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日本リーダーパワー史(43)水野広徳による『秋山真之』への追悼文(上)

   

 
噫(ああ)、秋山海軍中将(上)
            水野広徳著『中公公論』大正7年3月号掲載
 
 
この水野の文章は秋山真之が大正7年2月に51歳で亡くなった時に、水野が書いた追悼文である。水野広徳は幼時、秋山の家に奇食したいたことがあり、縁戚に当たる。
水野は秋山にあこがれ海軍軍人となり、日本海海戦で『此の一戦』を書いた大正、昭和戦前期の軍事評論の第一人者である。「秋山真之伝」(昭和18年)も監修している。本文は粟屋憲太郎、前坂俊之、南海放送が監修した「水野広徳全集第7巻」に掲載した1文を「坂の上の雲」の視聴者のための参考にここに転載しました。
 
 
大正七年二月四日、帝国海軍の巨材秋山真之中将、病を以て小田原に逝く。中将、年を享くること僅かに五十一。
男子五十は働き盛りなり。中将萬英の天資愈練れて、思慮円熟、経験蓄積、理情並び展びて、将に大に活躍せんとするの時、不幸にして天寿を仮さず、満腔の経論、遠大の抱負、尚は末だ施すに至らずして、雄魂空しく幽境に去る。欧州の大戦末だ局を結ばず、世界の変勢容易に逆暗すべからず、帝国の前途将に益多事ならんとするの秋、一朝忽として此の有為の材を失ふ。
独り我が海軍の損失のみにあらず、亦実に国家の大損害と謂ふべし。宜なり、中将の訃一たび伝へらるゝや、挙国痛惜、不識の少年尚は書を寄せて弔意を表す。
 
僕中将と同郷の後輩として其の脊顧に浴す、哀痛の情更に切なるものあり。いささか故中将の平生に就きて聞知する処を述べんと欲す。記事中素より他人よりの又聞くもあり、又々閲もあり。左れど忽忙の際。一々訊すの暇なく、唯記憶のまゝに筆を執る。
 
 中将は伊予松山の人にして、軍事参議官陸軍大将・秋山好古将軍の末弟である。中将は僕より数歳の年長たると、且つ相互の住居、梢や距りたるが為め、其の少年時代に関しては多く知る処がない。唯僕幼時、中将の親戚の家に寄食したる関係上、同家の従兄弟が中将の画きたる紙鳶絵を貰ひ来たるを見て、秋山順サン (中将の幼名順之丞)と云ふ絵の上手な人がありし事を知れるのみである。
其の後中将は上京せられしことを聞きしも、其の果して何年頃でありしかを記憶しない。多分郷里の中学校が県政の犠牲となって閉校されし頃ならんと想像する。当時僕の県には三個の中学校がありしも、如何なる理由か、県会の決議を以て、全部一時に廃校して仕舞った。
之が為め郷里の青少年は忽ち就学の途を失ひ、貧乏士族の子弟の如きは、他郷に遊学するには資力なく、或は家職を手伝ひ、或は官街に奉職する等、四離五散の悲境に陥り、為めに一生の方針を誤まったものが少なくない。恐らく中将も此の離散党の一人でありしならんと思ふ。是に於て郷党の先輩達、之を憂ひ、松山の子弟中遊学の資力なく、且つ人物優秀なるものを選んで、旧藩主より学資を給し、東京に於て修学せしむることゝした。
 
中将も其の一人として故正岡子規、現大蔵大臣勝田主計などの諸氏と相前後して出京し、大学予備門とかに入られたと云ふことである。当時中将の志望は軍人でなく、学者若くは政治家に在りしものゝ如く、子規居士などゝ盛に文を談じ俳句などをひねくられたそうである。
左れば兄好古将軍が中将に勧めて、海軍を志願せしめた時には、大分不服を唱へられたそうであるが、一たび意を決して兵学校に入るや、運命を大観し職務に忠実なる中将は、熱心なる海軍主義者となり、親戚の青年などに対して大に海軍熱を鼓吹されたと云ふことである。
 
斯くて海軍兵学校に於ける蛍雪四年を経て、明治廿三年首席の栄誉を担ふて江田島の学校を卒業せられた。他日、日露の大戦に東郷司令長官の帷幄に参し、神策鬼謀を運らして露国艦隊を全滅したる当時の秋山中佐は、七ツ釦に短剣姿の可憐の候補生として、此の時初めて海上の人となったのである。
 
惟ふに中将は我が江田島兵学校の生みたる最も偉大なる人物の一人であらう。
 僕が初めて中将に会ったのは、否な中将を見たのは、中将が尚は兵学校在学時代である。或る冬学校の休暇にて帰省せられたる中将は、僕の寄寓せる親戚の家へ正月礼に来られた。
 
当時僕等の郷里は未だ文明の恩恵に浴せず、巡査の姿を見てさへ犬が吠へ付く程、洋服なるものは珍らしかった。されば其の頃、金釦美しき兵学校の制服を著したる中将の勇ましき姿は、末だ海軍の何たるを知らざりし僕等の小さき心をして、憧憬と羨望とに躍らしめたものである。
 
