太平洋戦争下の新聞メディア―60年目の検証(2)
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< 2005年2月> 「マス・コミュニケーション研究No.66」掲載
前 坂 俊 之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
5.太平洋戦争下の新聞
情報局は昭和一六年一二月八日の太平洋戦争開戦と同時に各新聞、通信社に対
し、「大本営の許可したるもの以外は一切掲載禁止」(戦況報道の禁止示達)という〝
大本営発表″と「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を
認識せしめ敵愾心高揚に資すべきものは許可す」(陸軍省令に基く新聞掲載禁止事
項基準) の二本立ての示達を出した。
同十三日に政府は、新聞統制を一層強化するため国家総動員法十六条によって
「新聞事業令」を公布、それまでの新聞各社の自治的統制機構であった「新聞連盟」
を解散させ、翌年二月に政府の統制機関「日本新聞会」を設立した。
一九日には「言論出版集会等臨時取締法」が公布された。「時局二関シ造言飛語、人
心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布シタル者ハ懲役二処ス……」という内容で、これで戦争の
実態は一切書けなくなってしまった。
新聞記者は自主的に判断して取材する自由を奪われた。極端な発表主義が横行し、
記者は発表ものだけを聞き、その印刷物を血眼で運ぶメッセンジャーボーイと化した。
真実の追及は無用どころか、逆に厳罰を受ける危険な仕事となって、自己規制したの
である。
当時の新聞社編集局内の様子について、戦後、読売新聞のコラム「編集手帳」の執
筆者で鳴らした高木健夫は「報道差止め、禁止が毎日何通もあり、新聞社の整理部
では机の前に針金をはって、差止め通達をそこにつるすことにしていた。このつるされ
た紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えるだけでも大変。頭が混乱してきた。
禁止、禁止で何も書けない状態になった」と回想する。(11)
2
厳重な検閲体制の中で、新聞社は前線から届いた原稿や写真(直ちに現像・焼つ
けして)すぐオートバイによって、陸軍省、海軍省、内務省にそれぞれ分けて、記事は
ゲラ刷りを二部、写真も二枚を提出した。
当局は厳しく検閲した結果、「許可」の場合は「検閲済」の判を押し、ダメな場合は
「不許可」にする。ある部分を削ったり、写真などボカして修正し、使っていいケースは、
「検閲済」となった。担当者では判断がつかず、翌日、専門家に判断をたずねる場合
は「保留」となった。
検閲の総本山・内務省警保局検閲課は1942(昭和十七)年五月当時で、八十五
人の検閲官が新聞、出版、映画などのメディアに監視の目を光らせていた。
一九四三 (昭和18)年度中の新聞の事前検閲は新聞のページの減少にもかかわら
ずかえって増加し、ゲラ刷り又は原稿によるもの約九万件(一日平均二百五十件)
で、そのうち不許可処分となりたるもの一万二千件、電話によるもの五万件(一日平
均百五十件) の合計十四万件に達した。(12)
このような徹底した検閲の一方で、新聞紙面の大部分を派手に飾ったのが大本営
発表である。これは途中からウソと誇大発表の代名詞ともなった。当時、新聞、軍報
道部関係者は大本営発表のことを朝刊、夕刊と呼んでいた。
「今日は夕刊は出ますか」「いや、明日の朝刊は三本だよ」といった調子で陸、海軍報
道部員と記者たちは会話した。
「黒潮会」は海軍省の記者クラブで、戦時中は新聞記者の花形のクラブであった。
当時の記者の証言する大本営発表の内幕は次の通りであった。
「われわれの仕事は、極端にいえば、ただ報道部の大本営発表を機械的に右から
