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日本リーダ―パワー史(122)『海軍の父・山本権兵衛』の最強のリーダーシップと決断力・実行力に学べ

   

日本リーダ―パワー史(122)『海軍の父・山本権兵衛』の最強のリーダーシップと実行力に学べ
 
  その最強のリーダーパワーとは・『無能な幹部は首にして、最強の布陣で臨め』
 
                      前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
その経歴は(1852~1933)明治・大正の軍人・政治家。嘉永五年生れ。薩摩藩士山本五百助の子。明治七年、海軍兵学寮卒業(海兵2期)。ドイツの軍艦に乗り組み、世界周遊を行なう。第二次山県内閣の海軍大臣。以後、第四次伊藤内閣、第一次桂内閣の海軍大臣を歴任。海軍大将。大正二年、第一次内閣を組織。
ついで十二年に第二次内閣を組織し、外務大臣を兼任する。日露戦争に際し、無名の東郷平八郎を適合艦隊司令長官に登用完勝する。軍艦購入に関する汚職事件のシーメンス事件で辞職。関東大震災後に第二次内閣を組織し復興に当たったが、無政府主義者の難波大助が起こした皇太子狙撃の虎の門事件の責任をとり辞職。政界を去った。
 
 
日露戦争はアジアの国が初めて西欧の大国を破った点で世界史を変えた大事件で、いわば第ゼロ次世界大戦といってよい。その日本海軍の最高のリーダーが山本権兵衛である。彼は日本海軍を建設して、そのCEO(最高経営責任者)として、組織を変え人材を抜擢し、最新技術を導入してマネージメントに成功、戦争に勝利して最高の「リーダーパワー」を発揮したのである。山本の戦略、戦術をみてみるとーーー。
 
<国家戦略では>

ロシア海軍に対抗する軍備拡張を図り、戦闘艦六隻、一等巡洋艦六隻の新鋭艦をそろえての六六艦隊の実現を期し、厳しい国家財政の中でやりくり。山本は海軍省官房主事というポストで西郷従道海軍大臣を、縦横に動かした。
 
<人事の刷新、抜擢・適材適所>

山本権兵衛が海軍省官房主事に就任したのは樺山資紀の海軍大臣、伊藤雋吉次官、伊東祐亨の第一局長(二十六年五月軍務局と改称)の明治二十四年六月のこと。この時の山本の地位はさほど高くはなく、権限も大きいものではなかった。ところがその手腕は絶大で上官を表看板にして、部下の山本が縦横に腕を振るい海軍軍政を完全に牛耳ったといわれる。
 
山本の官房主事就任から、日清戦争開始の27年7月までの約3年2ヵ月の間にまず9名の海軍将官の首を切った。来るべき日清戦争を見越しての人事で3中将の赤松則良、林清廉、松村淳蔵をやめさせ、続く6少将を整理したが、この中で3人は薩藩出身者で名誉進級者であった。当時、海軍は薩摩閥に凝り固まっていたが、山本は閥を排し先輩といえども一切遠慮会釈しなかった。
 
こうして残った者には、大将はいなく、中将に川村純義、伊東祓暦、中牟田倉之助、真木長義、仁礼景範、樺山資紀、伊東祐亨ら12名だが、薩藩出身者は6名となった。さらに日露戦争までに残った者は、樺山、伊東祐亨ら3名の薩派だけとなった。
 
将官以下も、厳しく査定した。佐官、尉官で首にされた者は、89名にものぼった。さすが太っ腹の西郷従道海相もこの大整理案には仰天し、問いただした。
ところが、山本は「無能者を首にすることは、有能者の適材を適所に配置するために必要な事である」ときっぱりとと答えた。山本は指揮官の能力を見抜く透徹した目と、豪胆な決断力を有していた。このエピソードを見ても、次官、第一局長をしのぐ山本のリーダーシップが見て取れる。
 
以上の将官を退任させて後に残った者は柴山矢八、東郷平八郎、日高壮之丞、有馬新一、片岡七郎、上村彦之丞、伊集院五郎と全部薩派となった。
 
以上のように、山本は年功序列や先輩後輩にこだわらず大将、将官ら無能力者97人を一斉に首にしたのである。中でも、戦前に常備艦隊司令長官だった先輩の日高壮之丞を舞鶴鎮守府司令長官の閑職に祭り上げ、やめる寸前の東郷平八郎を連合艦隊司令長官に大抜擢したので、大騒動が持ち上がったが、山本は断固これを貫いた。
 
日高壮之丞中将は、自分が連合艦隊司令長官に就任するものと思っていた。ところが、、ずっと後輩の東郷がつき、左遷されたことにカンカンに怒って海軍大臣官舎に短剣を持って現れ、机の上にドーンと突き刺し「返答によっては刺し殺す」と迫った。
 
「山本、きさま、わが輩を侮辱するのか。わが輩をさしおいて、なぜ東郷を司令長官にしたのだ。理由によってわが輩がきさまを刺し殺すぞ」と必死の形相だった。
 
山本は落ち着き払って「貴公が日清戦争のさ井『松島』の艦長などとして、大いなる武勲をたてた。しかし貴公は、あの時海軍軍令部の命令を無視して単独行動を取った。今度の日露大海戦は、戦国時代の一騎討ちのような戦法は許されない。東郷はあの生真面目な性格で貴公と正反対なので、軍令部と緊密に結んで戦うのだ」と東郷の長所を説いて日高も初めて納得した、という。
 
