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日本リーダーパワー史(225)『上海でロシア情報を収集し、バルチック艦隊を偵察・発見させた商社政治家―山本条太郎②』

      2015/01/01

日本リーダーパワー史(225)
 
<坂の上の雲・日本海海戦秘話>
 
上海でロシア情報を収集し、バルチック艦隊を
偵察・発見させた商社政治家
山本条太郎②』
 

                                                                        
                     前坂俊之(ジャーナリスト)
 
東京に生まれ。明治14年、三井物産に丁稚奉公で入り、明治21年上海支店に勤務。明治34年同支店長に昇進。その後も昇進を続け明治42年常務。1912年辛亥革命では南方革命軍への300万円の借款に応じた。大正3年シーメンス事件に連座して退任。その後、事業家として再出発、多くの事業を手がけ、日本水力・日本火薬製造・日支紡織・大同肥料の社長、大同電力その他の取締役となる。大正9年衆議院議員に連続5回当選。昭和2年政友会幹事長、満鉄社長(のち総裁)に就任し、満州(中国東北部)開発をすすめた。
 
 
 
山本条太郎の日露戦争時代の活躍―上海の重要性
 
 明治三十七年二月十日に日露戦争の宣戦が布告せられると、各国はいづれも局外中立を宣言した。しかし英国は既にわが国と同盟関係を結んでいるから、陰に援助を与へて居り、米国の同情も我に傾いていた。
 
フランスはロシアの同盟国であるから、反日的であったことはいふまでもない。中国も中立を宣言したが、第一その領土たる満州が交戦地域となっているので、中立条規を厳重に励行する実力はなく、日露両国の勢力の伸長によって、その時々の吹く風に任せる外はなかった。

ところで、ロシアは遠いヨーロッパ本国からアジアへかけて、一筋のシベリア鉄道が唯一の交通機関であって、軍隊の輸送を始めとして、兵隊、弾薬等の軍需品より食糧その他の輸送をすべてこれに頼ることは、到底不可能であるから、必需品は出来るだけ満州、北中国から徴用し、更に手を伸ばして上海方面から買い集めねばならなかった。ロシアが上海を如何に交戦目的に利用していたかは、山本の明治三十七年八月、三井集会所談話会での次の談話によっても知ることが出来る。

 
 今度の戦争が始まってから、露清銀行がロンドンへの売為替、即ちロンドンから多額の金を取寄せるので、一時は独りでロンドンでの売為替を左右することになっていた。何のためにそれほど金が要るのかといふに、総て満州で使う軍資金の運転に、ル-ブルの手形を出した。そのものが悉く上海へ回って来る。これは間断なく段々金高が大きくなったが、なるたけよい割で、だっ換券の交換を致してをります
 
。そこでその資金のために売為替をもしている。その高は外面からは分りませんが、開戦以来少くとも五六千万ルーブルになっていると思ひます。これを間断なく率を定めて交換している結果、中国人は安心してこのルーブル手形を受取る、それで満州で都合よく信用を得て流通している高は、蓋し上海で交換されているよりは多いだらうと思われます。これ等は先づ露清銀行がよい働きをしている目星しいものの一つであります。
 
 
 露清銀行が上海にあって、満州方面における物資調達に、大きな役割をしていたのである。
 いうまでもなく、上海は中国の心臓部であって、文部内地のあらゆる物資が集散するのみならず、世界の物資と人間とが自由に集散し、出入し得る国際都市である。ロシアはウラジオストック港を東洋に有してはいるが、日本の制海権に抑えられて物資を集めることが出来ない。
 
戦局が進み、日本海軍の魔力が加はり、放順の包囲が厳しくなればなる程、物資補給路としての上海の重要性は倍加して行く。わが国としても、戦時必需の物資を獲得する上に、上海は極めて枢要な地点であるから、極力ロシアへの補給を遮断し、わが制圧下に置かねばならぬ。ここにおいて上海は物資争奪戦の巷となり、砲弾の飛ばぬ日露経済戦場となったわけである。
 