左へ国民に知らせるだけのものなのだ。報道部長が発表文を読み上げ、それを筆記
して社へ速報し、さらに平出大佐のレクチェアを聞き、それを参考に解説記事を書く。
そこにはいささかの批判も許されない。発表文に矛盾があっても、追及することはでき
ない」 (13)
報道部は「この発表は第1面トップで扱ってもらいたい」
「これは1面四段の扱い。見出しはこれにしてもらいたい」
と注文をつけ、新聞側はそのまま従わざるを得ない。軍報道部の将校ににらまれたら、
3
記者は働けないばかりか、その新聞社まで不利益を蒙った。
連日の戦意を高揚する記事は「そこの将校の意思を紙面に大きく忠実に代筆するこ
とが肝心であった。『記者たちは原子爆弾の如きは白い物を着ていれば、少しも恐る
に足らず』というような陸軍将校の言葉を心の中で嘲笑しながら、紙面に特筆すると
いった具合となった」(14)のである。
● 「言論の統制」から「言論の構成」へ質的に転換
情報局のメディア統制は太平洋戦争初期の「言論の統制」から次なる「言論の構
成」へ質的に転換していった。情報局や陸海軍報道部が編集権に全面的に介入し、
指導したのである。
従来の禁止、示達といった一方的、強制的を言論統制から、情報局が「懇談」「依頼」
「説明」「内面指導」とさまざまな形で新聞社に働きかけて、両者が協働、一体化して
よりソフトに、より高度な方法での言論指導にあたるのが「言論の構成」(15)である。
“内面指導”とは情報局、陸海軍報道部などが新聞社幹部といろいろな問題につい
て懇談し新聞社側の能度を決定させ、これを取り締まりの基準とするもの。
具体的な方法としては、当時の代表的な新聞-東京朝日、東京日日、読売、都、報
知、中外、国民、そして同盟通信の入社に対して、定期、随意に編集局長会議、政治、
経済、社会部長会議を開催し、情勢や政策を説明し記事取材の内面指導を行ってい
た。
このは “内面指導”法的な措置ではないが、これに反した場合は発禁や注意を受
けたため、報道の手足を別の形でしばった。
情報局、陸海軍、官庁まで指導記事を書かせようと、指導、注文、懇談事項という形
で陰に陽にしばってきた。
「単なる禁止的統制の場合は書かなければそれですむのである。言論の構成段階で
は新聞側は心にもないことを書かねばならない。当局側の明示あるいは示唆にした
がってペンを走らせる段階に移っていった」 (16)
軍は発表ニュースの書き方を評論調に指導し「『何々すべし、すべからず』といった
指導記事を書くように要求した。
「社説などは今日無用の長物だ。記事を全部指導記事にすることが、読者を啓発する
4
最善の方法だ」、と力説した陸軍の将校さえ現はれた。いわゆるトップ記事なるものが
必ず指導記事であり、中佐や少佐の意見を代筆することになった」 (17)
6.戦う新聞人、新聞社は兵器工場へ
太平洋戦争下の新聞記者は〝戦う新聞人″と義務づけられ、新聞は思想戦を貫徹
するための〝紙の爆弾″と位置づけられた。新聞社は“新聞は兵器なり″として、ク
紙の爆弾″を製造する〝軍需工場”であり、戦争遂行、勝利のための一大プロパガ
ンダ工場と化したのである。
朝日新聞社の社員向けの 『朝日社報』をみると、毎号、トップに勇ましく叱咤激励
する村山長挙社長の訓示が並び、〝常在戦場″と化した新聞社内の雰囲気が伝わ
ってくる。
『新聞を武器として米英撃滅まで戦い抜け』 (昭和18年1月10日付) では、
「国民の士気を昂揚し、米英に対する敵愾心を益々輿起せしめて大東亜戦争を勝
ち抜くべく指導することは、本年におけるわれわれ新聞人に課せられた最も大なる使
命の一つだと信じるのであります」
このための新聞製作づくりの方針を「(論説と編集が)、多少の角度(違う) ができる
ことは敵を乗ぜしめ、場合によって国論が二つになる。はっきり政府と同列の線に入
って行くことが最も必要であります。
