『リーダーシップの日本近現代史』(48)記事再録/『明治天皇のリーダーシップ①』 大津事件で対ロシアの重大危機・国難を未然に防いだ 明治天皇のインテリジェンスとスピーディーな決断力に学ぶ(上)
2011-10-05 /日本リーダーパワー史(196)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<2011-10-05 執筆>
今回の3・11以来、戦争、大災害、国難ともいうべき大事件に対して、それを未然に防いだり、見事に解決したリーダーシップの事例を現代史の中で探していて、1つの問題につきあたった。
関東大震災についての復興、再建のリーダーシップについて、インターネットで、関東大震災、復興、リーダーシップなどで、検索しても、探している情報はほとんど出てこない。ネットでも、図書館所蔵の本のタイトルでも、関東大震災による朝鮮人虐殺の資料は山ほど見つかるが(ある図書館では全体の3分の2がこの手の本であった)肝心の震災復興に関する情報はあまりにも少ないことに驚いた。
関東大震災という未曽有の災害についての研究の視点も朝鮮人虐殺の1点に集中していて、歴史研究の一種の歪みを感じたのである。
これは日本の歴史研究に共通した問題で、戦争ならば日本軍の虐殺がクローズアップされていたり、日露戦争では日本側の勝利の日本海海戦ばかりが強調されて、東郷平八郎が神様と祭り上げられてしまう構造と同じである。全体的な視点、戦略的に分析した視点、考察をする研究が余りに少ないのが実情だ。
たとえば、今回のケーススタディーの今から120年の大津事件といえば、児島惟謙大審院長による「司法権の独立」が守られたことに集中して、本が出されているが、大津事件の処理は1つ間違えば日露戦争に発展してもおかしくない明治時代では最大の国難だったのである。
1891年(明治24)5月、ニコライロシア皇太子(その後のニコライ2世、日露戦争当時のロシア皇帝)が警備の巡査におそわれ負傷した大津事件の第一報が伝わった時、日本政府も驚天動地で右往左往し、全国民もロシア側の報復を恐れてスワ、一大事!戦争か、と震えあがった、世界の人々もこのままで落着するとは思わず、緊張して見守った。ロシアの官民上下も驚愕し、憤慨したことはいうまでもなかった。
1914年(大正3)6月28日、サラエボで、オーストリアの皇太子が暗殺された事件が導火線となって第1次世界大戦争がひき起されたような事態が、大津事件で起きても全く不思議でなかったのだ。
しかも、ちょうどこのとき、ロシアの外交政策が変転し、フランスの援助の下にアジア侵略の計画が出来上った時である。あの強硬ロシアがこの事件を外交政策に利用するのではないか、とすべての人が怖れた。
日本の外交史上で、このときほど危険な時はなかった。まさに国家の一大危機の危機に見舞われた。今回の3・11と全く同じ、想定外の未曽有の大事件であった。日本は日清戦争前のこととて、軍備はまだ不十分で、陸軍はともかく、海軍力は全く未整備で、何人も大ロシアに抗し得るとは思っていなかった。
この日本の自ら招いた国難に日本の最高指導者、リーダーたちはどう対応し、ピンチを切り抜けたのかー以前から関心をもって探してきたが、最近、渡辺幾治郎著「明治天皇(上下)」(宗高書房 昭和33年刊)を入手し、読んで知ることができた。
やはり明治のリーダーたちは①そのスピード②決断力、実行力③情報・コミュニケーション力でずば抜けている。震災後半年経っても、小田原評定をのんびり続けて、国民も敗戦ムードの現在の野田内閣はもちろん、この20年間の日本の政治リーダーシップの惨状と敗北と、万死に値する無責任と見るにつけ、もう一度「坂の上の雲」明治の国づくり、リーダー作りを1から学ぶ必要がある。
日本歴史上の最大の国難、今後ますます被害が出る事故の収束が見えない状況の中で、何と管直人前首相がお遍路さんとなって、のほほんと旅に出ている。なぜ、被災住民のところを巡礼しないのか。
管の意識の中ではサラリーマン・総理大臣がリタイアして、一息ついた感じなのである。そして、個人の趣味の世界に帰る。生涯政治家、国、国民、世界の運命を考えているのではない。政治家の高給だけはいただいている税金泥棒の1味にすぎない。田中正造が政治家で足尾銅山事件を徹底追求し、やめてからは廃村になった谷中村に入り被災村で最後まで戦って、死に場所に選んだも不屈の精神も言行一致もない、ただのボンクラである。
一方、この20年の国政混乱の渦中の政治家・小沢一郎が国民、世界の前で堂々と政治潔白なり、世界観、政治理念をかあるのではなく、裁判を批判し、政治のリーダシップを無責任に批判、自己弁明し、自分の言い分が全部流れるのでインターネット放送で流したとテレビで報じられていた。2人とも日本の最高リーダーであるという自覚も、責任感も感じられない姿にあきれ返る以上に憤り覚える。
また、こうした亡国の政治家のやりたい放題を批判もせず、唯々諾々と放送しているテレビと新聞とは一体ジャーナリズムと言えるのか。
