『Z世代のための日韓国交正常化60年(2025)前史の研究講座①』★『福沢諭吉の義侠心からの「韓国独立支援」はなぜ逆恨みされたか「井上角五郎伝」から読み解く①』
2014/12/13 2015/01/01
<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和18年刊、570P、非売品)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%A7%92%E4%BA%94%E9%83%8E
の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)から、転載する>」
第二章 韓国顧問時代――『大院君の乱』
明治十五年(二十三歳)、慶應義塾を卒業した年の十二月に、先生(井上角五郎)は重大な使命をおびて朝鮮に向かって出発した。
こゝに先生の巨大なる第一歩が踏み出されたので、これから四年間にわたって朝鮮半島文化啓発の大任をつくすと共に、我が大陸進出の先駆戦に従事したのであった。明治維新後、わが国力の発展に伸なって朝鮮との関係が重大問題となってきたことはいうまでもなく、早くも征韓論の激発を見たのであったが、其の後明治九年には日韓修好條約
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F
が成立して、我が国は率先して韓国を独立国として待遇したのである。
しかるに韓国の態度は相かわらず動揺、不安定で、朝鮮半島は日本・清国(中国)・ロシアの勢力角逐の場所となり、かつ、英・米・仏の諸国もまた野心の目標として虎視耽々たる状勢であった。
福沢諭吉はつとに日本の国権を拡張するために、欧米の勢力が支那(中国)及び朝鮮に侵入するのを防止する必要を痛感し、なかんずく焦眉の問題として対朝鮮政策について考察し.たびたび「時事新報」にもその卓見を発表していた。
一方に後藤象二郎伯もまた征韓論を主張して下野した位であるから朝鮮問題には深い関心を持っていたので、両氏は互に意見を交換したが、手紙を以てするときは後日に残るところがあるので、総べて口上を以てし、その口上の取次役は先生(井上角五郎)に命ずるのが定例で、時によると先生は一日の中に数回も両邸の間を往復させられる事があった。
この使番を一年ばかりもやっているうちに、先生もすっかり朝鮮事情に通じ福沢翁、後藤伯の意見、また日本政府の朝鮮に対する方針をも知り、同時に朝鮮に対する関心も次第に高まるに至った。
ちょうどその頃、明治15年年7月に朝鮮に変乱が勃発した。いわゆる、大院君の乱(壬午事変)
であって、端なく先生(井上角五郎)渡韓の機縁となったのである。
<以下は「井上角五郎先生伝」(同伝記刊行編纂会、昭和18年刊、570P、非売品)の『第2章、韓国顧問時代』(31Pより)からの転載>」
1882年(明治十五)二十三歳の井上角五郎は、慶應義塾を卒業して十二月に、重大な使命をおびて朝鮮に向かって出発した。
これから四年間にわたって朝鮮半島の文化啓発の任務をつくすことになった。
明治維新後、最初に修好条約を求めて朝鮮との関係が対立、紛糾して明治6年に征韓論が起きた。そのの後明治九年には日韓修好條約が成立して、わが国は率先して韓国を独立国として待遇した。
ところが、韓国の態度は相かわらず事大主義による動揺、強い方になびく不安定で、朝鮮半島は日本・清国(中国)・ロシアの勢力の三つ巴の騒乱の地となり、またこの他にも、英・米・仏の諸国もまた野心の目標として虎視耽々と狙う状勢であった。