戦争に勝つまでの間は、ただ政府の行わんとするところをいち早く国民に知らしめ、
政府のいわんとするところを国民に伝え、国民をあくまで完勝に率いてゆくのでなけ
れば勝つことはできない、すべてを犠牲にして、ただ勝つための新聞を作ってゆく時
代になったと考えるのであります」(以上、『朝日社報』18年12月27日付)。
「どうか必勝態勢の成った、勝つための朝日新聞を掲げて、敵米英を徹底的にせん
滅すべく御努力御奮発を願います」(昭和19年1月号)
昭和一九年三月号では、必勝の信念に燃え、〝新聞報国″に邁進せよと檄を飛ば
し、太平洋戦争に入ってからの朝日新聞の役割を次のように総括している。
「艱難何ぞ恐れん、新聞報国に玉砕の決意・夕刊休止に関する村山社長の訓示」
の見出しで、「大東亜戦争勃発するや、本社は直ちに 『国内是戦場』 『挙社応召』
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の決意を固め、村山社長、上野会長、各重役をはじめ全従業員決起して 『新聞も兵
器なり』との信念を堅持して、報道報国のために挺身、朝日新聞の国家に対する使命
完遂に全力を傾倒しつつあり、新聞の決戦体制を整えるために率先して機構の大革
新を断行した。紙面は活気旺盛、真に思想戦の武器としての威力を遺憾なく発揮して
いる」
創刊五十七周年の記念日には「正に決死奉公の秋、国民精神振起に努力せよ」と
の見出しで、「国民の神経を太くし、更に協力一致、どこまでもねばりねばらしめて、こ
の戦争を勝ち抜く決意を、ますます強からしめるものは新聞の力をおいて他にないの
であります」(同年七月号)。
「敵が本土に上陸するというような事態になり、本土が戦場と化するという事態や、
いかなる場合でも、新聞としてはあくまで戦争一本でゆく、戦い抜くのだという態度を
はっきり申し上げておきます。われわれはただただ国民の戦意を昂揚し、戦争を戦い
抜くということが報道陣の使命であると考えます」(昭和二〇年六月号)
これが戦時下の新聞報道の実態であった。
7.記者の練成
一方、多数の記者が従軍記者として前線、戦地に派遣される中で、国内、銃後の記
者たちには戦う新聞人、皇国新聞人たる自覚を養うため新聞統制機関「日本新聞会」
は練成を実施した。
同会は記者規程を制定、記者の条件として、「国家観念を明徴にし、記者の国家的
使命を明確に把接し、かつ常に品位を保持し公正廉直の着たること」が要求され、こ
の条件に合わない場合は記者として登録されず、名簿からはずされた。これはその
後、記者登録制(一九四五年一月実施)へと発展していった。
記者の国体観念を一層明徴にするために、同新聞会は記者や新聞関係者に神道
の“禊″を錬成として行った。
錬成の目的は一体何であったか。
従来の営利的な新聞理念を脱却して、「全新聞の従業者が皇国新聞人たる自覚を
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体験を通して把握し、皇国新聞道を確立して決戦新聞を作製し、国家戦力の増強に
資する」ことを目標にしたもので、「禊、神拝等による修練方法」が採用された。
『朝日社報』(昭和一七年十一月号)によると、同社の印刷局長らが参加して日本精
神道場で行われたが、練成、楔のスケジュールは「五時三十分、起床、洗面、六時、
祓禊潜水、六時三十分、胡麻監湯、七時、国旗掲揚、入時、朝の拝神、九時、朝食
(玄米粥一椀)、十時、清掃、十二時、昼の拝神(講話)、十四時、産土神社の参拝、
十六時、惟神道講話、十七時、禊祓潜水、十人時、国旗降下、十人時三十分夕食
(玄米一椀)、二十時、座談会、二十一時、夕拝神、二十二時、就寝」といったもので
あった。
復古的な精神主義、日本主義、ファナティックなアナクロイズムが時代を覆い、新聞
記者もその毒気からも抜け出ることができなかった。(18)