明治天皇が心配すると「東郷は運のいい男ですし、命令を正しく実行する男です」と太鼓判を押した。東郷は日本海海戦で空前絶後の戦果をあげて山本の期待に見事にこたえたのである。日ロ海戦の勝利は山本海軍大臣の見事なマネージメントの勝利だったのである。
 
 
<説明能力・抜群のスピーチ力>
 
山本は西郷、大久保らがうまれた薩摩[鹿児島県]の同じ町内の出身。不言実行型、「沈黙は金」「男は黙って勝負する」リーダーが多い中で、山本はしゃべりすぎといわれるくらい弁が立ち、相手が上であろうが自説を主張して譲らなかった。
 
同主事、軍務局長の時には「権兵衛大臣」といわれて、西郷海相を手玉に取った。大先輩の陸軍大将・山県有朋にむかい、「山県君」と呼んで、山県を激怒させたり、井上毅文相との会見中、井上が細かい字句について質問したところ、「そんなことは書記官の仕事で、大臣のやる仕事ではない」とピシャリと叱りつけたほどの大物ぶりを発揮した。
 
山本が少佐の時のエピソードがおもしろい。
 
半年かけて書き上げた調査書を西郷従道海軍大臣に提出した。西郷は1週間で返してきた。「おわかりになりましたか」「わかった」の返事に、「閣下は海軍の新参者、私が長期間調べた専門のことを、1週間でわかっとは何事ですか」と山本が怒ると、西郷は平然として、「それではもう一度見せてもらおうか」。再び調査書を提出すると、こんどは十日で返してきた。「お読みになりましたか」「読まない!」「それでは閣下は、読んでもわからんから、お前にまかせるという意味ですか」「そのとおり、そのとおり」
 以後、山本の計画は西郷大臣がすべて信頼して実行した。2人の性格、リーダーシップのあり方をよく示している。
 
<国際交渉力では>

外国でも「日本海軍の父」として、その名は轟いていた。 ドイツのカイゼルのウイルヘルム二世に会ったとき、「ドイツでなにか見たいものはなか?」と聞かれて、「クルップの機密工場をみたい」といって度肝を抜いたり、アメリカ大統領ルーズベルト(日露講和の仲介者)に会ったときも、英語で日露戦争の勝利についてまくし立ててその弁舌で驚かせた。
 
こうした「必勝の方程式」以上に、山本がすごかった点は戦いのホコの納め方、引き際をわきまえていたことだ。開戦直前に、大山厳が満州軍総司令官に任命されると、山本海相を訪ねて懇願した。
 
 「この戦争は三年、あるいは五年はかかる。戦争終結が難しい。軍配を振る(戦争を止める)ということは大役で、一身を犠牲にしなければできない。この大役は貴方のほかにはないので、ぜひお願いしたい」と申し出た。 山本は「講和の時機をとらえることは、国務大臣の責任である。私はその機会に躊躇しないので、ご安心いただきたい」
 
と了解した。これが有名な「軍配問答」で、太平洋戦争のリーダーの無謀な判断力とリーダーとは格が違っていた。

(写真は右から、山本、東郷、日高)

 
山本は少年時代は幕末、維新の騒然たる時代に育ち、その渦の中に早くから巻きこまれた。文久三年、11歳のとき、イギリス艦隊がその前年の生麦事件の報復のために鹿児島を湾内から砲撃した薩英戦争がおこったが、山本は弾薬運搬の雑役をしながら、戦闘に参加した実戦派である。16歳のときには、薩摩藩士として、鳥羽・伏見の役や官軍の東征の役に従事した。
 
◇権兵衛は東京に遊学を命ぜられて上京するに先立って、西郷南洲から勝海舟あての紹介状をもらい、上京するとすぐ勝海舟の門をたたいた。しかし、海舟はなかなかにウンとは言わなかった。海舟がやっと権兵衛の願いを許したのは、権兵衛が続けて三日間、海舟の門をたたいたのちであったという。
 
 
その山本は日本最初のフエミニストであった
 
二十七歳の少尉のとき結婚したが、そのとき一通の誓約書を、新婦に与えた。「夫婦むつまじく、生涯たがいに不和を生ぜざること。夫婦たるもの義務をやぶらなければ、決して離婚は許さず。一夫一婦は国法の定めるところなので、誓ってこれには背かない・・・」など七ヵ条から成り立つ誓約書であった。
倣岸不遜で、先輩に対しても、その所信を少しも曲げなかった山本だが、家庭においては、無類の愛妻家であった。
 
若い時に、ドイツ海軍の軍艦に乗り組んで訓練をうけたため、西欧的なレディファーストも身につけていたのである。明治十二年の中尉時代に、新婚の妻を乗艦に案内して艦内の見学を終って、タラップからボートに乗るとき、権兵衛は夫人のハキモノを持って先にポートに降り、夫人の前にやさしく揃えてやった。「男尊女卑」の驚くほど根強かった時代、山本の行動をみた海軍軍人たちは「軟弱すぎる」として、ごうごうたる中傷、非難が巻き起こったという。
 
このように、権兵衛は信念の男であり、身を持することが、実にかたかった。彼は夜は早く寝ることを主義とし、酒席には絶対といってよいほど出なかった。
長男・清氏の話では「父は私が物心がついてからずっと、寝具の上げ下ろしや部屋の掃除は、自分でしていた。また、靴下や衣服のほころびは、専用の針箱を備えて、自分でやっていた」というから驚くほかはない。なお、その針箱は今に残っている。
 

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