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日本リーダーパワー史(91)日露戦争でサハリン攻撃を主張した長岡外史・児玉源太郎,「ないない参謀本部」のリーダーシップの実態

      2015/01/02

日本リーダーパワー史(91)
日露戦争でサハリン攻撃を主張した長岡外史・児玉源太郎
<日露戦争の真実・「ないない参謀本部」のリーダーシップの実態>
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
前回は田中義一のロシア行の話を書いたので、今回は日露戦争の終番の唯一のロシア領の占領であったサハリン攻撃の内幕を紹介する。
 
そのためには、日露戦争が開始になってからの参謀本部の序列に触れておかなければ、戦争の指揮系統は理解できない。
 
日清戦争のあと、日本はロシアと早晩対決せざるを得ないだろうことは、軍首脳の頭の中にすでにあった。それは遼東半島を還付することが決まった日からである。三五年四月少将田村怡与造が、対ロ作戦計画を樹立すべく参謀次長となった。総長は大山巌である。それも束の間、3610月病魔の冒すところとなり、五〇歳で死んだ。
大山は、自分は総長を辞めたいとして、山県に新総長を希望したが山県の意が得られず、それでは乃木希典を起用してはと提唱した。寺内陸相が書いた山県への書翰の中には、乃木の総長就任は「難しいと存ぜられます」といっている。
 大山は辞めたい。山県はいやだという。このまま決定せずにいれば大事になると考えた児玉は、
「フム、そういうことになっているのか。それじゃ我輩がガマ(大山元帥のニックネーム)のために次長になってもよいネ」といった。
 
内務大臣兼文部大臣の児玉源太郎が参謀次長になることは、親任官から勅任に2階級降ることになる。それでは内閣のゆるぎになるとして桂としても即決できず、山県に相談してくれと言った。
児玉は「そういうことは現今の非常時に問題なかろう。我輩を直ちに次長に推すことに手続を取ってくれヨ」
と即決した。「児玉をおいて人なし」ということで山県も了承、大山も32年5月以来座ってきた参謀総長を、さらに続けることになった。
 
その児玉は開戦後は満州総司令部が編成され、大山と共に満州軍総参謀長として、満州の最前線に出て行った。あとの山県参謀総長の下で、おもり役の参謀次長には児玉が長岡を推したのである。児玉は三〇年、陸軍次官兼軍務局長のとき、参謀本部第二部員の外史を引き抜いて、軍務局第二軍事課長に据えた。
 
参謀次長を引き受けた児玉は「君、戦争中に理屈は禁物じゃ。今の部内を見渡したところ、君より他に適任者はないのだ。君は川上さん(操六大将)のご命令で二度もシベリア、朝鮮を視察している上に、君まで欧州に留学して、君の戦術、軍政を体得してきた。帰りは旅順まで行ったではないか。君の身体は試験済みじゃ。是非引き受けてもらわんと困る」と六月二〇日付で外史は参謀次長となり、大山に代わって山県が参謀総長となったのである。
ところが、参謀本部にきてみれば「ないない参謀本部」そのもので、山県参謀総長はリーダーシップのかけらもなかった。老人もうろく症なのか、決断ができずに問題先送り、トップ会議でも下らぬ約束を優先して座をはずすことが多く、長岡はひとり気をもんで、最終的な判断は児玉にそれとなく頼んで解決したのであった。(以上戸田大八郎著『長岡外史』(昭和51年, 長岡外史顕彰会発行)
 
早くからサハリン攻略を説いていた陸軍の傑物・長岡外史
 
日本海海戦で期待のバルチック艦隊は壊滅したが、ロシアは戦争をあきらめてはいなかった。ネボガトフ少将が日本海で降伏旗を掲げた翌々日の五月三十日、ロシアは宮廷の軍事会議で戦争続行を決定した。同時に極東軍総司令官のクロバトキン大将を降格し、第一軍司令官のリネウィッチ中将を総司令官に任命した。そしてロシア本国からさらに精鋭部隊三十万を満州に送り込んで、反撃態勢を整えていた。
 
