片野勧の衝撃レポート②『太平洋戦争とフクシマ原発事故』-悲劇はなぜ繰り返されるのか
2015/01/01
太平洋戦争とフクシマ原発事故
『悲劇はなぜ繰り返されるのか』
<ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ>②
片野勧(ジャーナリスト)
原子爆弾の完成を急げ
米軍による2発の爆弾は歴史を変えた。広島の「リトルボーイ(ちびっ子)」と長崎の「ファットマン(太っちょ)」――。その蛮行は人類史に刻印されなければならない。一方、大日本帝国も原爆開発を進めていた。
2012年11月24日。私は東日本大震災で事故が起きた東京電力福島第一原子力発電所から南西約60キロの福島県石川町を訪れた。人口約1万8千の小さな町で、第2次大戦中、原爆開発に動員された人がいるというので、その人に会うためである。
日本の原爆研究は1941年4月、陸軍航空技術研究所が理化学研究所(理研)に委託して始まったとされる。責任者の仁科芳雄博士の頭文字をとって「ニ号研究」とコードネームで呼ばれた。このほか、旧海軍が京都帝大に委託して進めた「F研究」もあった。
「原子爆弾の完成を急げ」
1944年7月、マリアナ諸島のサイパン、テニアンがアメリカに占領された。ここは戦略上、重要な拠点だった。なかでもサイパンは重要な航空基地。もし、ここを失えば、日本と南方の資源地帯を結ぶ海上交通路は遮断されてしまう。
それだけではない。アメリカ軍がここの基地を押さえれば、日本本土は容易に爆撃圏内に入ってしまう。軍部はサイパンを失ったことで、原爆開発を急いだ。
昔から石川町は希少な鉱物産地として知られ、今も山間部にペグマタイト(巨晶花こう岩)の白い岩肌があちこちに見られる。陸軍はペグマタイトに含まれるわずかな天然ウランに目をつけ、国内でのウラン確保にわずかな望みをつないだ。
東京から仁科博士の門下生で後に日本化学会会長となる飯盛里安博士が派遣され、1945年春、第8陸軍技術研究所の協力のもと、実験室と工場「理研希元素工業扶桑第806工場」からなる飯盛研究室が稼働を始めた。
鉱石採掘に動員された少年たち
1945年4月から、旧制私立石川中学校(現・学法石川高校)の3年生約150人が原爆の原料となるウラン鉱石の採掘に約4カ月間、動員された。いずれも14、15歳の少年たちだった。婦人会も駆り出され、官民一体となって原爆開発が進められた。
その中の1人、元小学校校長で当時14歳だった有賀究さん(82)は車で現場を案内してくれた。原爆開発資料のある町立歴史民俗資料館から車を西に約5分走らせると、岩肌が削り取られた斜面が見えた。通称・石川山。
「ここで採掘したんです」
周囲には白い石がゴロゴロと落ちていた。当時、ウラン採掘場は6カ所あった。しかし、戦後は農地造成や宅地開発が進み、採掘場の遺構が残っているのは塩ノ平地区だけ。作業当時、あたりははげ山だったが、今は木々が生い茂っている。
有賀さんもわらじ履きでシャベルやツルハシで石を取り出し、もっこで運んだ。爪先を切り、血がにじんだ。朝8時から夕方4時まで毎日、休みなく続いた。それは終戦の8月15日まで続いた。
「放射能を出す石を掘るのに、わらじ履きの作業をさせるとは――」。今、思えばあまりにも無謀だった、と有賀さんは語る。
また自分が掘っている石が何なのか、何に使われるのかも説明されていない。あるとき、陸軍技術将校が見本の石を見せながら話を始めた。
「君たちに掘ってもらいたいのは、希元素を含んでいるこの石だ。この石を原料にして爆弾を製造すれば、マッチ箱1つの大きさで、アメリカの大都市を一瞬にして破壊することができる。日本は必ず勝つ。だから頑張れ」
半信半疑だったが、ツルハシを持つ手に力が入った。しかし、採れる鉱石の種類は豊富だが、量はわずかで原爆が造れる量のウラン鉱石はほとんど採れなかった。原爆を造るにはウラン235が10キロ、必要とされた。そのために天然ウランを約1・5トン、集めなければならない。
さらに天然ウランからウラン235を抽出するためには膨大な設備と資金、先進的技術が必要だったが、それは日本の国力をはるかに超えていた。結局、日本の原爆開発は失敗に終わった。
