オンライン/藤田嗣治講座②』★「最初の結婚は美術教師・鴇田登美子、2度目は「モンパルナスの大姉御」のフェルナンド・バレー、3度目は「ユキ」と名づけた美しく繊細な21歳のリュシー・バドゥ』★『夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちと乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日14時間以上もキャンバスと格闘していた
2023/09/05
2008年3月15日 「藤田嗣治とパリの女たち」
前坂 俊之(評論家)
1886(明治19)年11月,藤田嗣治は東京で陸軍軍医の父・嗣章,母・まさの4人兄弟(姉2人、兄)の末っ子で生まれた。
嗣章は森鴎外の後に陸軍軍医総監になった。5歳のとき、母は病死し、嗣治は長姉・きくのもとで育てられた。自然と女の子と遊び、母親代わりの姉に添い寝して育った。
この母親喪失と母親慕情の生い立ちが、その後、異邦人となり、自らを強い愛情で包んでくれる女性をもとめて生涯、女性遍歴を繰り返す原点となったのであろう。
画家志望に理解を持った父は嗣治のフランス留学を鴎外に相談したが、「日本画壇には様々な事情があるので、まず東京美術学校〔東京芸大〕を出てから渡仏したほうがよい」との忠告で、同校西洋画科に進学する。
1910(明治43)年に卒業したが,卒業制作は黒田清輝教授から酷評された。
その後、美術教師・鴇田登美子と結婚するが、1年余りで破綻して妻を残し、1913年(大正2)単身パリに渡りモンパルナスの安アパートに移り住んだ。仕送りが途絶え、3日間何も食べるものがなく水だけ飲んで1日1フランで暮らすというどん底生活の修行時代を耐え忍んだ。

1917年3月に同じモデルで「モンパルナスの大姉御」といわれたフェルナンド・バレーと二度目の結婚をする。藤田の成功はこのバレーなくしてはありえなかった。
バレーは全く売れない無名の藤田の絵を一軒一軒画商を回って熱心に売り込んでは生活費を稼いだ。
最初に売れた絵はわずか7フランしかならなかった。
夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちとの乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日十四時間以上もキャンバスと格闘して「フジタにはお茶とクロワッサンを用意したら、あとは何もすることがない。絵を女房としているのよ」とバレーを嘆かせたほど新しい画法の研究、製作に没頭していた。
苦節7年。
一九二〇年(大正9)には「モンパルナスの女王キキ」をモデルにした大作「寝室の裸婦キキ」を完成する。
「裸のマヤ」のような構図で、日本画のような乳白色の地色に黒い輪郭線を引き、その中から夢幻の裸像を浮かび上がる傑作。
「乳白色の肌」「すばらしい白地」と絶賛され8千フランで売れ、一躍、「パリ画壇の寵児」にのし上がる。あとは『エ・コールド・パリ』の巨匠への階段を駆け上り、『レジオン・ドヌール勲章』「レオポルド勲章」と次々に栄誉に輝くが、その栄光の影にはいつも新しい女性が付きまとった。
バレーやキキにも細やかな愛情を示すなど藤田は女性に優しい男であった。
そんなやさしさに魅かれて、藤田のアトリエに美しいモデルや画家が多数集まり、自由奔放な恋愛が生まれ、それがまた藤田の創造の源泉となったのである。
24年(同13)、妻のバレーは藤田の所に出入りしていた日本人画家と不倫して、藤田は離婚して、すぐ、次の藤田が「ユキ」と名づけた美しく繊細で、男勝りのたくましいバレーとは正反対の21歳のリュシー・バドゥと再婚した。離婚再婚を繰り返す藤田の女性ゴシップに日本の美術界は一層白い目を向けた。
昭和4年、藤田は16年ぶりにこのユキを伴って帰国して、個展を開いたが、約6万人が押しかける超人気ぶり。この帰国途中の立ち寄ったニューヨークで「女と猫を描くのはどんな関係ですか」の米記者の質問に対して、
「女はまったく猫と同じ。可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っかいたりする。女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじやないですか」とジョーク交じりに答えて話題となった。
しかし、この『ユキ』という女性も酒癖が悪く、自由奔放な性格で再び不倫を起こして離婚してしまう。