一方、「ないない参謀本部」(長岡外史参謀次長の自嘲的な命名)の日本は兵力、弾薬、装備、かんじんの戦費がすでに底をつき、これ以上戦う余力は残っていなかった。日本は日本海海戦後、ただちにルーズベルト米大統領に講和の斡旋を依頼した。ルーズベルトもすぐに動いた。
 
ドイツ皇帝に親書を送って、ロシア皇帝ニコライ二世を説得してもらった。
 六月三日、ルーズベルトから「ニコライ皇帝が大統領の提案を承諾した」という電報が入り、いよいよ講和あっせんが本格化し、日本側は一息ついた。
 六月七日、ルーズベルトはハーバード大学の同級生で、日本政府の特使でもある友人の金子堅太郎を大統領官邸に呼び、食事の後に講和斡旋の経過を話した。
 
「いよいよ講和談判の開始になると思うが、ここで君に忠告することがある。この際、日本はすみやかにサガレン(樺太)に出兵し占領する必要がある。一旅団の陸軍と二、三の砲艦を派遣すれば、すぐに占領できる。講和談判が開始される前に早くサガレンを攻撃するよう日本政府に言ってもらいたい」と樺太占領を強く指示した。
 
 日本の参謀本部でも、開戦直後から樺太攻略作戦は練っていた。ことに満州軍総参謀長・児玉源太郎大将の留守居役ともいえる陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史(ながおかがいし)少将は、次長就任直後から熱心に樺太攻略を推進してきた。しかし周囲からの猛反対と、旅順攻略に予想以上の時間がかかったため攻略作戦は延期に延期を重ねてきた。
 
またも葬られる樺太攻略作戦
 
 その長岡は周囲から「また樺太攻略の話か!」といやがられるほど熱心な樺太攻略主義者だったが、その理由は次の点にあった。
 
①樺太の領有権はロシア占領はるか以前からである。日本は一六二四年に官吏を派遣したが、ロシアがきたのは一八〇三年のこと。日本は一八七五年に樺太千島交換条約でわずか八万円で樺太をロシアに譲ったが、これは圧力によって屈したものである。
 
②樺太はアジア大陸の自然の連続ではなく、日本帝国を構成する群島半島の連鎖の一部である。中国・黒龍江の前哨線でもあり、樺太を占領しなければ日本海の制海権の半分をロシアに依然握られたままになる。
 
③樺太には鉱産物などの天然埋蔵量が多く、林業資源と同時に漁業権の獲得によって豊富な魚業資源を得ることができる。
 
 
 長岡は旅順攻略戦開始の明治三十七年七月以前にも、樺太攻撃作戦を立案して山県有朋参謀総長に説明したが、山県は気乗りうすで、寺内正毅陸相にいたっては樺太攻撃を持ち出すと「ことには軽重、主戦支戦があり、そんな支戦はだめだ」といつも怒りだす始末だった。
 
海軍もバルチック艦隊が東上中でもあり、旅順、ウラジオストクにロシア艦隊が控えている段階では「軍を二分するのは愚策である」と山本権兵衛海相は強く反対し、取り合わなかった。
 それでも長岡は粘り強く説得し続けてきたが、旅順攻略に思いのほか手間取り、派遣部隊や人月は一応決定したのに、攻撃作戦は延び延びになっていた。長岡は前線の児玉稔参謀長に手紙で樺太攻略の必要性を訴え、側面援助を頼んだ。
 
 明治三十八年四月、児玉が帰国して側面から樺太攻略を進言したが、状況に変わりはなかった。バルチック艦隊が迫りくるなか、軍首脳はメインの作戦で頭がいっぱいで、樺太攻略作戦を考える余裕はなかったのである。
 状況が一変したのは日本海海戦の大勝利だった。いまこそ、「樺太攻撃の絶好のチャンスが到来した」と長岡は喜び勇んで説得に走り回った。
 
