百歳学入門⑦<クイズ>長寿で最後までリーダーパワーを発揮した日本の政治家は誰ですか①!?
百歳学入門⑦<クイズ>長寿で最後までリーダーパワーを発揮した政治
家は誰ですか①!?
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
政治家の長寿脳の鍛え方は・・・
『では、政治家、芸術家、そのほかの晩年長寿の達人を上げてください。」

「議会政治の父」、「憲政の神様」と謳われている尾崎は明治二十三年(一八九〇)七月のわが国初の総選挙で当選。以来、連続当選二十五回、昭和二十八年まで六十三年間にわたって議員生活をおくり、翌年十月、96歳で亡くなっています。
七十歳を超えても、尾崎の気力は一向に衰えず、軍部の暴走を批判し、五・一五事件で僚友の犬養毅首相がテロに倒れた後は、一人体を張ってファシズムに抵抗しています。昭和十七年、「売り家と唐模様で書く三代目」との演説によって不敬罪で起訴され、八十五歳で巣鴨刑務所に拘置されます。戦後は日本を代表する民主主義者として評価はウナギ登りで、昭和25年、九十三歳で四十日間にわたって渡米して、『ニューヨークタイムス』『ニューズウィーク』など米マスコミは尾崎を「日本の良心」と賛えています。
九十二歳のときの食生活はこうですね。「朝は太陽と共に起きる。七時頃朝食。やき餅の入った味噌汁一椀、野菜二品、タマゴ一個、トースト一片、チーズ少々。八時過ぎに新聞(朝毎読3紙)がくると書生が記事を1つ1つ読みあげ、尾崎は補聴器を用いて聞くが、二時間以上かかる。昼食は十一時半、夕食は五時。午前九時頃と午後二時すぎに、コーヒーか紅茶とチョコレートを入れた牛乳1合。昼も夕も野菜二品、麦飯ごく少し。果物はミカン、リンゴでも皮まで食べ、汁をまず目の上から顔中、手という順序でこすりつけ、目に非常に効果があった」とか、書いていますね』
終戦の大混乱を乗り切り、引退後は悠々自適・吉田茂・・89歳
「昭和戦後では吉田茂(18789月22日―196710月20日)、89歳でしょう。敗戦、GHQによる占領、終戦の大混乱を乗り切って独立、自民党の基礎を作って奇跡の高度経済成長のレールを引いた彼こそ政治家ナンバーワンですね。その政治力、外交力、実行力もその後に粗製乱造された総理大臣とはケタ違いですね」


「確かに、吉田茂は遅咲き。太平洋戦争で負けなければ、吉田は一介のへそ曲がりの外交官として生涯を終えていたでしょう。敗戦という未曾有の国難に一時、囚われの身だった吉田は一挙に歴史の表舞台に返り咲き、六十五歳で宰相になった。普通ならばとっくに引退し、第二の人生に入っている年齢です。もともと政治への野心はなかった。
公職追放の鳩山一郎から自由党党首の後事を託された際、吉田は「人事に口をはさむな」「やめたいときはいつでも辞める」など虫のいい条件を出していやいや引き受けています。
昭和二十一年(一九四六)五月、第一次吉田内閣が発足したが、吉田の心境は正にマナ板にのった鯉です。昭和35年5月、マッカーサーを訪問。鈴木貫太郎前首相からの忠言「いさぎよく、負けつぶりをよくすること」を心に刻み「戦争で負けて、外交で勝った歴史はある」と外交力に最大限の力を注ぎます。
新たに支配者となったマッカーサーと五分の外交を展開、そのユーモアとジョークでマ元帥の信頼を一挙に勝ち獲った。マ・天皇会談が十三回なのに対して、吉田は合計七十五回も面会しており、いかに強い信頼関係で結ばれていたかを示していますね。
強力なリーダーシップと戦略で吉田政権は七年余の長期におよび、大混乱期をみごとに乗り切り、廃墟と飢えの中から経済、社会を奇跡的に再建し、高度経済成長の基礎を築いた。当時、「全面講和か」「単独講和か」で国論は真っ二つになっており、吉田の「早期単独講和」、日米安保条約締結の決断がなければ、日本の独立はもっと遅れ、こんなに早く経済大国になることはなかったでしょう。
その点で、「終戦後の大混乱を上手く乗り越えられたのは、天皇陛下と、日本を理解してくれたマ元帥のおかげである」と深く感謝し、周囲に常々話していたといいます。
昭和二十九年十二月、「造船疑獄」で吉田は政権を投げ出した。すでに七十六歳。神奈川県大磯の三万六千坪という広大な邸宅「海千山千楼」に引っ込んで、悠々の晩年を送っています。その名の由来は「訪問者が海千山千の連中ばかりなので……」と彼一流のユーモアで煙に巻いた。退陣しても、政権運営している吉田学校の教え子たちから、〝元老″に祭り上げられて、大磯詣での政治家、要人は引きも切らずの、その〝リモート・コントロール″が話題となっています。