福沢諭吉はつとに日本の国権を拡張するために、欧米の勢力が支那(中国)、朝鮮に侵入するのを防止する必要を痛感し、緊急の問題として対朝鮮政策について考察し.たびたび「時事新報」に卓見を発表していた。
一方に後藤象二郎もまた征韓論を主張して下野した位であるから朝鮮問題には深い関心を持っていたので、両氏は互に意見を交換したが、手紙でするときは後日に残るので、総べて口上で行うことにして、その口上の取次役は井上に命ぜられていた、時によると井上は一日の中に数回も両邸の間を往復させられる事があった。
この使い走りを一年ばかりもやっているうちに、先生もすっかり朝鮮事情に通じ福沢、後藤の意見、また日本政府の朝鮮に対する方針をも知り、同時に朝鮮に対する関心も次第に高まった。
ちょうどその頃、明治15年7月に朝鮮に騒乱が勃発した。いわゆる、大院君の乱(壬午事変)であって、井上角五郎の渡韓はこれが機縁となった。
当時の韓国王は李朝第26代李太王であったが、その国位継承は十八年前の1864年(元治元)で、当時わずか13歳であったから、その生父・李是応が推されて摂政となり、大院君と尊称された。その後、大院君は精悍な性格で鋭意.内治を図るとともに攘夷・鎖国主義に凝り固まっており外敵を撃退し一時は名声が周囲を圧した。
しかし、その一面では種々の失政もある上に、王妃閔氏の族とその党は勢力が次第に強くなって、八方から大院君の施政を妨害した。その内、明治六年には、国王も23歳に達して自ら国政に当たることを望んで大院君の勢力を厭うに至ったので、大院君は自ら病と称して一旦隠居したのであった。
しかし、人民の中には大院君の治政をよく思うものも多く、その翌明治七年には三道の儒生が連合して上奏し、不孝を痛言して国王を諌めるたことがあった。
そこで大院君は再び迎えられて官延に入ったけれども、実権はやは閔氏一族にあって、大院君にはまた昔日の威望なく、欝々として不平の境地にあった。
国王の施政方針は大院君とは反対の進歩主義で、広く海外各国の文明をとり入れて自国の改革を図ろうとしたため、政府部内にも進歩主義者の一団がこれを助け、当時、彼らが陸軍中尉・堀本礼造やその他数人を招いて軍事教練を行い、金玉均・徐光範等の有為の青年を日本に遣はして文物制度を視察させ、大いに国政の改革を図ろうとした。
これらの新政に大院君は固より不平であったが、多年大院君の配下に養成されて来た旧式の兵士の一団も深く大院君を徳とすると共に、これらの新政にはあげて反感を持ち、ことごとに抗争、妨害して、その対立は次第に激化してきた。
たまたま、閔氏の一族の閔謙鎬が兵曹判書(兵部大臣)の職にあって、兵士の食料を私すること(自分のポケットにいれること)数ヶ月に及んだので、明治十五年七月二十三日、兵士は決起して、閔謙鎬の家を囲んで破壊し、閔謙鎬を殺し、さらに大院君に訴えて閔族一党を斬殺する命令を出させた。
大院君はこれを幸いと鎮圧するとの名のもとに密かに指揮して、閔族の巨頭を斃して、多数の廷臣を殺害して、同時にわが堀本中尉以下七名を虐殺し、勢に乗じて日本公使館を襲撃した。
当時の公使館には護衛兵がなかったので弁理公使・花房義質、書記官近藤真鍬らは館員を指揮して力戦7時間に及んだが、朝鮮兵がついに火を放って迫ったので、囲みを突いて仁川に脱出し、済物浦に入り、月尾島に上り英船に救われて漸く虎口を脱し、同月三十日,一行二十人は長崎に着いて東京へ急報した。
わが政府は時を移さず直ちに軍艦数隻を派遣して居留民を保護し同時に陸軍少将高島鞆之助、海軍少将仁礼景範に兵二中隊を率いて護衛にあたらせ、外務卿井上馨は自ら下関に出張して訓令を伝へた。
そこで花房公使は護衛の海陸軍と共に朝鮮に向かい、八月中旬に進んで京城に入り、朝鮮宮廷と談判を開こうとしたが、朝廷は首を左右に託してなかなか決答をしない。