外交評論家・清沢洌はさめた意識で当時の新聞とその報道ぶりを日記(『暗黒日
記』) に書きつけているが、「武器の近代化の必要に面している時、言論界は依然、
神がかり的である。どこに行っても戦争の前途に対して心配している」(一九四四年一
月六日付)
「近頃の新聞とラジオは、ますます精神的になっている。全然、見透しを謬った連中が、
とくい顔にのさばっている」 (同年二月十八日付) など時代の狂気を冷静客観的に
観察している。
8.記者の意識は……
このように戦争への道をたどり、敗戦へと転落していく過程で、新聞記者はどのよう
に考え、行動したのだろうか。記者たちの本音はどこにあったのだろうか。太平洋戦
争に至るまでの記者のおかれた状況について、山根真治郎はこう証言する。
「記者は5・15事件や2・26事件など軍の暴力に戦慄してペンを投げた。右翼によ
るひんぴんたる個人襲撃があり、特高と憲兵による無法極まる作業妨害が記者の頭
から思惟を取り上げ、記者の口を封印してしまった」。
「陸海軍省詰の記者はその異動すら社では行えなかった。一人の記者を動かすにも
陸軍報道部長は必ず社へドナり込んだ。情報局、陸海軍は記事の扱い方から見出し
7
の大小まで指導し、『勝手にしろ』というのが心ある記者の捨てゼリフとなった」(19)
太平洋戦争開戦から初期にかけての記者の意識は「前途は怪しいが、乗り出した
船だ。目的地の方向に漕ぎ続け、その力漕による精力発散を自らたのしむ、といった
ものであった。いわんや船のなかにピストルを持った監視人(軍のこと) がいて、怠
け者や不平分子を射殺する態勢であったから、新聞も一般国民も、とにかく全力で漕
がざるを得ない実情であった。」と伊藤正徳は回想する。(20)
太平洋戦争の中期になると、新聞人も大本営発表のウソを見抜き、勝利を信じなく
なった。「しかし、勝てないが、ドローン・ゲームは絶望ではない。軍事的形勢の上に
何がしかの潜在力が残っていることを示し、それを外交的に利用する外はない。その
ためには虚勢を張って、戦を続ける決意を如実にみせる必要がある。だから国民の
戦意を昂揚-というような無理を維持させて、飽くまで頑張らせるのだ」(21)
さらに、サイパン陥落、レイテ島を失いフィリピンの戦闘が開始され、B29 からの本
土爆撃が進行する戦争末期には新聞人も絶望した。
「しかし、強気の記者はどの新聞社にもあって、軍の勢をかりて勝利の信念を疾呼し、
紙面は依然として必勝的に染められていた。『行くところまで行く』といふ多少自棄的
な継戦論も支配していた。軍の鉄の統制下では、これ以外の編集は不可能でもあっ
た」(22)と伊藤は弁明する。
新聞は軍のプロパガンダ組織にがっちりと組み込まれており、軍部と新聞は一心同
体であった。編集面ばかりではなく、軍部との良好関係を築くことは営業面、資材面で
も絶対必要であった。両者は運命共同体であり、それは戦争下のあらゆる産業にみ
られた現象であった。
「軍人の中には宴席を好むものが多い。『一緒に飲む』という交歓が悪習をなし正視
するに堪えぬものがあった。何分にもオールマイチーの軍部であり、資材難の折柄、
万事につけて軍の諒解を得ておくことが営業的に必要であった結果、社をあげてこれ
に奉公するような新聞が現われた。それ程ではなくとも、多かれ少なかれ、この傾向
を否定する社は存在しなかったといっても過言ではなかろう」(23)
昭和二〇年八月十五日、戦争は終結した。朝刊で各紙は敗戦を大々的に報道した。
ポツダム宣言受諾までの経過が報道され、国民は初めて戦争の真相、大本営発表
の虚偽と、新聞がウソを書き続けてきたことを知らされた。
その日午後。朝日新聞編集局内では村山長挙社長が出席し、今後の編集方針に
8
ついての部長会議が開かれた。席上、細川隆元編集局長はこう述べた。
「今まで一億一心とか、一億団結とか、玉砕とか、米英撃減とかいう最大級の言葉
