失敗連続で中進国・後進国に転落し沈没寸前の日本』★『MLBを制した大谷の実力と比べて日本の政治家は落第である」 

大谷翔平選手と日本政治の実力比較  前坂 俊之(ジャーナリスト)   …

no image
<百歳学入門(86)>宮武外骨の『人生70、古来稀ならず』 ―日本史の<百歳健康長寿者調査表>

 <百歳学入門(86)>   宮武外骨の『人生70、古来稀な …

『オンライン/死に方の美学講座』★『知的巨人たちの往生術から学ぶ②-中江兆民「(ガンを宣告されて)余は高々5,6ヵ月と思いしに、1年とは寿命の豊年なり。極めて悠久なり。一年半、諸君は短命といわん。短といわば十年も短なり、百年も短なり』

前坂俊之×「中江兆民」の検索結果 →69 件 #中江兆民 #大石正巳  …

『オンライン講座/昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』②『歴代宰相の中でも一番、口の堅い吉田じいさんは公式でも突っけんどんな記者会見に終始して、新聞記者と個人的に会談したケースは少ない。『総理番記者』は『新聞嫌いの吉田ワンマン』取材用に誕生した」●「伊藤博文の大磯邸”滄浪閣“を買取り、自邸の『海千山千楼』に改築した。

     2016/02/09 日本リー …

no image
記事再録/知的巨人たちの百歳学(130 )『百里を行くものは、九十里を半ばにす』 ●『心は常に楽しむべし、苦しむべからず、身はつねに労すべし、 やすめ過すべからず』貝原益軒) 』●『老いておこたれば、則ち名なし』●『功のなるは、成るの日に、成るにあらず』●『 咋日の非を悔ゆるものこれあり、今日の過を改むるものすくなし」(佐藤一斎 )

2016/07/03 百歳学入門(149) 『百里を行くものは 九十里 …

『オンライン/ベンチャービジネス講座』★『日本一の戦略的経営者・出光佐三(95歳)の国難・長寿逆転突破力①「順境で悲観し,逆境で楽観せよ」★『金・資本・知識・学問・会社、組織の奴隷になるな!』★『私は目が見えなかったために本など読まず、自分の頭で考え抜いた』

  戦略的経営者・出光佐三(95歳)の国難・長寿逆転突破力 &nbsp …