米国の原爆開発の「マンハッタン計画」に投じた費用は20億ドル(当時の金で20億円)、人員は延べ54万人。これに対し、日本は約1千万円、20人程の科学者。その結果は火を見るより明らかだった。
頓挫した極秘「二号研究」
理研ではすでに原爆研究中止を決定し、陸軍に報告していた。当時、濃縮実験を担当していた理研の研究者、山崎文男は日記にこう記している。
「1945年5月15日、仁科は理研の会議室に部下の研究者を集め、二号研究の中止を決議した」と(『中日新聞』2012/8・16付)。
その1カ月前の4月14日未明、米軍機B29は東京文京区本駒込の理研に爆弾を落とし、熱拡散分離塔のある49号塔を全焼した。東京大空襲は激しさを増し、そして8月6日、広島に原爆が投下された。
それで慌てて石川町に少将ら7、8人がきて「原爆研究の結果はどうか」と質問した。飯盛博士は「全く見込みがない」と言うと、びっくりしてすぐ帰ったという。科学に無知な軍人たちは完全に見通しと判断を誤ったのである。
お国のため、日本の勝利のためと思って尽くしてきたことが、実は原爆開発への協力だった――。有賀さんらは世にも恐ろしい原爆製造への一翼を担っていたのである。有賀さんは植えつけられた国家権力への不信感をいまだに抱えている。
福島を舞台にした「核の悲劇」は2011年3月、福島第1原発事故で再び繰り返された。私は有賀さんに「もし原爆が完成していたら、日本も原爆を使用しただろうか」と問うてみた。
「間違いなく日本も原爆を落としたでしょうね。しかし、できっこなかったし、できなくてよかった。人殺しにかかったら、本当に困ったからね」
勝つためには手段や兵器を選ばない。これが軍人に共通した思想である。私は有賀さんに今回の原発事故についても聞いてみた。
「ついこの間まで原発は絶対安全と言ってきました。でも、事故が起きました。日本は戦争に負けるはずはないと言ってきました。しかし、負けました。国の姿勢は戦中と共通しています。何も変わっていません。同じ悲劇を繰り返しています」
有賀さんの頭の中では戦前も戦後も国の姿勢が重なり合っているのだろう。
ところで、原爆開発計画は軍事機密だった。そのために戦後、多くの証拠が闇に葬られた。その調査は暗礁に乗り上げたこともあったと、有賀さんは言う。
「核の平和利用といわれた原発ですが、制御できなかった。また日本人は原爆を落とされた被害者意識は強いが、日本が原爆を造ろうとしていたことをほとんどの人は知りません。日本人は戦争に至った歴史も学んでいません。今の勇ましいムードは戦前と共通しています。石川の土地が原爆開発の一翼を担った、この事実は闇に葬ってはいけません。次世代の若い人たちに歴史の真実を伝えていかなければなりません」
原爆は交渉可能、原発は制御不能
原爆と原発――。広島・長崎の原爆投下は人間が相手なので、交渉の力で防ぐことはできただろう。しかし、原発は制御不能だ。格納容器がメルトダウンすれば、出てくる放射性物質は半減期が2億4千万年、短くても30年というとんでもない相手で交渉の余地はない。目に見えない制御不能という意味では、原爆より恐ろしい。
技術立国というのはまったくのまやかしで、この国の技術は初歩的なところでメルトダウンしているのではないのか。決定的なメルトダウンは、技術立国を旗印としてきた戦後日本の繁栄はまやかしであったということ。
原発事故をめぐって、そこで起きていることはまるで戦場だ。自衛隊は出動し、米軍も何度も出動した。そして天皇も玉音放送まで行った。大震災から5日後の3月16日、テレビでビデオメッセージを流し、皇居の節電を敢行し、那須御用邸の一部を被災者に開放した。千葉県や茨城県、宮城県、岩手県、福島県などの被災地と避難所を訪問した。
ここで見逃せないのは、危機的状況が生じたとき、米軍や自衛隊、天皇の存在が突出して、政府に対する信頼性が失われたこと。2011年に現れたこの構図を、社会学者の吉見俊哉氏(東大教授)は、「米軍や自衛隊、天皇といった権力や権威に頼った占領期の構図にほかならない」(『3・11に問われて』岩波書店)と語っている。