中将が帰られた後で、伯父と伯母とが「腕白者の順サンも暫らく見ない間に立派な方になられた」と感心しっゝ話されるを聞き、小供心にも何となく偉い人であると感じた。
次に之も中将が尚は兵学校生徒時代の出来事である。元来僕等の郷里は神伝流水泳術の本家として、旧藩以来水泳は非常に隆盛であった。維新後も尚は其の道を継承して、毎年夏期には御園地と呼ぶ旧藩時代の水泳場に道場を開き、六七歳より二十歳位までの青少年は顔も体も墨の如く黒焼にして、南海の暑き夏の半日を此処に泳ぎ暮らすを普通とした。
 
場の規約としては、稽古時間中は会員以外の者の無断遊泳を禁ずること、水泳中は必ず六尺禅を締めることの二個条で、違反者は情実なしに泥水制裁を加へたものである。
然る処或る日連隊の兵士が両三名来りて無断遊泳を為さんとした。兵士たる点に敬意を表し、取締の先輩が場の規約を彼等に説示したるも兵士等は頑として応せず、傲然として水泳を始め、無禅絶対禁の水泳場に赤裸の醜体を筏の上に暴露した。
 
左れど当時の兵士は頗る粗暴なりしが為め、何人も彼等に対して手を下すものなく、唯徒らに憤慨切歯するのみであった。偶々夏期休暇にて帰省中なりし中将来り、之を見て大に怒り、直に衣を脱して水中に飛び入り、倣慢なる兵士達を殴ぐり付け遂に彼等を追ひ帰へした。以来、秋山順サンの勇名郷党の少年間に轟き、三十余年を経たる今日尚は僕等仲間の語り草に残って居る。蛇は寸にして人を呑むとか、中将の胆勇は此の時既に傍輩を抜いて居たのである。
 
 兵学校在学中の中将に関しては、同窓者の語る処区々にして定まらず。或は平凡にして何等特異の点を見ざりしと言ひ、或は既に栴檀の香ありたりと言ふ。唯其の負け嫌ひにして勝たずんば止まらざるの気概は、各種の競技運動の間に現はれたるは衆説の一致する処である。
 
殊に其の頭脳の明哲なりしは、机を噛って点取勉強に浮身をやつさずして、尚は克く首席をたちまち得たるに微しても明らかである。
 兵学校卒業後少尉候補生より少尉となり、明治二十七八年の日清戦争を経て、明治三十年大尉を以て米国留学を命ぜらるゝまでは、中将の準備時代にして、鳳児未だ羽翼成らず、唯俊秀なる一個の青年将校として多少先輩に着目せられたるに過ぎなかった。
而かも夫とても豪放磊落にして細節小礼に拘泥せざる中将の性格は、一部の先輩には寧ろ横着物として、あまり持てなかったと云ふことである。
 
米国留学は中将をして他日の名提督たる運命を開拓せしむる上に於て無上の好機会たりしのみならず、延いて帝国海軍の為めにも至大の幸福であった。中将の在米中偶、米西戦争起り、中将は帝国海軍唯一の観戦武官として、米国軍艦に乗り組み、サンジヤゴの封鎖、同港中の海戦に従ひ、親しく近世海軍の戦争を視察する事が出来た。中将は又当時世界海軍学者の権威として令名高かりし、故マハン大佐に就きて海軍に関する諸般の研錆を究め、学理と実地と併せ修めて、天資の俊敏安に益精英を加へたのである。
 
中将が米国より我が海軍当局者に寄せたる各種の意見、建策の如きは、其の識見の高邁なる卓達なる、其の文章の雄偉流麗なる、今日より之を見るも堂々として海軍経略の大文章と謂ふべし。
到底、白面一大尉の筆に成れるものとは思はれぬとの評である。日露戦争に天縦覆地の鬼略を振ひたる中将の脳力と手腕とは、多く此の間に練られ且つ鍛はれたのである。
 
 三年の米国留学を終はりたる中将は、帰途欧州を巡遊して明治三十二年帰朝せられた。其後或は艦隊の参謀となり、或は海軍大学校の教官となり、常に枢要の職に在って着々自己の抱負を実行せられた。
殊に大学校に在っては米西戦争の実験と研究とに基き、之に日本の史実と国情とを加味し、戦略、戦術、其他各種の兵学に根本的改正を施こし、義に帝国海軍の兵学に秋山式なる一新紀元を開かれた。
 
由来、帝国海軍多士済々兵学兵術に長じたる人少なしとせなかった。併し今日我が海軍大学に、科学を経とし、史実を緯とし、組織あり統一ある兵学の講義を見るに至りたるは実に中将の賜と云ふべきである。
 
 左れど中将は机上徒らに兵を談ずる超括でなく、弾下克く等を遅らす孔明であった。日露戦争は実に帝国安危の岐る、分水嶺たりしと同時に、中将の器略と才能とを実地に試むべき大試験であった。
 
回顧すれば既に十余年の昔、日露の風雲漸く急を告げたる明治二十六年の暮、当時海軍大学校教官の職に在りたる中将は、特に東郷司令長官より望まれて其の先任参謀と為り、精悍の短躯を再び旗艦の艦上に現はすに至った。
上に偉大なる東郷長官あり、中に賢明なる島村参謀長ありとは云へ、連合艦隊作戦計画の真中心点たる先任参謀としての任務は、尚は少佐たりし中将に取りては誠に過大の負荷であったらうと思はれる。
 
                                                                                           (つづく)
 
 
 
 
 
 

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