ルーズベルト大統領の講和提議が日本に到着した六月九日、伊藤博文枢密院議長は桂首相、寺内陸相、小村外相と山県参謀総長室で会談した。そのあと長岡が部屋に入ると、伊藤は葉巻を吹かしながらルーズベルトの電文を読み上げた。
 
 長岡が「樺太攻撃の準備は完了し、作戦はすぐ実行できます」と説明すると、「それはやるがよい。何も戦争を進めるのと大統領の平和勧告とは全く別物である」とOKを出し、山県総長も「準備はできており、外交を妨げぬならやってよい」とはじめて賛成した。山岡は嬉しさのあまり総長室内を小躍りして回った、という(谷寿夫「機密日露戦争」より)。
 
 
以下余談。長岡伝からの回想である。山県や元老たちの判断停止ぶりが語られている。
 
 日露戦争当時は、今のように経済上の統計というのはまだ無かった。総力戦という言葉が出たのは昭和に入ってからである。日露開戦はしたものの、金が足りぬ、兵隊が足りぬ、大砲が足りぬ、弾丸が足りぬ。足らぬことばかりであった。どうしたらよかろうと政雷脳が苦慮して生れたのが、「足らぬ会」であった。

長岡次長が総長室つまり大本営で行なわれている「足らぬ会」に偶然飛び込んだのは、山県総長に用事があったからだ。9月16日午後三時過ぎであった。そこには伊藤博文、井上馨、松方、正義の三元老、桂太郎総理・小村寿太郎外務、寺内正毅陸軍、曽爾荒助大蔵の各大臣が山県総長をとりまいて、何事かを相談していた。

「この場合、ぜひ総長のお名前で外務省において立案した訓令を出していただきたい。これは全く国家のためである。そうでないと、外債募集の困難は救われないし、諸外国の誤解を解くことはむつかしい。ぜひとも総司令官宛の訓令を出していただき、これを中外に発表することに致したい」

小村が山県につめ寄っている。だが山県は黙して語らない。名案もなさそうだ。元考大臣連はいらいらしている。このとき山県は、チョッキのポケットから金側時計を出して「実は、わしは人に会う約束をしている。後は次長の長岡に頼む」

と白い三角ひげをなでながら、逃げてしまった。国家存亡のこの大事なときに、参謀総長が逃げ出すこと自体おかしい。元帥、侯爵、元首相という肩書をもつ元老のすることではない。重臣たちは長岡次長につめよった。
 「さあ、長岡君どうする。君に委されたんだ」

外史は考えた。今では山県は名ばかりで、すべては次長の自分が大本営、いや国内における日露戦争の一さいを取りしきっているのである。しばらく考えてかれはいった。
 「よろしうございます。訓令を出させましょう」
 元老はじめ大臣たちは、ほっと安心して帰りかけたが、小村外相は長岡に
「外務省においては、既に準備ができていますから、直ぐ海外の使臣あて打電させますからご承知を……」といって、そのやせた身体を玄関に運んだ。

 
元に戻る
 
 翌六月十日、長岡は小村外相を私邸に訪ね、自説を展開してバックアップを求めた。小村をはじめとする外務省筋はもともと樺太攻略には理解を示しており、「是非やってもらいたい。講和談判にも都合がよい。ただ海軍がどうであろうか」と心配した。
 
 軍の一部には依然として、樺太攻撃は火事場ドロボウに類する行為として反対の声もあった。問題は海軍だった。山本海相も伊集院五郎次長(中将)も相変わらず態度がはっきりしない。日本海海戦で破損した軍艦の修理や、霧による視界の不良など、あれこれ難癖をつけては賛成せず、「七月以降ならなんとか……」と先延ばしにされてしまった。
 
 六月十二日、宮中で日本海海戦の大勝利を祝う御前会議が開かれた。そして、その後の元老会議で、樺太攻略作戦はまたも中止と決定されてしまった。
 長岡は気が気ではなかった。ルーズベルト大統領までが樺太攻略を指示しているのに、いまだにその戦略的な意味を理解しない海軍や大本営のトップの石頭ぶりに腹が煮えくりかえった。このまま樺太占領をせず、北韓軍の進出もなければ、宗谷海峡の半分は依然としてロシアの勢力下に残り、日本海の制海権も不完全のままになってしまう。すでに作戦費用として六百万円も使ってしまっているのに・・・
 