さて、国の運命は一体どうなるのか、それを予想し、あやまた方向に進むのに対して待ったをかけるのがジャーナリズムの役割である。
以下で、渡辺幾治郎著「明治天皇(上)」(37-47P)の明治天皇と大津事件の概要を紹介する。
幕末以来、ロシアはわが国にとって恐怖の的だった。国民はただその名を聞いただけでおそれた、この恐怖は、ロシアが外交政策を変更し、地中海及びインド洋に不凍港を求めるのをやめて太平洋にこれを求めて、シベリア鉄道をウラジオストックに延長する計画を発表した時に、その絶頂に達した。これは明治24年3月である。
ロシア皇太子ニコライが日本にきたのはこの2ヵ月後であった。国民は異常の関心を以てその来朝を迎えた。
ニコライ皇太子は、この時に22才、明治23年12月、首都のガヂナ皇宮を出でて、皇太子付デウィッチ大将、地理学者ザオイコフらを伴い、エジプト・インドシナを経て、来朝、長崎についたのは24年5月4日。長崎には威仁親王が陸軍中将川上操六以下の接伴委員を率いて出張し、待ち受けていた。皇太子は、悠々として6日には鹿児島を回った。
外人嫌いな旧蒲主公爵島津忠義も、奉迎に手落ちがあっては申訳がないと、歓迎準備に怠りなく、特に宮内省から式部官長崎省吾を伴ない、歓迎準備の指揮を託した。
歓迎式典は日本料理をもつ七盛宴を設け、膳具から料理一切旧藩の古式にのっとり、士族の娘数十人が選ばれて接客の任にあたった。髪は御殿結で、下には白無垢をつけ、上に刺繍の紋服をつけた。全く旧薄全盛時の賀宴で皇太子は非常な満足であった、といわれる。
国民的大歓迎のうちに、皇太子は海路神戸に入り、京都常盤ホテルに投宿した。明治天皇に先ず敬意を表すという国際儀礼もとらず、各地を漫遊し、途次東京に向かっていた。まず近畿を観光し、京都から大津に遊び、琵琶湖に訪れたのは5月12日。この日の午後2時半に分余、大津京町筋下唐崎で警備の巡査津田三蔵に斬りつけられるつけられる一大事件がひき起された。
皇太子は直ちに随行医師の応急手当を受け、京都の常盤ホテルに帰ったが、日本医師の診察、治療はすべて退け・神戸に停泊中のロシア軍艦の軍医を呼び手当受けたが、傷は頸部に数カ所あったが、何れも軽傷で、治療経過は良好、脈捧・体温等も平常だった。
大津事件が伝わると、国内はひつくりかえるような騒ぎとなった。明治天皇は直ちに、総理大臣松方正義・内務大臣西郷従道・外務大臣青木周蔵・元老伊藤博毒を招集し、緊急対策を講じた。まず北白川官能久親王を大津に急行させ、各界の権威の侍医局長池田謙斎・海軍軍医総監高木兼寛・陸軍軍医総監橋本綱常・医料大学雇教師スクリッパーを京都に急行させた。宮内官の奏請を待たないで、明治天皇みずから「明日(13日)午前6時30分に京都への行幸する」と宣言した。
ニコライ皇太子には親電を発して慰問し、ロシ皇帝アレキサンドル3世にも親電を以て皇太子の負傷を連絡し、痛惜悲嘆の意を表した。また皇后もロシア皇后マリーにこのことを報じ悲款の意を表わされた。こうした皇室の迅速な処置は、大いにロシア皇室の意を和げた。
この日午後9時、内閣総理大臣松方正義を御前に召して、次の勅語を出した。
「今次朕力敬愛スル露国皇太子殿下来遊セラル、ニ付朕及朕か政府及臣民ハ国賓ノ大礼ヲ以テ歓迎セントスルニ際シ、図ラサリキ途、大津ニ於テ難ニ遭ハセラル、ノ書報ニ接シタルハ殊ニ朕力痛惜ニ勝へサル所ナリ、暴行者ヲ処罰シ、善隣ノ好誼ヲ毀傷スルコトナク以テ朕力意ヲ休セシメヨ」
翌12日午前6時30分、新橋駅御発車、宮内大臣・侍従長等が供奉したが、特に近衛騎兵の供奉を止めて、出発した。
伊藤博文・枢密顧問官、黒田清隆等は引続いて供奉外で出発した。午後9時10分、京都七条停車場に到着。ロシア公使シエビイツチは、皇太子御名代として奉迎した。天皇は、停車場楼上に引いて謁見せられ、皇太子御見舞のため行幸した旨を告げた。
その夜旅館に行幸、皇太子を慰問する予定であったが、公使は深夜の御訪問は皇太子の病気によろしくないと辞したので、明日訪問の旨を告げて、京都御所に入られた。
翌5月13日午前10時50分、天皇は常盤ホテルにニコライ皇太子を訪問された。天皇は皇太子をいんぎんに慰問された。
「殿下、今回、遥かに朕が国に御来遊せられたに就いては、朕は国家の大賓として殿下を御迎え申すは勿論・都都到る処、それぞれ準備をして出来るだけの好意を表したいと存じていた。朕は頻りに殿下の御入京を御待ちしていた
に、はからずも、一昨日大津において、不慮の難にあららせられたことは、朕の深く遺憾とする所である、殿下の御両親の御心痛のさまが想像される、この暴行人は、国法に由り、処罰せしむることは当然であるが、その罪憎みても尚余りあることである。
朕は親しく御見舞の意を表するがために昨朝、早々に東京を発し、昨夜到著したが、夜中の御尋ねは、却て殿下の御障にならんと存じて今日御尋ねした次第である、どうか、殿下には充分の御療養を加へ、速か、に平癒して、東京その他の都市、山水を遍ねく遊覧せられんことを朕は深く願っている」
この優しい言葉で、皇太子はすっかり感激した。
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