を使って文章を書き綴って、読者に訴えて来たのに、今後はガラリと態度を変えなけ
ればならない。これは致し方ないことだが、まあだんだんに変えていくことにしようじや
ないか。あんまり先走ったことはよそう。」(24)
村山社長も「それがよかろうな」と認めた。長谷部忠政治部長は「この際、新聞は百
八十度転換した態度をとるべきだという議論も出ているが、そう一ペんに現金な態度
の転換は良心が許さぬし、また読者にも相済まぬような気持ちがするから、あまり不
自然な敗戦迎合の態度はやめたい」(25)と述べ、暫進主義の報道方針が確認された。
ところが社内では、幹部の戦争責任追及の急進論が台頭して、ここに朝日未曾有の
大騒動が持ち上った。
9.結び
太平洋戦争開始は新聞メディアにとって完全に死んだ日、その告別式ともなった。こ
の直前にジャーナリスト・桐生悠々は八年間にわたり孤立無援でペンの戦いを続けて
きた個人誌『他山の石』を廃刊した。
国家総動員法の邪魔者であるとして当局から強く廃刊を迫られた桐生は自らガンで
余命いくばくもないとして「喜んで超畜生道と堕落した地球の表面から消え去ることを
歓迎する、戦後の大軍縮を見ることなく、この世を去るのはまことに残念至極」との壮
絶な廃刊の辞を残し、昭和20年9月、六八歳で憤死した。
超畜生道に堕落した世界、日本、人々の中でも、新聞記者はその最右翼であったと
いえる。桐生は最後となったコラム「科学的新聞記者」(『他山の石』昭和一六年九月
五日付)でこう指摘している。
「新聞は時の政府の反射鏡となり、与論を代表せず政府の提灯を持っているだけで
ある。その存在理由を失っている」
「記者たちは科学的な知識に全然、無智であるためか、神秘主義(神がかり主義)に
終始している、彼らは矛盾極まる統制の名の下に、これを職域奉公と心得ている」と
9
非科学的な行動に終始した記者たちを批判した。
以上見てきたところから、戦時下の戦争報道の特徴として次の点が指摘できる。
①桐生や清沢の指摘しているように当時の新聞には冷静、客観的な報道姿勢が欠
如していたこと、科学的、合理的な見方、考え方や多角的な視点がまるでなかったこ
とである。
逆に、非科学的な、神がかった思考、ナショナリズムや愛国心から発する一方的で
ヒステリックな記事にあふれていた。
確かに、中根、伊藤らが弁明するように大本営発表、軍などによる検閲、指導記事、
戦況記事を書くように強制されたことは事実だが、メディア側にもそれに同調する体
質がなければ、ここまで一心同体で戦争協力、新聞報国できるわけがない。
それ以上にメディア側が情報統制に積極的に加担、リードした数々の証拠がある。
②大本営発表や戦争報道の大部分はプロパガンダであり、ウソであり、いわば誤報
であったといえるが、新聞は読者に誤報を伝えてきた責任を感じていない。
「新聞は国による情報統制の国民とともに被害者であって新聞に戦争責任はない」と
いうのが山根や新聞メディアのトップの立場だが、国民へウソを報道し続けた加害者
となった責任の自覚が見られない。
③日本の新聞の事実を報道する客観報道主義、事実に迫り真実に肉薄、追究してい
くという使命感、ジャーナリストの職業意識、倫理観の希薄さが国民への加害責任の
無自覚、忘却とセットになっている。それは検閲がなくなり、自由に書けるようになった
戦後でも戦時下の報道の実態、大本営発表の真実、検閲のすべてを検証した記事
が少ない点にも表れている。
各新聞社の社史をみても、戦時下の報道については新聞被害者論の立場から、あっ
さりとかたづけて、なぜ言論統制に屈したのか自らの弱点には目をつぶっていると思
う。
国民に情報、真実を伝え、権力へのチェック機能を果たすと同時に、自ら冒した誤り
にも目をつぶらず公正に報じていく勇気こそジャーナリズムに求められる。
④戦争での記事、報道についての戦時検閲は日本だけではなく米、英国はもちろん
