前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(906)-「終戦内閣」鈴木貫太郎首相(77)の「和平を胸中に深く秘めた老宰相の腹芸」★『阿南惟幾陸相との阿吽の呼吸』★『総理大臣執務室の机の上には書類は全くなく、ただ一冊『老子』が置かれていた』

      2018/05/16

日本リーダーパワー史(906)

鈴木貫太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%B2%AB%E5%A4%AA%E9%83%8E%E5%86%85%E9%96%A3

武士(もののふ)の心を知る

 

昭和二十年(一九四五)八月十五日、日本は太平洋戦争に敗北して、降伏した。前日の最後の御前会議で、昭和天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾が決定された。十五日正午、玉音放送によって終戦の大詔が出され、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。

「滅亡か、終戦か」 -陸軍はポツダム宣言受諾には絶対反対し 「本土決戦」「徹底抗戦」を譲らず、御前会議は三対三で容易に決しなかったが、昭和天皇が最後の断を下した。

御前会議が終了した十四日午後十一時過ぎ、首相官邸の総理大臣室で鈴木首相が追水久常内閣書記官長とほっと一息ついていると、軍刀を吊った阿南惟幾陸相が入ってきた。

 

直立不動の姿勢で総理にご迷惑をおかけしたことをおわびします。私の真意は国体の護持にあり、他意はございません。何とぞご了解ください」と涙ながらに言った。

「よく分かっております。日本の皇室は必ずご安泰ですよ」と鈴木が答えると、「私もそう信じます」と阿南は敬礼をして静かに退室した。迫水が阿南を見送って部屋にもどると、「阿南君は、いとまごいに来たのだね」と鈴木はポッリと言った。

 

このあと、阿南は大臣官舎に引き上げ、入浴して身体を清め、部下と別れの盃を酌み交わした後、服装を改めて、十五日未明、「神州不滅を確信しっつ」 「一死以て大罪を謝し奉る」との遺書を残して自刃し果てた。

武士(もののふ)は武士の心を知るで、鈴木はこのことをも見通していたのである。

終戦で時局収拾の最大のガンとなったのは陸軍である。兵を興すは易く、退くは難しい。ことは勢いによって成り、勢いによって挫折する。その勢いを沈静させるのも、より激烈化させるのも人であり、そのリーダーシっプ、度量にかかっている。

「本土決戦」「本土死守」を怒号していた陸軍の暴発をいかに抑え込んで、銃をおかせるか、阿南は一身を犠牲にすることで見事に抑え込んだが、その阿南が一番、心服していたのが鈴木総理であった。

この未曾有の混乱を、宮城占拠事件など陸軍の一部の反乱だけで乗り切ることができたのは奇跡に近いが、この裏には鈴木の信念と大度量、強い指導力があった。

生死を超超した境地

 

昭和天皇に請われて七十九歳の老体で鈴木が首相に就任したのは昭和二十年四月である。「軍人は政治に関与せず」の信条から鈴木は固辞し「耳が聞こえなくても、政治の経験がなくてもよいから」との天皇から天皇の終戦への強い決意読み取りで国家の一大事を引き受けたのである。

三月十日には米機の東京大空襲によって下町は一夜で灰塵に帰し、戦争は最終局面に入ってきた。「本土決戦」「一億玉砕」と陸軍は火の玉、狂信的になっており「和平」「終戦」などを口にでもすれば国賊として直ちに殺される絶望的な状況に陥っていた。

鈴木は和平を胸中に深く秘めて、態度に微塵も出さずラジオ放送で「国民よ行け、わが屍を越えて」と訴え、阿南陸相とも阿吽(あうん)の呼吸で、軍を収めることに全精力を集中した。

鈴木は海軍の水雷戦術の第一人者で〝不死身の鬼貫(おにかん)″といわれた。夜の航海中に海中に転落したが、奇跡的に救助されたり、2・26事件では鈴木侍従長官邸が襲撃され、三発の銃弾を受け瀕死の鈴木は、軍刀でとどめを刺される寸前に妻の制止でかろうじて命を救われた。

