★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」- 「日本側の日英同盟成立までのプロセス」⑦『伊藤博文が露都で日露協商の交渉中に、元老会議は日英同盟 の締結に賛成した。伊藤は日英同盟に反対し、その条約案 の修正を求めた。』
2016/12/15
★「日本の歴史をかえた『同盟』の研究」-
「日本側の日英同盟成立までのプロセス」⑦
伊藤博文が露都で日露協商の交渉中に、元老会議は日英同盟
の締結に賛成した。伊藤は日英同盟に反対し、その条約案
の修正を求めた。
(以下は『機密日露戦史』谷寿夫著、原書房、1966年刊、2p-6p )
当時,伊藤と桂との対露・対英意見の経緯をさかのぼって考究するに、伊藤は必ずしも日英同盟をよろこばぬではなかった。(八月四日葉山に於ける桂との会見の際、主義においてはすでにこれに賛意を表したのである。)
ただし、伊藤は、日英同盟の成立をむしろ容易ではないとみた。即ち先ず日露協商を試み、成らなかったら力を日英同盟の成立に注ぐべく、結局、日露日英いずれなりともわれに有利なるものを採ろうというにあった。
桂はこれに反し、日英同盟の方がはじめからわれに利ありとして、日英同盟の妨害をしない範囲内で、別に日露の間に協商を試みるのも悪くはない位の意見であった。
また、その日露協商ついては、伊藤は韓国に於ける自由行動の権利をわれに収め得るならば、満州および韓国に関してはロシアに幾分の犠牲を払ってもやむを得ないとしたが、
桂はあくまでも日英同盟の精神に抵触しない範囲内で韓国における自由行動の権利を得なければならぬ。
もしロシアが協商をするならば、この意義精神を離脱してはならないということにおいて、同者の間に相違があったようであった。
すでにこのような相違があったならば、なに故に、伊藤と桂とはこれについて膝を交えて十二分の話し合いをかさね、一致する部分は一致させ、調和できない点は調和し得ない点として明確に分離し、
よって後日の行き違いを事前に予防する方法はなかったのかは当然起る疑問だが、そこは双方共に多少の遠慮もあったであろうし、また日英の交渉もこのような迅速な発展をみるとは予想もしなかった関係もあったであろう。
さらにまた、大局の処理には明白であっても細部の立案施策の詰めが甘かった嫌いもあった。要するに双方ともに肝腎の止めを刺すべきところに刺しておかなかったのである。
桂は、後日にいたって「若し伊藤にしてその出発に先立ち、これらの点について十二分の所見を披瀝し、当局の責任者たる桂と意見を交換しただろうならば、両者の間に一致点を見出し得ないこともなかったろうが、
伊藤は胸中の所懐を多く秘して語らず、海外へ行ってから電報ではじめて意見を述べ、まさに成功しょうというときになって、日英同盟に代えるに日露協商をもってしようとして問題を紛糾せしめたことは遺憾千万であった」としている。
この点については、多少感情の行き違いもあり、事実誤解もあったであろうが、つまるところ伊藤と桂との間に多少意見の疎通を欠いた。その原因は、前述のように関係国に対する折衝進捗の場合に処する両者取捨選択の要点について、事前に相互に念を押しておく措置をつくさなかったためとみる外はない。
一方、日本政府にあっては、これより先11月8目に英国政府の協約案に接してから一週間経過した。このとき桂は、伊藤の同月14日、パリ発電報で「露都に到り意見を交換するまでは、政府において最終の断案を猶予ありたし」という要請に接したが、英国に対する回答は、遅延を許さないので速かに露都に向われんことを乞う旨、伊藤に返電した。
同月25日、即ち伊藤が露都に到着した日、桂は林から、伊藤の林宛の同月24日の電報「自分もまた同盟交渉を継続する必要を認めること。露都に於ける自分の会談は、日英同盟案の精神に矛盾するが如きものはすべて避けるつもりなり」との転電に接した。
すなわち、同盟交渉の継続は伊藤も賛成であることを確かめ得たので、その28日、特に閣議をひらき、小村の英国案に対する修正案を審議した。当時小村は、病後の疲労甚だしかったので、この閣議は、外相官邸において開かれた。
問題は特に対議会策と称し、世上の憶測を避け得たのは、桂の深慮であった。閣議は、一、二文字の修正を加えてこれを可決し、次いで桂は参内して委曲を伏奏した。
明治天皇これを親閲せられ、諸元老の意向を確かめるとともに外遊中の伊藤の意見をも徴すべき旨御沙汰があった。
桂はこの御沙汰に基き、一面には小村をして右修正案を林に打電するとともに、在ロンドン公使館員を露都に急派してこのことを伊藤の許に速達すべきを訓令させた。 そして他の一面で、諸元老の間に往来してその諒解を得ることを怠らなかった。
12月7日、元老会議は、葉山の長雲閣でひらかれた。この会議に列したものは、主人の桂をはじめ山県、西郷、井上、大山、松方の諸元老及び小村外相と山本海相であった。
席上、同盟問題の発端から当時にいたる経過の要点が改めて反覆説明せられ、次いで審議に移り、特に日英同盟の利害、日露協商との得失比較については小村が、その用意した意見書を提出して詳細に説明した。