どの国も行ったことである。検閲の有無ではなく情報統制の範囲、検閲の範囲がどこ
まで及んでメディアが統制されたのかが問題である。
10
戦争報道で一番大切なのは速報以上に、時間差のプロパガンダをチェックしていく検
証記事であり、速報主義の戦況報道に自縛されてはならない。
⑤戦時下でメディアが「死んでしまった日」になった原因の一つは新聞の速報主義に
ある。一刻も早く戦況を報道することが至上命題となり、軍部が暴走して次々に、戦
線を拡大して既成事実を作っていくのを、事実確認することなく、メディアも政府も追
認して気がつけばとんでもないとこまで押し流されている。
事実を徹底して検証、確認せず、速報主義のワナに落ち込んで、ジャーナリズムは自
らの首を絞める結果となった。
現代の戦争報道ではメディアのスピードは一層加速し、新聞からテレビ報道、さらに
24時間ライブ放送というリアルタイムの速報性、同時性の時代を迎えているだけに、
速報されたものを、もう一度フィードバックして、事実を再検証していく作業がますます
重要になってくる。
今回のイラク戦争報道でも米国の「ニューヨーク・タイムズ」などは自らの記事の間
違いをフィードバックして半年、一年後に訂正、再検証する詳細な特集記事を掲載し
ていたが、日本の新聞にはこうした姿勢が弱い点が気になる。
(注)
(1) 前坂俊之(一九八九)『戦争と新聞-兵は凶器なり』 (一九九一) 『戦争と新聞
―言論死して国ついに亡ぶ』社会思想社、でこの間の経過は詳述している。
(2) 昭和18年8月31、9月2日付『日本新聞報』山根真治郎『検閲』
(3) 山根真治郎(一九五二)「新聞法制史」『新聞の自由』新聞協会編 岩波書店
(4) 熊倉正弥(一九八二)「新聞の死んだ」日-朝日ソノラマ』 三六、三七頁
(5) 宮本吉夫(一九七五)「戟時下の新聞再編成⑤」『新聞研究』一二月号
(6) 「軍部や革新官僚と気脈を通じ、共鳴した言論、報道人はけっして少なくはなかった。日独伊三国
同盟は世界大戦への重大な一歩だったが、これを熱狂的に支持、歓迎した言論・報道人も多い。私は
夢遊病的心酔の状態と思っていた。近来の中国の文化大革命以後の日本の状況をみた時、いつの時
代にも夢遊病的心酔者の大群はあるものだと思った」熊倉(一九八二)、三六頁
(7) 前坂(一九九一) の「国家総動員法の落とし穴」127-135頁で詳述している。
(8) 御手洗辰雄(一九五二)『新聞太平記』鱒書房168-169頁
(9) 御手洗(一九四四)「日本新聞会便覧」日本新聞会12月刊162-179頁
(10)法政大学大原社会問題研究所編著(1965)『日本労働年鑑特集版太平洋戦争下の労働運動』
11
労働旬報社
(11) 前坂(一九八九)四五-四六頁
(12)松浦総三(一九七五)「戦時下の言論統制」白川書院 一〇八頁
(13)岡田聴(一九七六)『戦中∴戦後-新聞記者三五年』 図書出版社七〇頁
(14)伊藤正徳(一九四七)『新聞五〇年史』鱒書房二六〇頁
(15)熊倉正弥(一九八二)『朝日新聞記者の証言八/新聞の死んだ日々』朝日ソノラマ 三七-三人
頁
(16) 同書、三七-三八頁
(17) 伊藤、前掲書、二六一頁
(18)石川勝司(一九四二)「報道戦士(非売品)」日本新聞会
(19)山根は昭和1811月に東京新聞編集局長に就任、日本新聞協会付属新聞学院長。山根(194
5)「新聞に戦争責任はあるか」(日本新聞報…二月三、六日付)
(20)伊藤、前掲書、二四〇-二四一頁。伊藤は時事新報編集局長同盟通信参与、中日新聞編集局
長
(21) 同書、241-242頁
(22)同書、241-242頁
(23)同書、242頁
(24)‥細川隆元(一九五八)『実録朝日新聞』中央公論社二四〇-二四一頁
(25) 同書
<以上禁転載>
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