結局、占領後の60数年間、我々は何をしてきたのだろうか。日本とアメリカの関係は基本的に何も変わっていない。日本社会はアメリカの傘の下で経済的に繁栄したが、ずっとアメリカの占領下にいたのではないのか。
戦後68年間、米軍支配に苦しんできた沖縄を見れば、歴然としている。沖縄への基地負担押しつけは占領意識、植民地意識でしかないのだ。
発掘調査に取り組んだ元女性教師
私は有賀さんに案内されて、「幻の原爆開発」の発掘調査に最初に取り組んだという元女性教師を訪ねた。その人の名は三森たか子さんという。大正10年(1921)12月13日生まれの92歳。
――どういう動機でこの調査を始められたのですか。
「石川で原子力関係の工場があったということを知ったのは『読売新聞』の記事でした。確か昭和42年だったと思います」
昭和42年(1967)8月5日付夕刊に「日本にもあった原爆計画/軍事機密“二号研究”/分離装置は完成したが空襲で万事休す」。
三森さんは町内の中学校で理科と社会科を教えていた。鉱物には興味がなかった。三森さんは東京生まれの東京育ち。東京大空襲で焼け出されて、石川に疎開してきたのが1945年3月。当時、東京・深川で教員をしていた。石川でも教員に採用された。
――鉱山とのかかわりは?
「私は東京の科学博物館で展示されていた石川の鉱物を小さいころからよく見ていました。石川は鉱山の町として有名でしたから。石川に来て、子どもたちが水晶などいろんな石を持ってきて見せてくれました。鉱物を知らないと、子どもたちに教える資格がないと思いました。それで子どもたちに鉱山に連れて行ってもらったのが、石とのかかわりです」
調べていくと、石川町には“幻の原爆開発計画”があったことを知る。選鉱場の斜面に設置した機器に水と鉱石を混ぜて流し、比重の差を利用してウランを抽出していたこともわかった。
本格的に調査に乗り出したのは中学校を退職して、町立歴史民俗資料館に勤めてからである。採掘に動員されていた当時の中学生たちや関係者に当たって聞き取り調査をした。仁科博士の下で原爆開発を研究していた飯盛里安博士にも問い合わせた。それに対して毛筆で回答があった。最後の部分を採録する。
「石川でやっておりました仕事は原子力の基礎になる鉱物即ちウラン・トリウム鉱物の探査並びにその化学処理が主な仕事でした。昭和五十七年九月八日 飯盛里安(数え九十八歳)」
飯盛博士は回答を寄せられた後、入院。同年10月13日に亡くなられた。三森さんの研究成果は小冊子『石川における希元素鉱物研究の歴史と原爆研究』として結実した。
「原発は核の平和利用とか二酸化炭素を出さないと言われますが、使い方を誤れば核兵器と同じです。多くの人を滅ぼす『もろ刃の剣』にもなりかねません」
核エネルギーの平和利用と軍事利用は常に背中合わせ。原発は機械文明が鍛造した両刃の剣と三森さんは言う。しかし、世界唯一の被爆国である我々国民は核アレルギー体質を持っていながら、福島第1原発事故が起こるまで原子力開発についてほとんど何も分かっていなかったといっても過言ではない。原発即原爆であることも。
「絶対勝てる」「絶対安全」神話
福島県石川町で第2次大戦末期、原爆製造を目的にウラン鉱石を採掘していた歴史はあまり知られていない。
ヒロシマ・ナガサキ(原爆)からフクシマ(原発)へ――。原子力の平和利用は可能なのか。必ず勝てると言われながら迎えた敗戦。絶対に安全と言われながら過去最悪の事故を起こした原発。三森さんは言う。
「戦争とエネルギー政策は違いますが、国が推し進めた点では共通しています」
今後、原子力とのかかわりをどうするのか。日本は「絶対勝てる」と「絶対安全」という二つの“神話”の崩壊から何を学ぶのか。今、大きな岐路に立たされている。
片野 勧
1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。近刊は『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。
つづく
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