九死に一生を得て、首相の大命を拝受した際には、首のとどめの傷跡が疼いたという。

鈴木はすでに生死を超越した境地に達していた。

し、阿南陸相がそれまでの陸軍の跳ね上がり組と同じように辞表を提出していたら、鈴木内閣は自動的に総辞職に追い込まれ、終戦はさらに遠のき、混乱が続いたであろう。「終戦内閣」を隠しての鈴木の腹芸に「一死以テ」応えた阿南の二人三脚が歴史の決定的舞台で見事な演技を発揮したのである。

嵐の中で、鈴木首相の態度は、悠々迫らず少しも変わらなかった。総理大臣室の机の上には書類は全くなく、ただ一冊『老子』が置かれていた。終戦がさし迫ってからは、さすがに眠れないのか、深夜人知れず寝床の上に座って、沈思黙考していたという。

 

1948年(昭和二十三)四月、八十歳でで亡くなった。最後の言葉は「永遠の平和」であった。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

「トランプ米大統領の関税国難来る!ー石破首相は伊藤博文元老の国難突破力を学べ①』―「日露戦争開戦と同時に伊藤博文はルーズベルト米大統領と「ハーバード大の同窓生・金子堅太郎(農商相)を米国に派遣、 ル大統領を味方につける大統領工作に成功した。世界外交史に輝くインテリジェンス外交』

2025/04/08/「世界・日本リーダーパワー史」(1567) 石破首相は4月 …

no image
日本リーダーパワー史(296)福島原発報道との対比ー大新聞はアジア太平洋戦争(大東亜戦争)をどう報道したのか③

日本リーダーパワー史(296)   –3.11福島原発事故 …

no image
『F国際ビジネスマンのワールド・ニュース・ウオッチ(75)』『音楽祭に「オザワ」の冠小澤征爾80歳への決意」『佐世保少女、暴走放置した父の世間体」 

     『F国際ビジネスマンのワールド …

no image
速報(184)『日本のメルトダウン』☆『3/11福島原発の半年後の真実に迫る-―小倉志郎、後藤政志氏との座談会(中)』

    速報(184)『日本のメルトダウン』   …

no image
最高に面白い人物史⑩人気記事再録★『全米の少女からラブレターが殺到したイケメン・ファースト・サムライ』-『大切なのは英語力よりも、ネアカ、快活さ、社交的、フレンドリー、オープンマインドだよ』

2004、11,1 前坂俊之(ジャーナリスト) 1860年(万延元年)6月16日 …

『Z世代のための 欧州連合(EU)誕生のルーツ研究」①』★『EUの生みの親・クーデンホーフ・カレルギーの日本訪問記「美の国」①』★『600年も前に京都と鎌倉が文化の中心で栄えていた。それと比べるとパリ、ローマ、ロンドンは汚ない村落に過ぎなかったと、父は私たちに語ってくれた。』

      2012/07/05  日本 …

『オンライン講座/明治維新は誰が起こしたか』★『高杉晋作の国難突破力②』★『明治維新は吉田松陰の開国思想と、その実行部隊長の「高杉奇兵隊」(伊藤博文、山県有朋も部下)によって、倒幕の第一弾が実現した」★『英外交官パークスに自分のフンドシをプレゼントした高杉晋作の剛胆・機略縦横!、②』

  2012/10/29  リーダーパワー史(33 …

no image
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が報道した「日韓併合への道』㉒「伊藤博文統監の言動」(小松緑『明治史実外交秘話』)⑦『前代未聞の退位と即位』

  「 英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が 報道した「 …

no image
<『英タイムズ』がみた『坂の上の雲』への道>―今こそ、第3の鎖国を解き、アジア太平洋海洋国家へ飛躍せよー

<『英タイムズ』がみた『坂の上の雲』への道―> ―今こそ、第3の鎖国を解き、アジ …

★『湘南海山ぶらぶら動画日記』★『2月18日夕方、クリーンな富士山のサンセットを見ようと久しぶりに葉山森戸海岸、石原裕次郎の記念碑までぶらり散歩したよ。かくも美しき世界に心癒される』』

湘南海山ぶらぶら日記         葉 …