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日本リーダーパワー史(621) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑮ 『川上操六参謀本部次長がドイツ参謀本部・モルトケ参謀総長に弟子入り、 ドイツを統一し、フランスに勝利したモルトケ戦略を学ぶ①

      2016/01/02

 日本リーダーパワー史(621

 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑮

『川上操六参謀本部次長がドイツ参謀本部の

モルトケ参謀総長に弟子入り、

ドイツを統一し、フランスに勝利したモルトケ戦略を学ぶ①

                                                   前坂 俊之(ジャーナリスト)

1884年(明治17)2月、大山巌陸軍卿(陸相)は、川上操六、桂太郎両大佐ら俊英17人を引き連れて、ヨーロッパ各国を視察。イタリア、フランス(47日)、イギリス、ドイツ(70日)、ロシア、アメリカなどを約1年にわたって歴訪した。その目的は、①将来の陸軍の編成、軍政の研究 ②部隊の演習の実地調査 ③最新の軍事知識の吸収などで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦によって参謀少佐メッケル(42歳)を日本に招致することが決定。メッケルは明治18年1月に来日した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB

この年12月、日本では内閣制度が発足、伊藤博文が初代総理大臣、大山厳は陸軍大臣となった。

川上の欧州より帰朝すると、明治18年5月、陸軍少将に任じ参謀本部次長を兼ねて、翌19年3月、近衛歩兵第二旅団長に補された。同年11月30日を以て川上はドイツの軍事体制、参謀本部を本格的に研究するため、乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。

この時、明治天皇は、わざわざ皇帝・ウィルヘルム一世にあてた宸翰を携行させた。

「彼等将校(川上、乃木)ヲシテ、朕ノ付課シタル責任ヲ 全ウセシメ、且ツ、朕ノ彼等二望ム信拠ヲシテ、誤リナ

カラシムルタメ、陛下幸二彼等二恩遇ヲ加エラレナバ、 朕、更二益々感謝ノ意ヲ増加スベシ」

 

川上には軍略面を担当、乃木には精神面を担当させ、修養研究を命じたのである。

普仏戦争で勝利してドイツ統一に貢献した陸軍参謀総長・モルトケ(1800-1891)はこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長に君臨していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%B1

一方、川上は弱冠38歳だが、モルトケに弟子入りし、フランス軍を破った『モルトケの統帥』を学んだのである。モルトケは孫ほど歳の差のある川上に対して「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れてくれた、という。

当時、日本の陸軍参謀部といえば、陸軍省のどこにあるかわからないほどの小さい存在だった。川上はドイツ参謀本部入りを許され、その体制に驚嘆した。

その組織は、第一総務課、第二情報課、第三鉄道謀、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課に整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がただちに動員できる体制が整っていた。

近代軍隊の組織、動員、輸送、兵端の運用が、機械化、標準化、システム化されて、参謀総長をはじめ参謀、作戦トップが急死、戦死した場合にも、即それお引き継ぐマンパワー体制が完備していた。

そのモルトケの「必勝の戦略」「インテリジェンス」とはどのようなものだったのか。

それについての川上のドイツ日記に詳細に書かれている。

川上の手帳によって、ドイツ視察の日程をみると、川上は明治20年1月12日、東京を出発し、3月1日、ドイツベルリンに到着している。ドイツ到着後、川上の行動は日記にほぼ箇条書きに記述されている。

ドイツ皇帝に明治天皇からの宸翰を奉呈し、参謀本部のモルトケ以下に面会、教えを乞うた事項、具体的な訓練等は日記に簡明に記述しているので、主なものを以下で紹介する。(徳富蘇峰「陸軍大将川上操六」第一公論社昭和17年1月刊、66-82P)、

3月1日 午前8時、ベルリン・アンハアルド.バンホープに到着。ベルリン駐在代理公使小松原氏、大久保氏、伊知地大尉が出で迎られる。チヤガルテン・ホテルに投ず。

5日 伊地知同道、皇后病院に至り、奥青輔氏の病床を訪ふ。

https://wikimatome.org/wiki/%E5%A5%A5%E9%9D%92%E8%BC%94

http://homepage3.nifty.com/kosi/wien/up145/up145.html

此の夕、日本公使館に至り、内治書記官大森氏等と同じく、日本食の晩餐会に臨む。

3月10日 ドイツ帝国議会を見る。

3月11日 午前、陸軍大臣シユレン・ローロフを訪ふ、不在なり。薄暮、山根氏を訪ひ、日本料理の饗を受く。

3月17日雪降る。午後2時、小松原英太郎代理公使同道

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E

陸軍大臣シユレンを訪問し、来訪の旨を述べる。此の夕、小松原来り、皇帝陛下拝謁の旨を伝える。

3月18日 午後2時、乃木希典、野田 豁通(のだ ひろみち)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%94%B0%E8%B1%81%E9%80%9