公使が憤然として京城(ソウル)を去り、済物浦に至るに及んで、韓宮廷は初めて全権大臣を遣はして談判をさせ、しばらくして成立したのがいわゆる済物浦条約である。
この条約の要点は①韓国から償金50万円を五年間に支払うこと
②遭難者に弔慰金5万円をおさめる事、
③韓延は大臣を日本に派して謝罪する事などであった。
「清国は壬午事変で日本に報復ため大院君を拉致、連れ去る」
一方、清国は、日本が明治9年にいちはやく朝鮮を独立国と認めて修好條約を締結したのに強く反発し、報復の機会を狙っていたが、今度日本が派兵したと聞くと、時を移さす北洋水師提督・丁汝昌に命じて軍艦数隻を率いて朝鮮に急行して日本を牽制させた。
また、わが花房公使が済物浦へ去った隙間に清国武官・馬建忠が兵を率いて京城(ソウル)に入り、甘言をもって大院君を誘い出して拉致してしまった。
同時に朝鮮宮廷を護衛すると称して清兵を京城の諸門に配置し、朝鮮の内政を干渉する端緒を開いた。これが日清両国が朝鮮で衝突した初めである。
明治9年十月に朝鮮から修信使という名目で謝罪使が来た。一行は正使朴泳孝・副使金晩植、従事官徐光範、外に視察の名義で閔泳翊、金玉均が同行した。
日本政府は朝鮮を独立国と認めているから、使節の待遇も丁重をきわめて一行は日本の態度を信頼した。井上外務脚は一行のために朝鮮政府の借款を斡旋して、横浜正金銀行から17万円貸与させた。この金は日本へ支払うべき賠償の一部と謝罪使一行の帰国の費用とにあて、残余は朝鮮の教育事業に充てるとことにしたのである。
朝鮮開国党(独立党)を物心両面で援助した福沢
この一行の使命はもとより謝罪にあったけれども、同時にまた東洋の先覚者たる福澤翁にあって、親しく指導を受けるというのがその裏面の大きな目的であった。既に一行中の金玉均・徐光範の2人は以前に来朝して福沢翁の意見を聞いた事があり、朴泳孝、閔泳翊の両氏もかってその指導を受けるために来朝を計画したぐらいであったから、一行は到着早々相率いて福沢邸を訪ねて、朝鮮の前途についていろいろ意見を聞いていたのであった。
ところで十七万円の借款がいよいよ成立したので、更に福沢翁を訪れて朝鮮の教育事業について指導を請うたのである。
福沢翁はかって金玉均等に世界の形勢を説いて自覚を促していたが、この時、実行間題として一行に勧めた事は、
- 第一は朝鮮から青年を多く日本に留学させる事であり、
- 第二は京城で新聞紙を発行する事であった。
留学生については先年、朴定陽が来訪した時にも勧めた事で、その時に来たのが愈吉濬ら二、三名であったが、今度の勧めによっては後に徐載粥ら数十名が来て慶底義塾や士官学校に入学したのである。
福沢翁は先づこの二つを実行することを勧めたけれども、一行中にはこの外に軍事調練をも行いたいと望む者があった。福沢翁はこの一事についてはあまり賛成しなかったが、一行の希望によって、これも実行する事となった。そこで翁の推薦で牛場卓蔵、高橋正信の2人は学事について、松尾三代太郎、原田一
の両人は軍事について朝鮮政府に招かれる事となって、新聞機械、漢字活字等を準備し、職工監督をも雇い入れた。
さて、準備万端調って、牛場らの出発も漸く切迫する頃になって、福沢翁は初めて井上に、
「後藤伯が居られたなら、相談してお前にも行ってもらうのに。」
と言った。当時、後藤伯は洋行中であったのである。先生は雄心勃々、何としても行きたいと思っていた矢先であったから、直ちに高輪の後藤伯爵邸に駆けつけて夫人にそのことを話した。
伯爵夫人は時を移さす福沢邸を訪ね、旅費その他の要用は両家で分担して、見学という名義で井上を同行きせる事に話がまとまった。
