終戦70年・日本敗戦史(139)「日本最大のクーデター」2・26事件でトドメを刺された新聞』作家・広津和郎の新聞批判「八百長的な笑い」
終戦70年・日本敗戦史(139)
<世田谷市民大学2015> 戦後70年 7月24日 前坂俊之
◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』
<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、
どこに問題があったのか、
500年の世界戦争史の中で考える>⑰
「日本最大のクーデター」2・26事件でトドメを刺された新聞』
作家・広津和郎の新聞批判「八百長的な笑い」
前坂 俊之(ジャーナリスト)
今日の終戦の日(敗戦の日)の全部の新聞を買ってきて比較してみたが、まるで日中戦争、太平洋戦争開戦、敗戦の日の新聞と同じ挙国一致、画一的な紙面に終始している。
この100年間で比較しても、まるで紙面づくりも、新聞の取材力もまるで進歩、革新していない。100年間進歩していないということは完全に停滞、遅れてしまっている戦時中の「死んだ新聞」と同じといういうことだ、
限られた少ない20-40ページ(広告があるので日実際はこの半分以下の記事量)ですべての新聞が横一線で内閣の終戦談話コピぺして全文掲載、記者会見の模様もそのまま、各国の反響の報道も同じく載せる日の丸弁当方式の上げ底の中身の全く同じも発表記事の羅列。
(この発表記事が戦争中の大本営発表と同じというのは、総理談話のコピーを載せているだけで、1問1答も代表質問などは 事前に国会質問と同じく、提出して総理の答えのカンニングペーパーを読み上げているだけの八百長(コピペ)ゲームで、各社の質問も核心を突くものは1つもない。
例によって、記者会見では質問せず、馬鹿げた夜回りと個別の取材で自社のつかんだ情報を多重チェックする日本的ガラパゴス記者クラブ・コピペ取材システムが完全に完成している)のである。
日本の新聞はかつて、某大新聞の幹部が「白紙の新聞でも売って見せる」と豪語したように。新聞の中身よりも、そのジャーナリズムの質の高さよりも、部数によって(かつてソ連が世界一の部数のイズベスチャーと誇ったのとまるで同じ)戸別販売制度で縛っているだけの、中身で勝負していない(その新聞の独自性、オリジナリティー、創造性で勝負してない)新聞なのである。
この「日本の遅れた新聞」については継続して、触れていくが、
ここでは本論に戻して、戦前の「新聞の死んでいく過程」、言論屈服について、和田洋一同志社大名誉教授は「ジャーナリズムの戦いは五・一五事件で九〇%終わり、二・二六事件で九九%終わった」と総括しているが、
その言論界へのトドメとなったのが、二・二六事件の時の東京朝日新聞社などが反乱軍に襲撃されたため、新聞はテロに脅え、完全に萎縮、気絶してしまったのである。
満州事変の勃発、5・15事件、国際連盟脱退という「太平洋戦争敗戦」への第一段階の失敗に新聞界は「挙国一致で」賛成して、「断固反対を唱える見識もなければ」「テロと戦う勇気もなく、震え上がって、軍部の降参したのである。政治家もまったく同じ、国民の一部はテロを支持し、残りはテロに震え上がって物言わぬ民と化して、軍部のヒツジと化したのである」
テロに震え上がって「新聞の使命である真実追求の役割を放棄して、国民の知る権利を代行している(これは戦後の概念)新聞は、その役割を放棄し「知らせる義務」「嘘ではなく、真実に肉薄して知らせる職務、義務」を放棄したのである。この罪は大きい。国の命令とか、検閲とか、テロの恐怖から「新聞の使命」を放棄したことは「新聞失格」であり、政府、軍の虚偽とわかる発表文を、虚偽と知りながら報道したことになると、これは「虚偽罪」に当たではないか。記者の良心に反する行為であろう。
今回の終戦70年で講演する機会があったが、80歳代の男性から「戦争中の新聞が全く嘘を書いていたとは終戦までは知りませんでした。兄弟の出征した戦場のニュースを必死で探して読んで信用していましたが、2人とも戦士で、新聞には全く裏切られました」と質問が出たときに、新聞の虚偽の責任について、痛感した。
この昭和の大国難をふりかえって、伊藤正徳・時事新報編集局長は「なぜ、新聞が最もその力をふるうべき時にふるわなかったのか」自責の念をこめて書いている。
● その最大のものは新聞人の勇気の欠如であり、2番目は言論に対する抑圧である。
