日本リーダーパワー史 (26) 中国革命の生みの親・アジア革命浪人の宮崎滔天はすごいよ③
日本リーダーパワー史 (26)
中国・アジアの革命をめざした宮崎滔天に今こそ学べ③
前坂 俊之
・中国革命の参謀本部の役割
しかし、中国革命の気運はうねりのように高まってきた。帰国した留学生たちは、「華興会」(黄興、宋教仁ら湖北・湖南省出身者を中心にした団体)「光復会」(察元培、秋理らは漸江・江蘇省出身者を中心の団体)など中国各地に革命団体や革命結社を結成していった。
亡命して日本に逃げてきたこうした革命家リーダーの黄興、宋教仁、章柄麟らが滔天の家に足しげく訪ねてきた。いわば滔天の家が中国革命家の溜まり場となり、中国革命の参謀本部の役割を果たすようになっていった。
こうした中国からの亡命革命家や帰国した留学生たちは自国では横の連絡は全くなかったが、滔天の家で孫文を頂点にいろんなメンバーが出会い、そうした連中を滔天が庇護し、指導し大同団結させることになった。中国革命をめざす諸連合を統一させる、いわば仲人役,産婆役を果たしたのであった。・黄興との出会い
滔天は当時、浪花節語りになっていたが、中国革命への貢献に敬意を表するため楽屋へ訪ねてきた黄興を知っていた。滔天が黄興という偉い人がいるというと、孫文は「これからその人を訪ねよう」といい、滔天が連れてくるといっても「そんな面倒は要らぬ。これから二人で行こう」と神楽坂付近の黄輿の止宿先に出向いた。滔天が表から「黄さん」と声を掛けると、黄興と、当時そこに同宿していた滔天の友人の末永節が顔を出す。
ほかにも学生たちも集まっていたので、当局の要注意人物の孫文を家に上げるのはやめて、近くの中華料理店(鳳楽園) へ孫、黄、滔天、末永、黄興側近の張継の五人で出かけた。「彼らは初対面の挨拶もそこそこに、すでに旧知のごとく、天下革命の大問題を話し始める。僕ら(滔天と末永)は、中国語を十分理解する力がないのでそばで酒を飲んでいると、孫文と黄興は二時間ほど酒にも料理にも口を付けずに議論していたが、ついに話がまとまり、祝杯を挙げた」。
・「中国同盟会」の創立総会が開かれた
席上、孫文と黄興はすっかり意気投合、興中会と華興会を母体に他の革命団体をもまじえた統一的な組織、中国同盟会をつくることに同意した。
八月二十日、東京赤坂の政治家・坂本金弥宅で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して「中国同盟会」の創立総会が開かれた。
孫文の、民族、民権、民生の三大主義(三民主義)の綱領が採択され、孫文が総理、黄興は副総理格の庶務幹事となり、中国革命の母体が誕生した。三民主義とは①資本抑制(資本主義の弊害を防ぐ)②耕者有其田(土地革命)③耕すものに土地をーである。
ここに中国史上初めて統一的な組織と近代的な革命理論を持つブルジョア革命政党が生まれた。「この日、私ははじめて革命は生涯のうちに成就すると信じた」と孫文は回想する。
メンバーは当初三百人であったが、たちどころに五千人を突破して名実ともに孫文が中国革命の指導者になった。同盟会の機関誌『二十世紀之支那』が発行されることになり、発行人に宮崎滔天、印刷人に末永節がなる。
・革命への火の手が中国全土にあがる、辛亥革命が勃発
このメンバーによって革命への火の手が中国・広東、廉州、広州などで次々に起こされる。この弾薬、武器の調達にも滔天は一家を挙げて全面的に協力した。
一九一一年(明治四十四)十月十日、辛亥革命が勃発する。孫文の広東蜂起から十六年、失敗の連続で約二十回、清軍に敗れ続けた革命蜂起がついに成功した。
アメリカに亡命していた孫文は急きよ帰国し、中華民国臨時大総統に就任し、革命の基礎がここに築かれた。滔天の「革命の夢二十五年」はついに成就したのである。
この就任式に文なしの滔天は近所の出入り業者のカンパによって出席した。
革命臨時政府は基盤が弱体な革命グループだけで、北方軍閥の袁世凱(えんせいがい)と妥協せざるを得なかった。孫文は四カ月で辞任し、衰世凱が正式に大総統に就任し、南北両政府の対立が激化する。
中国同盟会は国民党に改組されるが、日本政府は衰世凱の北京政府を支持、南京の孫文は苦境に陥る。
・日本政府が孫文の入国を認めない。
袁世凱(えんせいがい)は臨時政府大総統になると、孫文らの南京勢力の壊滅にかかり、孫文や黄興が第二革命の蜂起をする。革命軍はあえなく敗退し、孫文も黄興もまた日本へ亡命、一年前は国賓だったが、今度は日本政府が孫文の入国を認めない。滔天は窮地にたった孫文を、頭山満、犬養木堂(毅)、松方幸次郎(川崎造船所社長)らと協力して救い、亡命を日本政府に圧力をかけて承諾させた。
孫文らの第三革命が成功し、各地で革命軍が蜂起し袁軍の離反もあいついで、袁世凱は八十三日で退位に追い込まれる。
その後、日本は大隈内閣当時に対中二十一力条の要求などを突きつけて強硬路線をとり、中国は内戦状態に入っていくが、滔天の孫文への支持は終生変わることがなかった。
・「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と断る
孫文と争っていた衰世凱から、長年の滔天の中国革命への貢献に報いるため、「米の輸出権の一部を与える」との電報がきたことがあり、「うん」と言えば膨大な利権が入ってくるはずであった。しかし、滔天は即座に「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と断ってしまった。
一九二二年(大正十一)十二月に滔天が五三歳で病死すると、翌年一月に孫文が主催する宮崎滔天追悼大会が上海で開かれ、孫文以下国民党の首脳が残らず名を連ねた。「日本の大改革家、中国革命に絶大の功績」と最大級の賛辞が続いた。官職にもつかない外国の一介の浪人に対するものとしては、全く異例であった。
・滔天は最後まで純粋に心から支援した
吉野作造は中国革命の支援者には二つのタイプがあり、不純な動機の持ち主、大陸浪人も数多くいたが、滔天は終始一貫、最初から最後まで純粋に心から支援した数少ない真の支援者であった、と賞賛している。
一九二五年三月(大正一四)、孫文も辛亥革命成立一四年後に、六十歳でガンで亡くなった。国父と敬慕された孫文は、南京の中山陵に丁重にまつられている。
最後の言葉は、「革命尚未成功(革命はなおいまだ成功せず)、同志仍須努力(同志なおすべからく努力すべし)」
(おわり)
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