日本リーダーパワー史(519)『杉山茂丸の国難突破力に学ぶ」➂「 22歳の杉山と45歳の元老黒田清隆のスピーチの決闘」
2015/01/01
『「明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力に学ぶ」
今こそ杉山の再来の<21世紀新アジア主義者>
が必要な時」』➂
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
(以下の文章は2014年3月9日、福岡県筑紫野市生涯学習センターで開催された「夢野久作と杉山3代研究会」の第2回研究会での講演録をベースに、大幅に訂正、加筆、修正したものであります)
22歳の若き杉山と45歳の元老黒田清隆のスピーチの決闘勝負!

1885年(明治18)、後藤象二郎の添書もって22歳の若き杉山は紹介状をもって45歳の元老の黒田清隆に面会にいった。(以下は『俗戦国策』より)
まず、黒田に会うと「君は有志家ですか」と聞かれた。
「私はいずれの仲間にも関係なく、単身、国事を憂慮している1人1党です」
と杉山は答えた。
黒田は、では「何の用で私のところにこられましたか」と聞いた。
すると、茂丸は『貴下は今日は酒を飲んでおられますか」と高飛車に出た。
黒田が酒乱で酔って若妻を切り殺したといわれる事件が巷に広がっていた時で、黒田が何を小癪なこの若造めが、と
「なぜ、そげんなことを問いますか」といやな顔をした。
「私は貴下は、ごく正直な精神の正しいお方で、私の申し上げることを聞いてくださる方と思ってきましたが、酒を召し上がると、乱暴をなさるお方とも聞いておりますから、酒の力を借りねば乱暴の出来ぬような卑怯なお方と真面目なお話をするほど、私は無駄事をする男ではございませぬ。
元来、私も乱暴者ではございますが、1滴の酒も飲みませぬ。ゆえに、私の乱暴ははじまったらやみません。酒の力ではじまる乱暴とは酔いがさめるとやみますので、私とは角力(すもう)になりません。もし貴下が今日、酒を召し上がっておられれば、お話しせずにお暇しようと思って、お尋ねした次第です」
と茂丸一流の恫喝を交えた長広舌の論理を展開した。
「ははっは・・、後藤も面白い人を紹介したものじゃ。よろしい。今日は酒なしではなしましゅお」
「ありがとうございます。別に貴下とケンカしに来たわけではありませぬ。私が真面目にお話しすることを、まじめにさえ聞いてくだされば決してけんかにはなりませぬ」
このいわばデビュー戦ともいうべき会見で大物キラーの片りんを見せ、元老に対して、臆するどころか、手玉にとるタフネゴシエイターぶりを発揮した。
『私が国事の憂慮する第一は薩長藩閥政府の官僚を、帝国政権の詐欺師とおもっているからです。政治を純正化するには、第一にこの詐欺師の征伐をせねばなりませぬ。万機公論に決し、人才を登用し、官武一途、庶民に至るまでその志を遂げるための天皇による維新だったのに、貴下方はこの300年、皇室を虐待し、征夷大将軍の位を私くしし、ただ自己の権威のみを持続してきた。この政権の詐欺師が徳川幕府を討伐した薩長藩閥の人であります。
維新の同じ志を持って途中で倒れ、腹をきり、憤恨して土苔(つちごけ)となり果てた多くの精忠の志士の死に対しては、一片の弔慰もなく、その政権を取ると同時に廟堂にたてこもり、私権を争い、巧利に走り、色食にふけり、私どもを蛇蝎をみるごとく迫害するではありませんか。
私は貴下に断言します。誠忠の諸先輩や私どものようなものを責め殺した藩閥政府は必ず爆弾に、その身を粉砕せられ、一口の匕首その肺腑をえぐられることは当然に帰結と思われませんか。ゆえに、私は貴下の公正なるお心に訴えて、はやくこの詐欺師のむれの酔いより覚醒なさって、謹んで、純正な志士を迫害せぬような行動のあるのが、まったく身のため、世のためと思うのでございます」
「あーたー(君)は、よく遠慮のう、それだけのことバ、いいましたな。あーたー話のわかった証拠は私どもの昔の不平もあーたー(君)と、おなじことでごわしたぞ。あーたー(君)と会ったことは、後藤や伊藤の秘書官をばしておる井上毅にも話しておきます。君の仲間は何人おりますか」
「仲間はおりませんが、おなじく正直に国事を憂えて政府の迫害をうけたものは8,9人もおります」
「ようごわす。そげんことのないごと、わたしが尽力します」