「新聞人が勇気を欠いたことは争うを得ない。一般にみて必要以上に遠慮し、回避したことは争われ得ないようだ。刃物の刃にふれることを警戒して手出しをせず、無為に傍観した例は乏しくない。 言論生命のために、一社の運命を一論に賭する進攻的勇気はあえて求めないにしても、防御の筆 陣を包囲的に展開する程度なら、当然新聞人に要求されてしかるべきであろう」
と反省しているが、今日(8月15日)の各紙紙面を見て、「新聞の死んだ日」は現在進行中で、病重症と感じた。
言論統制法規を年度順に挙げる(昭和11-18)
・2・26事件(昭和⒒年2月)
・思想犯保護観察法施行(11年5月)
・不穏文書取締法公布(昭和12年6月)
・日中戦争勃発(12年7月7日)
・軍事に関する事項の新聞紙掲載を禁止(陸軍省令)(12年7月)
・軍機保護法改正公布(12年8月)
・海軍の軍事に関する事項の新聞紙掲載を禁止(海軍省令)(12年8月)
・外務大臣の示達した外交関係の新聞紙掲載を禁止(外務省)(12年12月)
・国家総動員法公布(昭和13年4月)
・新聞用紙供給制限令実施(13年9月)
・軍用資源秘密保護法公布(14年3月)
・映画法公布(14年4月)
・新聞紙等掲載制限令(勅令)公布(16年1月)
・国防保安法公布(16年3月)
・予防拘禁手続令公布(16年5月)
・太平洋戦争勃発(16年12月8日)
・新聞事業令(勅令)公布(16年12月)
・言論出版集会結社等臨時取締法公布(16年12月)
・戦時刑事特別法公布(17年2月)
・出版事業令(勅令)公布(18年2月)
なかでも、「新聞紙法」が新聞取り締まりの中心であった。
「日本最大のクーデター」2・26事件でトドメを刺された新聞
1936年(昭和11)2月26日
陸軍テロに震え上がって,新聞は一切批判をしなかった。
作家・広津和郎の新聞批判「八百長的な笑い」はこう書く。
「第一の不満は、今の時代に新聞がほんとうの事を言ってくれないという不満です。……日本のあらゆる方面が、みんなサルグツワでもはめられたように、どんな事があっても何も言わないという今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないという事はたまらないことです。
-信じられない記事を書く事に煩悶している間はまだいいと思います。しかし信じられない記事を書かされ、『何しろこぅより外仕方がないから』と、いわんばかりに八百長的な笑いをエへラエヘラ笑っているに至っては沙汰の限りです。
-最も尊敬すべき記者諸君が、これでは自分で自分を墓に埋めてしまう事になると思います」
日本最大のクーデター」2・26事件でトドメを刺された新聞
時事新報編集局長、軍事評論家の伊藤正徳の反省②
「満州事変から2・26事件までを国運興亡の重大事件が連発し、
新聞の社説が最も活躍すべきときにしなかった、その原因はー
①新聞人の勇気の欠如、②言論に対する抑圧、
③新聞 の大衆的転化
「筆者自身もそれを感じたことがある位だから、第三者からみて、主張すべきを主張しなかった怯惰の評を受けることは当然であろう。自ら意気地がないと意識しっつ、渋々ながら筆を矯める必要に迫られたことを筆者自身も体験する。
言論生命のために、一社の運命を1諭に賭するの進攻的勇気は敢て求めないにしても、防禦の筆陣を包囲的に展開する程度なら当然に新聞人に要求されてしかるべきであろう。昭和六年~九年の社説は、この点に遺憾があり、以て社説の社会的価値を増すべきに減じた観がある」
--軍国主義時代の新聞
・1930年代には、軍国主義、ファシズムが台頭し、新聞への圧力が高まった。
・新聞が言論機関として権力チエック機能を果たせず、軍部の暴走を容認し、戦争を拡大をあおった。
・1940年には「1県1紙」方針で全国で1千近くあった新聞統合が進められ、全国紙は朝毎読みの3紙体制になる。
戦時下において、新聞における言論の自由は完全に封殺され、「政府の宣伝PR]紙「言論報国新聞」「大本営発表新聞」と化し た。
・1941年には「日本新聞連盟」(翌年には「日本新聞協会」)が成立し、「国家総動員法」により新聞事業の全てが政府に統制されるようになった。
戦争中は「大本営発表」以外は一切書けない状態となり、物資不足から1944年3月からは夕刊も廃止され、新聞は“死んだ日”となり、新聞社は「新聞兵器工場」と化した。
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