児玉の一喝で決まった樺太(サハリン)攻略戦
 
 ここで長岡は一計を案じた。元老たちが頭の上がらぬ児玉総参謀長にもう一度ご登場願い、局面を打開しようと考えたのだ。そして御前会議で樺太攻略作戦が延期された六月十二日、児玉大将と長岡の二人だけが分かる特別暗号電報を打って、樺太攻略作戦実施のプッシュを願い出たのである。
 
 翌々十四日、児玉から返電があった。
「絶対的に休戦を拒絶し、ロシアの痛いところを攻め立てて、談判が一日おくれれば一日だけの要求が大きくなることを敵に痛感させる。そのためにはサガレン(樺太)に兵を進めこれを占領し、ウスリーに向っても前進を継続し、満州軍でも準備出来次第、猶予なく地歩をすすめて、一大打撃を与えることが、講和談判をすみやかに解決する道である。児玉自署す」
 
 大喜びした長岡は、さっそくこの返電を石版刷りにして首相、外相、陸相をはじめ、手の届くかぎりの関係者に配布した。山県参謀総長には何も言わずにナマの電報を差し出した。元老たちも児玉には全く頭が上らなかったのである。そして児玉にお礼の電報を打った。
「百年に一人の戦略家」児玉源太郎大将の指示に、元老、政府首脳連は驚いて態度を一変させた。
 
 六月十五日、山県参謀総長を中心に桂首相、寺内陸相、小村外相、曾禰蔵相などが鳩首協議し、樺太攻略作戦はまたたく間に決定された。山県は長岡に言った。
 
「北韓軍も前進させる、樺太占領もやることに一決した。かねての計画通り手落ちなく進めることにし給え」(谷寿夫『横密日露戦史」)
 
 長岡は参謀副官一同を次長室に招き、シャンパンを抜いて杯をあげ、決定事項を告げて万歳を三唱した。
 こうして樺太攻略作戦は六月十七日に天皇の裁可が下り、新設の独立第十三師団に出動命令が下された。二個旅団編成の第十三師団長原口兼済中将指揮の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第三、第四艦隊からなる北遣艦隊(司令長官・片岡七郎中将)に護送されて七月七日早朝、樺太南部のアニワ湾に侵入、メレヤ村(女麓)の海岸線から上陸を開始した。
 
 当時、樺太のロシア軍は歩兵一個大隊、民兵約二千、砲兵一~二個中隊程度で、防衛軍と呼べるものではなかった。民兵の多くは囚人や高齢者が多い寄せ集め部隊で、散発的な抵抗はあったが、日本軍の敵ではなかった。
 
 七月九日には樺太南部の要衝コルサコフ(大泊)を占領、二十四日には師団主力が北部のアルコワ付近へ上陸、二十七日までに樺太北部の要衝アレキサンドルフとルイコフを占領し、ポーツマス講和会議が始まる前の七月三十一日にロシア軍が降伏して樺太全土を制圧した。
 
 予定以上に早く作戦完了したため、長岡参謀次長はカムチャツカの占領計画を起案した。カムチャツカも樺太同様、守備兵もほとんどいない。樺太派遣軍をまわせば容易にかたづけられたが、これは山県参謀総長の反対で実現しなかった。
 
 「講和談判を有利に導く唯一絶対の力は講和大使の能弁でも、駆け引きでもなく、軍の威力をのばして敵を説服させることだ」とは児玉の言葉だが、もし樺太全土を占領していなければ、ポーツマス講和の交渉は日本側にもっと不利なものになっていただろうし、カムチャツカも占領しておけば、さらに有利に展開できたことは間違いない。
 
 「百里の道も九十九里で半ばとす」とのことわざ通り、連戦連勝に舞い上がっていたのか、日本軍は最後の詰めを欠いたきらいがある。いずれにしても長岡の先見の明が光るケースであった。
 

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