のみならす当時、上海へは戦争あてこみに各国商人が集り、各国船舶が輻湊して、非常に活気を呈すると共に、その間に交戦国の情報やら宣伝やら、各方面の世論が入り乱れて飛ぶのである。いわば世界の神経がここにピクリと動くのである。
 
 
 
山本は上海の兵站機関、諜報機関、宣伝部長として最適役
 
 
 
 こういうところにいて、わが国のために有利に大活躍し得べき人物は、これを誰にか求むべきか。上海に在任すること十数年、内外人細に絶大の声望を有し、しかも機敏、勇敢、果断、豪胆、智略あるわが山本を招いて他に何人があらうぞ。山本こそは日露戦争における上海の兵站機関として、諜報機関として、宣伝部長として適役中の適役であったのである。
 
 然るに総て事は機密に属し、山本も生前これを口外しなかったために、折角の山本の活躍を如実に伝へ得ないのは甚だ遺憾なことである。今左にその片鱗の二、三を列記する外はない。
 
当時、ロシア陸軍少将デツシノが上海に駐在していたっ山本は常にその挙動に注目し、彼が戦時禁制品の注文を出すと、先回りをして三井の手で買収し、また彼が商船の借入契約をしようとすると、また手を過してこれを阻止した。
 
デツシノは敵の兵姑機関でもあり、諜報機関でもあって、頻りに日本に関する情報蒐集に活動し、上海倶楽部などに出入して、巧みに外人間を泳ぎ回ったのである。山本は表面的には何気なく彼と交際し、盃をとって倶楽部に歓談することもあったが、虚々実実、相手の胸奥を看破すべく秘術を姦し、直ちに部下を動員して先回りをやつたのである。当時、俊敏なる森氏などは、翁の意を承けて盛に暗躍したものである。
 
 
山本は中国人の間に親日的気風を培養する目的を以て、かって中外日報、外交報等の経営に関係し、その匿名株主となっていたのであるが、開戦後、更に北清日報、新聞報等を援助してこれを操縦し、また上海の日本官憲と協力し、上海デーリー・プレスを買収して日本の機関紙とし、三井物産の雇外人ドラップルをその名義人として経営にあたらせ、情報を官権に提供した。
 
上海での一流の外字新聞といえば、「ノース・チャイナ・デーリー・ニュース」であったが、その出資者ヘンリー・モーリス氏と親交があったところから、同新工を日本に有利なやう運用するに成功したのであった。
 
 宜伝戦は近代戦の一翼である。日露戦役の頃にはその重要性が今日ほどに認識せられなかつたが、山本はここに着眼したのである。戦争当時、中国人の間に親日的傾向濃厚となり、日本の勝利を聞く毎にわが事の如く喜んださうだが、それには山本が上海において、暗に宣伝部長の一役を買っていたことを看過すべきではあるまい。
 
 また飛耳張目以て内外人からの情報蒐集に努めた。上海ドック会社の社長プレンチスの女婿ウイルヤム・ローがヴアカン・アイヨン・ウオークス会社を創立したとき、山本が個人として多額の株を引受けた関係があって、親しい間であったが、彼は日本のために有利な情報を翁に提供したということである。
 
それがどんな内容であったか知る由もないが、こんな事例はいくつもあって、集まった情報は直ちにその筋に通達された。この外、中国領の一孤島に無線電信の装置を設けるべしとその筋に建議し、その所有者に封し交渉の任に当たったことが伝えられており、内外棉花会社の土井嘉蔵氏は、
 
 「山本さんは明治38年頃、海軍将校の井上敏夫といふ人と懇意であった。ヾハルチック艦除の行動を偵察せられるについては、この井上氏とは特に連絡があったと思う。」と語り、また上田恭輔氏は、山本と児玉源太郎大将との関係について、
 
 「日露戦争当時、陸軍参謀本部から種々の人達がシンガポールその他へ出張して活躍した。これ等の人々はいづれも三井物産上海支店の社員ということになっていたので、それ等のことで、児玉伯と懇意になられたものではないかと思う。その頃山本から児玉伯へ時々手紙を差出されたのを見たことがあるが、内容については素より知らない」
と伝へている。
 
 
 
