日本リーダーパワー史(182)『大アジア時代の先駆者・犬養木堂②』ロシアに圧迫されたイスラム教徒も支援―
日本リーダーパワー史(182)
<百年前にアジア諸民族の師父と尊敬された犬養毅>
『大アジア時代の先駆者・犬養木堂②』
―ロシアに圧迫されたイスラム教徒も支援―
前坂 俊之(ジャーナリスト)
インド革命の志士ラス・ビハリ・ボースは語る
インド革命の志士ラス・ビハリ・ボースは、昭和十二年五月十五日、全国木堂会主催の木堂追悼会で語る。(鷲尾義直編『犬養木堂伝、中巻 東洋経済新報社 昭和14年799-805P)
「私が初めて犬養先生の御目にかつたのは大正五年と記憶しておりますが、中野正剛君と一しょに牛込馬場下のお邸に伺ったのでした。当時、私はまだ日本語はイロハすら解せず、英語で中野君の通訳をわずらわし、いろいろお話を申し上げ、それから永い聞お世話を頂きました。先生は単に政治的-内政上においてばかりでなく、常に東亜(アジア)の問題、世界の問題に着目、留意せられ、なかんずく支那(中国)、印度(インド)、安南(ベトナム)等に関しては、特別に心配しておられました。
先生は財的には裕かな方ではなかったのですが、私初めその方面の御援助を受けた日本人以外の人は決してすくなくないと思います。そして東亜問題に対しては、常に私共と同じ意見を抱いておられ、指導助力を惜しまれなかったのであります。
日本の方々が、先生を日本の偉人として崇敬されるのは当然でありますが、先生はひとり日本の偉人であるばかりでなく、東洋の、否な世界の中でも最も偉大なる人物であったことを、私は熟々感ずるのであります。
「アジア諸民族の師父」
赤堀松畔は、更に等を進めて、ロシアのトルコ族にして日本へ亡命してきた人々に対する木堂の同情を叙し、木堂を以て「亜細亜(アジア)諸民族の師父」と称しておる。
『ヨーロッパ、ロシア、中央アジアあたりからロシアの国籍を有するオスマントルコ族にして日本へ亡命していい者は相当数に達する。彼等がソビエト連邦内における二千万の同族を糾合して新国家を建設せんとする計画は、どれだけの現実性があるかは疑問とするも、その建国運動はアジア問題に関心を有する者の閑却しがたい一事実である。
よしそれを一つの夢想的事実として全く問題視しないとしても、彼の毛織物を肩にかついでおぼつかない日本語を操りつつ行商して回るっているオスマントルコ族の姿には、流離困頓の亡命客たる同情すべき苦酸の影を宿していて、冷眼にこれを見過ごすことが出来ない。
よしそれを一つの夢想的事実として全く問題視しないとしても、彼の毛織物を肩にかついでおぼつかない日本語を操りつつ行商して回るっているオスマントルコ族の姿には、流離困頓の亡命客たる同情すべき苦酸の影を宿していて、冷眼にこれを見過ごすことが出来ない。
各人が他人を雑へざる水入らずの家庭を要するように、彼等は民族自身の国家というものが欲しいのだ。この希求の下に彼等は日本へ亡命して来て苦労を嘗めているのである。
本堂先生とロシア、トルコ族との関係は、明治四十二年にイスラム教トルコ族の長老イブラヒムが来朝した頃から始まり、先生の在世中、ずっと継続していたようである。東京市外代々木宮ヶ谷にあるイスラム教徒学校連盟本部は、即ち彼等の日本における中心機構で、彼等の集合には木堂先生も列席して彼等の限りなき感謝を受けられたこともあつたようである。
ロシア内におけるトルコ族の建国連動は、仮りに空中の楼閣であるとするも、その志は諒とすべく、本国を追はれて日本へ流れ込んで来た面々は、いわば窮鳥の懐に入ったようなものである。達識明敏なる先生が、彼等の運動に対して下された判断は想像することも出来るが、懐に飛び込んで来た窮鳥を温かい胸を開いていたわってやらずにはおられぬ先生の性情が、車をかって彼等の集合へ列席されるというようなことにまでなって現はれたのであらう。