1931年(昭和6)にはマドレーヌという新しい愛人を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かったブエノスアイレスでは個展会場で、何と1万人がサインのために行列してニュースとなった。藤田の女性遍歴は生涯連れ添った君代夫人と結婚するまで続く。
ところで、藤田の女性への優しさを示すエピソードは数多くある。戦後パリに戻った藤田夫妻のもとに前夫人バレーやユキは連れだって度々訪れてきては無心したが、腹を立てた君代夫人をなだめながら藤田はかつての女性たちを精一杯もてなしていた、という。
バレーは最晩年になっても藤田とのかつての交情をしのんで、日本人を見つけると藤田の思い出話をしながら、多分、藤田から教わったのであろう「妻を娶(めと)らば才長けて・・」の歌を日本語で歌い涙していた、と河盛好蔵は書いている。
関連記事
-
-
昭和天皇の長寿の秘訣は? その食事と健康法は・・・
『別刷歴史読本』「晩年長寿の達人たち」07年11月号 昭和天皇の長寿の秘訣は? …
-
-
『オンライン講座/日本興亡史の研究 ⑭ 』1904年(明治37)/2/4日、日露戦争を決定する御前会議が開催』★『明治天皇は苦悩のあまり、10日ほど前から食事の量が三分の一に減り、眠れぬ日が続いた』★『国難がいよいよ切迫してまいりました。万一わが軍に利あらざれば、畏れながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要のときです。このままロシアの侵圧を許せば、わが国の存立も重大な危機に陥る(伊藤博文奏上)』
2017/07/22 「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパ …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ㉜』◎BBCのネルソンマンデラ弔文記事“武闘派から一転、 聖人君子の道へ”②(12/5)
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ㉜』 ◎BBC …
-
-
ナショナルジオグラフィック協会会長に就任した ゲーリー・ネル氏の記者会見(5/12)「意見よりも事実の提示を」
ナショナルジオグラフィック協会会長に就任した ゲーリー …
-
-
日本リーダーパワー史(691) 『中国/朝鮮行動学のルーツ⑥』『中国紙『申報』 からみた「中国が行っている冊封の儀と 属国の国力強化について」(1884(明治17) 年2月9日付)
日本リーダーパワー史(691) 『中国/朝鮮行動学のルーツ⑥』130年前の『中国 …
-
-
日本リーダーパワー史(768)『金正男暗殺事件にみる北朝鮮暗殺/粛清史のルーツ』福沢諭吉の『朝鮮独立党の処刑』(『時事新報』明治18年2月23/26日掲載)を読む②『我々日本の人民は今日の文明において治にも乱にも殺戮の毒害を見ず、罪を犯さざる限りはその財産、生命、栄誉を全うしているが、隣国の朝鮮を見れば、その野蛮の惨状は700年前のわが源平の時代を再演している』
日本リーダーパワー史(768) 『金正男暗殺事件にみる北朝鮮暗殺/粛清史のルー …
-
-
『オンライン講座・延々と続く日韓外交衝突の研究』★『2012年8月、野田首相の親書の発信とその受け取りをめぐって拒絶、つき返す、外交的非礼に反発応酬の後進国同士のようなニワトリケンカ外交が続いた」★『160年前の明治新政府の最初の李氏朝鮮(韓国・北朝鮮)との外交交渉でも日本親善大使の拒絶、親書拒否に対して、日本は反発、敵意をエスカレートしたのと同じケース」を今も繰り返している』
2012/08/24 日本リー …
-
-
日本の最先端技術「見える化」/チャンネル世界中のロボットメーカーで最も注目されている会社「MUJIN」はロボット自動倉庫構築(無人工場)のプロフェッショナル
日本の最先端技術「見える化」チャンネル 第3回ロボテックス展(1/16、東京ビッ …
-
-
百歳学入門(61)地球物理学者で地震学を確立、航空工学を創始、ローマ字を普及させたマルチ東大教授田中館愛橘(95)
百歳学入門(61) 「地球物理学者で地震学を確立し、航空工学を創始 …
-
-
日本リーダーパワー史(293)『凶刃に倒れた日本最強の宰相・原敬の清貧の生活、非業の死、遺書、日記』⑤
日本リーダーパワー史(293) 『凶刃に倒れた日本最強の宰相・原敬 …