楠瀬幸彦(くすのせ ゆきひこ)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6

姉小路と同車、宮城に至り、侍従武官の先導により、応接間において皐帝に謁見仰付らる。よって我が天皇陛下の宸翰を捧呈す。

皇帝には『軍事研究の事は十分陸軍大臣に下命し置きたり」とて、色々御話ありし後、追出したり。帰途、皇太子、モルトケ大将、動章局長を訪問す。この夕、小松原氏来訪。

4月2日 正午、乃木・野田・楠瀬が同道、皇太子に伺候。謁見仰付らる。小官に向つて勅語あり、『汝は前年大佐にて来遊のとき、顔色に髭なし。其の後、はやしたるなるべし』と宜う。退出の後、大笑したり。

4月3日 正午、参謀大尉リュハアイス来訪。参謀本部長モルトケの命によりて、川上,乃木両将官の付属となる旨を告げて、かつ「モルトケ大将も面会したし』という。我等は来遊の主旨を述べて,大将面会の事を依頼する。午後、小松原氏来訪。

同4日 リュハアイス大尉来たり『明後水曜日を期し、モルトケ大将面会すべし』との旨を伝う。午後、乗馬演習に赴く。

同日 快晴、何となく春色を催す。午後三時、これより川向の乗馬演習を一覧す。我が稽古所に比ぶれば五六等上位なり。馬も100頭内外あるかと思われる。これより我が乗馬演習新所に至りて帰る。

川上の日記によれば、1887年(明治20)4月6日は水曜日で、モルトケ将軍との面会日であったが、この日の記事がかけてけいるのは何故であるか。

「大将とモルトケ将軍との会談は大将の歴史に記録すべき頁であらねばならぬ。この会見の記事の省かれていることは、軍事上機密に属し、これを日記に書することできなかったものと推測するほかない」と伝記は解説している。

以後、8か月に及ぶ川上の日記はこれまでのものと同じ調子でほぼ毎日の動静は簡明に記述しているが、モルトケとのやり取りは一切省かれている、

12月19日・川上大将は乃木少将と共に、ドイツ見学中、研究調査したる一般の課業を陸軍大臣大山巌に報告すると同時に、見学定期中予定の事項を調整するにあらざる事情を述べ、以て留学延期を請求した。その書簡にいわく、

留学延期を請求し川上

『謹みて書を大臣閣下に呈し、小官等等三月ベルリン到着以来、勉精研究したる科業の一般を報じ、ベルリン滞在定期中に、予定の事項を調整しあたわざる理由を左に陳述し、以て小官等ベルリン滞若干の延期を閣下に請願す。

閣下宜しく小官等意思の在るところと其の事情を洞察し、願旨許容あらんことを乞ふ。

小官等は当三月上旬ベルリンに著するも、さきず帝王陛下拝謁し御親書奉奉呈を始め、諸方の訪問を終るまで多少の日数を費し、早速に受命の業務に就くをあたわず。漸く四月中旬に至り、当国参謀本部ロシア課出務の大尉1名を小官等へ付せられ、即ち小官等ベルリン滞在の時日と研究すべき事件、かつ巡視見聞すべき軍衛の箇所等、逐一大尉に相語り、本人の意見を尋問してベルリン中の科業計画を定めんとす。

然るに、小官滞在中、研究すべき科業に付ては、すでに其の概略を当参謀本部長次長より大尉へ内諭の趣を承知し、いらい全く同大尉の意に任せ、学術の両様を以て、専ら戦術を研究す。即ち今は諸科の戦術を講聴し、以後、毎日プロシア軍政と編制の沿革を講習す。この講習が終われば、動員準備に着手すの順序なり、動員準備のごときはドイツ国民に対するも、専務者の他言を禁ずる国法とするも、幸いに小官に伏せられた大尉は我々特派委員に限り、ある界限迄は動員準備の方法要領を講授し得べき内愉を受く。

固よりドイツ国の動員準備を仔細に研究するは我において直接に有益多しとせざるも、共の要領たる1国の戦略にしてこの要領を推し、我に計策するえれば、亦大益ありというべきものなり。

故に今回其の幾分の要領を聴知し得るは小官等本邦のために喜悦止まざるなり。

前陳の順序に基本き、小官等付属の大尉も偏に勉強し、定期中に予定の科業を完了せんとしたるも、去月下旬比より、プロシア・オーストリア両国の関係少しく不穏となり、ためにドイツ国もまた自戒の準備を要するの勢となり、小官等付属大尉は、ロシア専課なれば、時々本部へも出務を要し、若干の講習時間を減失するに至れり。故に目下の見込にては予定の科業を完尾するに少くとも猶を1ヵ月半乃至2ヵ月の時日を要す。

即ち三月上旬、当地を出発すべきところ四月下旬となるべきなり。もとより小官等本邦には本隊もあり1日も早く受命の研究を遂げ帰朝せんと欲するも、小官等この行たる常時の1行とは多少異なる所あり。

彼我のためにも、業務あれば事を等閑に付し、復命し能はざるの事情あり。閣下宜しく右の事情熟考ありて御許諾、電信を以て下命あらんことを伏して懇願す。頓首再拝。

明治20年12月19日

陸軍少将  乃木希典

同      川上操六

陸軍大臣 大山 巌 閣下

 

 つづく

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