この年十二月、出発に臨んで福沢翁はあたかも愛児に対するが如く井上に懇切に訓戒した。井上が朝鮮在留中はいうまでもなく、後年に至るまでも一生にわたって反復回想していた言葉である。今、井上の手記に依って記録する。これによって福沢翁の朝鮮経営策の要旨を知る事が出来る。
『井上角五郎にあたえた訓戒と朝鮮経営策』
「① 先づ朝鮮では食い物、飲み物に注意せよ。何となく自分の子供を手離すやう気がする。くれぐれも健康第一を忘れてはならぬ。
➁この際に特に記憶してもらわねばならぬ事がある。お前は井上角五郎である。よいか。それを記憶しておらねばならぬ。またお前は日本人である。
如何なる事柄にあっても日本人井上角五郎が自分であることを断じて忘却してはならぬ。これは我カの常に心掛けて居なければならぬ所であるけれども、外国に赴くにあたって最も大切な事である。
- 僕は朝鮮をして完全に独立させたいと思う。たとえ、独立し得るとも、あるいはできなくても、とにかく日本以外の国々をして断じて朝鮮に手を出さしせる訳には行かぬ。日本が独りこれに当るのが日本の権利あってその義務である。
- 世界の大勢はいかに動いているか、前途は極めて予測しがたいけれども、東西南洋が漸く接近すると共に、次第に衝突の機会を増す事は何としても否認しがたい。
- この頃 清国(中国)は結局、欧米に分割されるという議論を聞くことが多い。たとえ土地が直ちに分割されぬとしても、ついには四分五裂し、そのいずれも欧米の勢力範囲となるのは当然の成り行きと覚悟しておらねばならぬ。
- われわれこの場合においてなお退いて一小孤島を守って我慢が出来るであろうか。もし進んで足を大陸に掛け、欧米各国の勢力を駆逐する考えを持たなかったなら、小孤島すらその狩立を脅かされるかも知れぬ。
-
支那も朝鮮も共に協力一致して西欧の侵攻の勢いを防ぐべきである。しかし、少くとも朝鮮をわが勢力範囲の下に置いて緊密に提携し、万一にも支那と同一の運命に陥らしめるようなことがあってはならぬ。
- これがために、武力は最も必要である。しかし武力の事はこれを当局に任せるとして、文力もまた大いに必要である。朝鮮人が文明の知識を養い、生活の安定を得るようにならない限りは、到底、完全な提携はできぬ。
- その文力に至っては、われわれ日本人が人道の上よりやらねばならぬ義務であって、諭吉はこれを率先、主張するのが天職を有するものと信じる。
- われわれ後藤伯と相談したことはお前はほぼ承知している筈である。
故に打ち開けて話すのだが、よくこれらの事柄を記憶しおいて、さて先方に往ったなら差向き朝鮮の風土・人情・経済・政治、何でも彼でも調査研究して他日に役立っ人間となってもらいたい。」(「福沢先生の朝鮮御経営と現代朝鮮の文化について」)
と、懇々と諭された後、夫人を呼んで共に井上の服装、その他の支度の事を語り「井上は今度は死ぬかも知れないから、よく気を付けてやるがよい。」と云い、半切を展べて、「自国自身唯莫忘」と大書し一振の日本刀を添えて餞別として井上に授けた。
つづく
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Comment
福沢諭吉は時局の判断としては政府の人物ではないので、誤っっているのも少なくない。それにも増して
民主主義や普遍性など、日本や日本人が学ばねばならない多くのことを指摘した。
昔、福沢についてそんなことを聞いた覚えがあります。
前坂さんの眼力には日ごろ感服しています。中村君と時々会い、懐かしく貴君や故
神谷君の思い出を語っています。体調が良くなったら「駄弁る会」を開きたいですね。