明敏なる判断力を持つ人は、とにかく冷刻に流れ易い、明敏なる判断力を具へると同時に、温かい同情心をも具へるというに至ってその人は尊い。明敏なる判断力を持合せない夢想家が、同情の安売りをする例は多いが、明察なること先生の如くして、寄る所なき亡命客に湧くが如き同情を寄せられることは誠に有り難いことと思う。ひっきょう先生は亜細亜の諸民族の師父だったのだ。
木堂と回教(イスラム)徒関係については、多年、此事-こ尽力している足羽清美が次の如く記している。(昭和十二年一月貴行『木堂雑誌』)
犬養木堂先生とイスラム教徒関係
イブラヒムの来朝
帝政ロシャが、日露戦争において従来、極東の弱小国と侮っていたわが国に敗れたことは、戦前クロパトキン将軍が『鎧袖一触のみ」と豪語していただけに、一層、ロシア国民に大きな衝動を与えた。なかんずく、アジアロシアの被圧迫民族にあっては、過去において既に、ピヨートルやラッチョーフ教授のシべリア独立連動なども台頭しておったことでもあり、また回教徒の如きは、陰かに日本の戦勝を祈願しておったというような事情もあったので、彼等が帝政ロシアのしっこくから逃れたいという希望は熾烈なものであった。
それゆえ、ロシアの戦敗を如実に観た彼等の間には、ロマノフ王朝圧迫の絆から脱したいといふ永い間の宿題は、これを機会となりて民族意識の復活となり、ほうはいとして独立的気運が勃興するに到ったもののようである。
そこで回教徒の如き、従来、極度に圧迫されて、その固有の文字の使用をさえ禁止されていたのであったが、戦後戦線から捕虜となってわが国の風物人情を視て帰った兵士どもから、その情況を聴いて非常なる感興を喚起し、たちまちにして固有文字による新聞雑誌等の刊行物が、三十余種に及んだ由である。
ここにおいて、アブドルラシッド・イブラヒム氏はひそかに考ふる所あり、逸早く此の極東先進国の実情を知らんと欲し、明治四十二年十二、月単身来朝し、翌夏まで八ヵ月間我国に滞在して、その間、伊藤博文、大隈重信、犬養木堂先生、頭山満その他の名士を歴訪して、彼等民族間の実情を訴へ、併せてその希望を述べたものである。
イブラヒム氏は、滞京中に木堂先生に面会の機会を得たが、その間に回教寺院を東京に建立する計量が具体化していた。これは木堂先生から直接伺ったことであるが、麹町院内に敷地が決定していたが、その後故障が起って不成功に了った、ということである。
この間題に関して面白い一挿話がある。敷地は麹町区内に出来、建築費金の問題になったが、当時、横派に滞在していた印度の商人で、カ・マルヂンハビルラといふ者が、上海に住んで居たアミーバハスという印度パシャオールの金
満家を同道上京して木堂先生を訪ね、土地は日本から提供されたのであるから、建築の資金は自分が醸出したいと申し出た。ところが木堂先生は即座に
「東京に印度の金で寺を確てる事は、此の町の名誉ではないでしょう。」
と、一言して斥けられたさうである。これはイブラヒム氏直話であるが、いかにも先生の面目躍如たるものがあるではないか。
しかも結果は前陳の先生のお直話の通りであったのであるっイプラヒム氏は、昭和八年十月に再度来朝した。
クルバンガサーの来朝
千九百十七年のロシア革命は、帝政時代の圧迫迫民族に一時的には従来の圧政から連れた悦びを与えたが、それはほんの泡沫的電光的な喜びで、ロマノフ家の転覆から引績いて来たものはレーニンの赤い魔手であった。
彼は革命当時こそ、巧みに時潮を利用して各弱小民族の独立を認め。いわゆる民族自決を承認するが如き風を装っていたが、これは過渡期の方便にしか過ぎなかったことが明瞭となった。