バルチック艦隊の偵察・情報伝達
 
 しかし何といっても、翁が苦心惨憺、その全力を傾け、血のにじむむやうな働きをしたのは、バルチック艦隊の動静偵祭であった。同艦隊が東航をつゞけて、一日々々と、わが国に近づきあることは、わが全国民の神経を集め、敵艦除の行動偵察至大関心事であった。特にフランス領インドネシアのカムラン湾を出港して後、どの航路を選ぶであらうか。対馬海峡か、津軽海峡か、はたまた宗谷海峡か、この針路を確めることがわが海軍の死活問題で、皇国の興廃この一点に懸っていたといつて過言でなかった。
 
 
山本は香港、シンガポールに偵察網を接げて、関係ある商店、船会社等と連絡をとり、或は外国船の船長、水先案内などを懐柔して、絶えす情報を蒐集し、直ちにこれをその筋に速報するに努めた。
この急電報は百回以上に及び、これがため、山本の支出した私財3万円以上に上っという。
 
バルチック艦隊がいよいよわが国に近づくと見るや、山本自ら小蒸汽船「ヴアルカン号」に搭乗して北マレー付近で、寝食を忘れて敵艦隊の行動偵察に当たり、これを詳細にその筋へ打電したことである。このときの打電は海軍当局に大きなヒントを与えた。端的にいえば、バルチック艦隊が対馬海峡通過を示唆した暗号電報が、上海から三井本店を通じて当局に達しものと想像せられるのである。
 
このとき少くとも山本自らは堅くこれを信じたものらしく、次の一挿話が伝へられている。
 
 明治三十八年五月二十七日、バルチック艦隊全滅の快報未だ到らざる数刻前のことである。上海倶楽部の客室に、対座せる山本翁と小田切総領事とは、盛にシャンペンを抜いて極めて朗かに快笑また咲笑しっつあった。
この光景を目撃せる外人達は、眼を皿にしつつ半ば奇異に感ぜるものの如く、翁の傍に近寄り来り、『今日は如何なる祝日か。』と聞くもの、または『よほど愉快な事があるに相違ない、知らせて呉れ。』などと、頻りに翁の口裏を引いた。
 
しかし翁は咲笑するのみで1言も話さず、総領事もまた微笑するのみであった。果然、それは日本海大海戦の前祝いであったので、これはこの両人以外、絶対に知るものはなかったのである。しかし、これ秘中の秘、翁にこれを問えば、唯『露感によるのみ』というだけであった。
 
 
 この外、第二艦除司令官の瓜生外吉将軍が敵の残艦追撃中、対馬沖から中国語の話せる者を寄越せと密命し、山本は、社員三名を引率して急行し、各艦に分属させたという話もある。「森伝」には「山本翁がバルチック艦隊の航路、偵察に苦心し、森氏にその追跡、探索を命じたので、森氏は二三の部下と一隻のヨットに乗組み、勇躍、南支那海に向かい、アモイ、香港、膨湖島、マニラの間を航走し、五月二十日、敵艦隊がバシー海峡を通過するや、早くも敵は東支那海へ左折して、対馬海峡に向かうものと推測し、これを山本支店長に打電した。
 
山本は直ちに海軍に特電したが、これを眞先にキャッチしたのが常時第二艦隊に属し、司令官として旗艦浪速にあって、第四戦隊を指揮していた瓜生外吉中将であった」とある。
 
 
山本が自ら小蒸汽船ヴアルカン号に搭乗して、北マレー島付近に出掛けたのは、森氏の電報を得て、更に確証を探らんとしたためではなからうか。北マレー島は揚子江口外にある列島の一つである。何分機密に属するととであるから明瞭を欠くが、愛国の熱情に燃える壮漢山本支店長と森青年との命懸けの活躍が、皇国の興廃を決する日本海大海戦に寄与した陰の功績は没すべからざるものがある。後年、森氏が山本翁の橋渡しで瓜生将軍の令嬢と結婚することになったのも一奇縁といふべきであらう。
 
                                                                                              『山本条太郎伝』(昭和17年、1942年)より。
 
                           (つづく)

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