と話が付いた。黒田については長州の連中はとやかく批判をしているが黒田は正直で優しく、これだけの太っ腹らな者は大臣クラスには1もいなかった、と杉山は述べている。
伊藤博文を殺しに行って一転、師と仰ぐ

続いて伊藤と初面会するが、これも名人の丁丁発止のやりとりで、明治スピーチ史の華であり、茂丸タフネゴシエーター誕生の瞬間なのでの紹介する。
杉山が山岡鉄舟に近づいたのは、山岡から伊藤への添書をもらうためであった。山岡には紹介状なしで面会を求めたが、すぐ会ってくれた。
杉山は単刀直入に「伊藤は私名私功のため、世を害し、人を害する暴戻を極めている故、打殺して見たいと思っておる」というと、山岡は「それは面白い、それなら首を取るがよかろう、伊藤に会えるように手紙を書いてやるから」とあっさり了解し、「親しく面会して、よく話をした上、君の考えに相違なく、又世に大害ありと思うなら、その座で殺してしまうがよい。しかし、もしお前の考えが間違いであったら、不都合のないようにしろ」と説諭した。
もらった紹介状は封をしてなかったので帰りがけにみてみると、『この者は田舎者の正直者ですが、方かじりの政治思想にとらわれて、悲憤慷慨し閣下に怨恨をだいているものです。この種の青年は他日、国家の御用にたつと存じますので、一度引見して、説諭、ご教訓を切望いたします、ただし、凶器等を所持しているやもしれませんので、そのおつもりで面会ください』とあった。
杉山は翌朝八時に、官邸へのりこんだ。大臣は今、食事中で、しばらくお待ちをといって二時間ほど待たされた。部屋の外に巡査二人がおり、あちこちに七、八人位の巡査が警戒していた。長時間待たされた杉山は怒り心頭に発して、ますます、殺意を募らせた。
やっと面会の時間になると、きびしく身体検査をされたが、フランス革命のジャコバン党の「くびかき組」を名乗っていた杉山は寸鉄を身に帯びず素手で見事一撃でもってしめ殺してやるとの自信があった。
さすが伊藤も剛の者で、素手で飛びかかって行こうとするこの若者と、何人をも交えず、単独で会見した。杉山は、はじめて伊藤の顔を見ると、写真で見たとは大違いで、小男のちょろちょろひげを生やしたごく貧弱な老人だった。
この若造の茂丸の悲憤慷慨ぶりに、伊藤は1つ1つ証拠をもって丁寧に応答し、杉山の慷慨の大部分が思い違いや間違いであったことを立証し、時局の解いて聞かせ、青年の志のあり方を説いて杉山は、いたく感服した。
そして、最後はこう釘をさした。
「きみは自重したまえ。君の考えは昔日の僕らの考えと同じである。僕が君に殺されて、君の憂慮する国事が解決されるのなら、こんな同慶の至りではあるが、今、説明した通行りそれは不可能である。
そうすれば、お互い国事を大切にすると同時に、お互いの体もたいせつにしなければならぬ。この添書をあたえた山岡は国家忠誠の子である。君を国家のために役立つと思えばこそこの手紙をかいたのじゃ。」と山岡の手紙を杉山に見せた。
会見は5時間にも及び、杉山は立ちを去るときに、母親が子供を生んだ時のような大いなる虚脱感を感じたと書いている。いわば、この時に「明治の国士、大参謀」『ほら丸』の誕生となるわけである。これは坂本龍馬が勝海舟を暗殺しよう出かけて、逆にその大人物であることを悟って、一転して弟子入りしたのとまったく同じケースである。
このやり取りも痛快で面白い。昔のサムライが諸国行脚の武者修行の旅にでて剣術を磨いたように、杉山は刀に代わっての福沢諭吉が唱えた『演説』(スピーチの訳)によって、言葉の決闘、演説・雄弁の決闘を申し込み、1本とったといえよう。明治維新後の「乱世」にあって、当時、トップリーダーが誰とでもあって胸襟を開いて、日本の未来を語り合っていくその懐の深さに驚く。
この時の年齢差を確認しておくと、杉山は今の大学生くらいの22歳だが、最も年上なのが山県で26歳上の48歳、黒田は46歳、伊藤とは45歳と親子ほど歳が違う。陸奥は42歳、川上は38歳であり、いかに杉山が血気盛ん、気力充実していたか、、その雄弁術とそのバイタリティーに元老たちも圧倒された形である。
この自由民権運動の流れの『過激派』『首浚い組』『テロリスト』の杉山の行動を昭和戦後に比べれば、昭和30-40年代の(60年、70年安保)改定期に全国の大学に吹き荒れた学生運動、全学連、全共闘運動での大学生を見る思いである。
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