革命当時、全露回教管長代理としてロトグラードに居住していたムハメード・カブドルハイ・クルパンガマ氏は、ロシア革命と共にパシキリア国の猫立を謀り、引績いて隣接のキリギス、トルキスタン、アルゼバイジャン、タゲスタン、クサミヤ等の小国もそれぞれ独立を遂げたのであったが、ボルセヴィキーはこれらが国家主義的であることを甚だしく嫌い、幾許ならずしてこれらの国家主義的執政官や志士達を或は殺し、或は海外に逐うて、共産主義者を以てこれに替へた。
クルバンガリ―氏亡命生活の発端は、この頃から始まるのである。その後引績いて起ったシべリア戦争には、彼の弟は白軍の一支隊であったバシキール兵団を率いていたが、中道敵弾に倒れたので、彼は直ちに代って此兵団を率い、シベリアの野に他の白軍と共同して赤軍と戦ったのであったが、戦利あらずしてついに亡命の客となるべき運命に陥った。
そこで彼は、大正九年十二月、参謀長ビクメーフ少将を伴って初めて来朝(ビクメーフは後ちに鎌倉で客死し、横濱の外人墓地に葬られた。)翌年二月、更にバシキール兵団中の青年将校十名を伴って再度来朝したのであった。
その後、このシべリア戦争の結果について、木堂先生は左の如く語られた。
『シべリアに逃げて来た連中は、ロシアでも相当な階級の連中で、故郷におられないために、土地も家屋も財産も、親兄弟の安否さへ顧みるいとまもなく、逃げて来た人達であるから、彼等をしてあそこに国を造らせるという事は人道上から観ても当然の事で、努働者階級に容れられないで逃げて来る連中だから、立派に国を造るだけけの能力は持っておる、
だからこれを保護してやるということは、人造上当然の事なのである。それゆえ吾輩は当時、外交調査などでも極力主張し、モウちょっと頑張って助けてやれば出来たのだが、いろいろな事情のためにアンな結果になったのは返すくも遺憾である。」
クルバンガザー氏は、その後暫らく奉天、大連などに住み、両地に回教寺院を建立し、ウラル、アルタイ民族の研究に没頭して、亡命の淋しき日を送る間にも、民族将来のため奮闘を績けていたが、意を決して大正十三年に三たび来朝、東京に居を定め永住することとしたのである。
この時、木堂先生はある方面にクルパンガサーな紹介されて、生活の費を得る途を請ぜられたのであった。そして爾来、公私共に種々の面倒を見られたものである。
その頃は、三々伍々に来日した回教徒が、全国に五六百人もおり、東京だけでも二百人以上もおったので、これらの団結と慰安を謀る目的から、東京回教圏を組織したのであるが、亡命客の多くは、ロシア領のタタール、バシキール地方に住んで居たトルコ族の内のタタール、ハシキール、メシヤールの諸民族であった。
クルバンガマ氏は、これら亡命回教徒の統一を謀り、更に昭和三年十月、全国在住の回教徒の代表者を東京に集めて大倉を開き、日本帝国在留回教徒連盟の結成を告げたのであった。
此大命には、木堂先生、頭山満、古島一雄、床次竹二郎氏等も列席されたが、木堂先生は三日にわたる大会に、二日間連績して出席され、極度の慈愛のこもった祝辞を述べられたので、彼等の間に深き印象を与えた。さればこそ彼等は、彼等の精神として無上の尊敬を捧げておる回教聖典コーランを先生に送呈したのである。
その後、東京回教圏で刊行したので、我国の名士でコーランを所持しておる人もあるが、当時では、御大典に際し陛下に献上した以外、民間では木堂先生と頭山満翁に送呈した外に、放行先きで購入した人がある位に過ぎなかったと思う。
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