この意見書は山座政務局長起案し、小村外相添削したもので、当年のわが外交文書の一傑作である。 井上は、かねて伊藤と日露協商について打合していた関係上、やや躊躇した。現に11月28日、12月4日の両度、政府を介して根本的に日英同盟をあやぶむ自己の所見を伊藤に打電したのであったが、他の元老は、みな修正案に同意を表した。
さらに、伊藤もまた大体同意であることを承知するに及んで、事情すでにしかる上は、井上自身も衆議に同意すると云い、結局満座同意の調印をしたのであった。
この間、英国ロンドンでは、林は小村の訓令によって、松井(慶四郎)書記官をして、日本政府の修正案を携行、伊藤の許へ急派させたのである。 同書記官は、13、月三日露都に到着し、直ちにこれを伊藤に示したに対し、伊藤は篤と研究した上で、ベリリンにおいて意見をいうと告げて、同日露都発ベルリンに向った。
松井書記官また次いでベルリンに入り、再び伊藤にあってはじめて伊藤のわが修正案に対する意見を聴取することができた。その意見の大要は次の通りであった。
英国の協商案にも日本の修正案にも、朝鮮を他国が併呑することを防ぐ云々……の文字があるけれども、元来、朝鮮は日露両国のみが利害関係を持っていて、英国はその辺の関係がないから、英国と約束しても別段の利益はあるまい。 そればかりでなく、協約案によると、英国は朝鮮に関して日本と同等の位置に立つわけで、このため英国をして従来持っていなかった地位を新に獲得させることになるから、 この点からみても、この案は不条理である。
また若し他国が、この協約に加入することになると、その国にも矢張り同様の新地位を与えることになるから、ますます不都合である。それで朝鮮に関する箇条には、是非適当の修正を加えねばなるまい。
日本政府は、あるいは英国の催促を受けるので取急ぎ修正案を出したものであろうが、このような重大事件は、十分念を入れて研究した上でなくてほ決定すべきでない。現に井上伯の電報でみるも、内閣員はれ揃って同盟に賛成であるけれども伯はにわかに同意を表していない。
伯の意見は、 第一、英国が古来の外交政策を一変して、我と結ばんとする意志が了解しがたい。
第二には、英国がこの挙に出るのは、何か大きな困難事があって、われを利用して難境を免かれようとしているのかも知れない。
また第三にドイツはこの同盟には入れないだろう、というにあるのだ。
そして伊藤伯は、かような点から篤と諸強国の情勢を調査した上、意見をきめて電報してもらいたい、といってきたのである。 自分の意見も、井上伯の申し越しと全然相符合するのであるから、日英同盟の如き重大問題は軽々に決定してはならないという修正案に対する意見を、12月6日、本国政府に電報した次第である。
殊に本間題を決定するにあたって、熟考を要するのは露国の態度である。同国と協商を結ぶ見込がある以上は、何も日英同盟の締結を急ぐ必要はない。
自分が露都で目撃したところでは、同国政府の態度はもっとも融和的であって、余程わが国と提携したい意向があるように見受けられた。 現に蔵相ウィッテ伯などほ、自分が露都に着いた翌日、彼れより早速来訪して極東問題に関し互に胸襟を開こうと申出た。外相ラムスドルフ伯もまたすこぶる鄭重な取扱いであった。
なかでも露国皇帝に拝謁したとき、皇帝は日露親和の必要を最初から仰出され、何とか両国間に折合のつくことを希望する旨お言葉があった。
こうして自分は、更にウィッテ伯と会談した折、伯は例の外交口調で、日露はどこまでも相親和しなければならぬと、きまり文句を並べたから、自分は早速これを打ち消し、そのような概括的な話は不用である。
両国意見の分れるところは朝鮮問題にあるが、両国ともにこの地方において勢力争いをするときは、到底衝突はまぬかれない。
したがって若し貴国が日本との親和を望まれるならば、朝鮮のことは一切日本の自由行動にまかせ、商工業はもちろん政治上におても軍事上においても日本のなすがままとし、万一内乱が起ったなら日本自ら兵力を入れて鋲圧することを承認してもらいたい。 このほかの方法では、遺憾ながら日露の親和は望まれないだろうと云ってやった。
ウィッテ伯は、全く自分の意見に同意し、自由行動のことも出兵のことも承認する代りに、日本が朝鮮の独立を決して傷けないこと、ならびに長く大兵を朝鮮に駐屯させて事実上の占領を行うような行動に及ばないことを約束してもらいたい、と述べた。 またラムスドルフ伯に会って、右の話をしたところ、それでは露国は何の得るところもなく、朝鮮を日本の保護国にしてしまう訳だから、篤と閣議に諮った上でなければ確答ができない、と云って一先ず立別れた。
が、その返事は追ってベルリンに差し越すはずである。なお両伯とは私交上の文通をして、互に意見の交換をする途をひらいておいたから、いつでも協商の談判を開始することが出来る。
露国の模様は、先ず右の通りであって、充分わが希望を入れさせる見込みがあるのに、今これを顧みずに、直ちに英国と捷携するは頗る早計ではあるまいかと思う。
よってこの趣きをくわしく桂総理と井上伯とへ電報しておいたのに、どういう訳か、12月7、日の元老会議で一同日英同盟に同意したとのことである。 あるいは自分の打電が会議前に到着しなかったのかも知れぬ。
ついては、いよいよ日本の修正案を英国政府に提出する前に、一応自分にも通知してくれるよう林公使に伝言してもらいたい。
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