この大邸宅の効用は「このごろは外国からのお客さんを接待するものがいなくなったからね。以前は三井や住友がやっていた。それを今は吉田財閥がやっているわけさ」とか。
二階の居間兼書斎からは、吉田の大好きな富士山と相模湾がパノラマのように一望できた。当時珍しかった曲面ガラスを使用したサンルームもあり、どの部屋からも富士山が見えるように設計してあった。この広大な邸宅で、政治の行く末を見守りながら、後添えのこりんと住み込みの執事、コック、看護婦ら六人の使用人と悠々自適の日々を過ごしています。
トレードマークの和服、白足袋、葉巻は相変わらずで、新聞は毎日『ロンドン・タイムズ』に目を通し、愛読書は英国のユーモア小説や捕物小説『銭形平次』、食事ではウイスキーとビーフステーキなどを欠かさなかった。
吉田は長い外交官生活から美食家と思われがちだが、そうではなかった。ただ、食には彼一流のこだわりがあった。アルコールは日本酒、ウイスキー、コニャック、ワイン、シェリー酒など何でもござれ。ただし、ウイスキーはジョニーウォーカーの黒、シェリー酒はスペインもの、ワインにもうるさかった。昔は日本酒一点ぼりだったが、酒の肴はウニ、カラスミのたぐいはだめ、サシミも厚いものより薄手を好んだ。八十歳を過ぎてからは、その日本酒もプツツリやめて洋酒一辺党になった。好物は目玉焼き、豆腐、湯豆腐、はんぺん、いもの煮っころがしなど。
吉田の長寿は、ひとえにその気概にある。大久保利通、岳父の牧野伸顕(宮内大臣)の家系からくる国士、臣茂と揮毒した愛国者としての強烈な国への思いである。
西ドイツのアデナウアー首相の「常に何かひとつ、しゃくの種をもっていることこそが、長寿の秘訣だ」との言葉を愛し、「長生きの秘けつ!だって、そりゃカスミを食うことだよ、いや人を食うことだな」と冗談を飛ばしては大笑いしていたといいます。
昭和三十八年十月、八十五歳となった吉田は政界から完全に引退した。しかし、〝大磯参り〟が政界の流行語になり、静かな楽隠居というわけにはいかなかった。依然、吉田は日本での最高実力者であった。難しい外交問題が最後には持ち込まれ、吉田も老体に鞭打って奔走した。
昭和三十九年二月には、日中貿易、政治懸案を処理するため、首相の特使として台湾に飛び、蒋介石とさしで会談して、解決した。その二カ月後の四月五日、マッカーサー元帥が亡くなった。周囲が海外旅行での健康を心配する中で、直ちに娘の麻生和子を連れて米国に飛び立って葬儀に列席した。何が何でも、「マ元帥の恩義に日本を代表して感謝しなければならぬ」という一念だった。
吉田のジョークは終生変わらなかった。昭和三十九年十一月、赤坂離宮での観菊会に出席。「大磯は、暖かいだろうね」とのお言葉を賜った。「はい。大磯は暖こうございますが、私の懐は寒うございます」と答えると、天皇はキョトンとしたまま。従者の説明に天皇もやっと意味を了解し、二人は大笑いになった。
最晩年の一日のスケジュールは朝十時に朝食、ひと休みして庭を散歩、付き人と江ノ島などをドライブし、午後一、二時の昼食は来客との会食、昼寝1時間、夕方散歩、夕日を楽しむ、7時ごろから夕食、9時ごろまでテレビを見る、午後十時前に就寝となっていた。
吉田はフロ好きだったが、晩年は看護婦たちが心臓の悪化をおそれて入れさせなかった。イスに吉田をすわらせ、そのままフロの中に入れたこともあった。
同じ年、人に支えられて歩くのをきらった吉田は階段の上り降りもできなくなった。そのため、邸内にエレベーターを作ることになった。しかし、「来客がうるさくて失礼だ」と吉田がしばしば工事を中断させ、ついに完成しないまま亡くなってしまった。
同じ年の昭和四十一年、吉田は心筋梗塞で入院したが、娘の和子が見舞いに行って、冗談交じりに、「ヤーィ、とうとう腰が抜けちまったじゃないの」と、からかった。すると、吉田はベッドに臥せたまま「なアに、腰が抜けたんじゃない。やっと、腰がすわったんだ」と言い返して、二人して大笑いになった。
ついに最晩年が訪れた。気分のいい朝は太平洋を望む別邸の高台までこりんと散歩し、ベンチに腰かけて、しばらく相模湾や富士山を眺めながら時間を過ごしていた。岳父の牧野伸顕(大久保利通の次男)は昭和二十年に八十八歳で亡くなっており、「やっと親父の齢に追いついたな」ともらした吉田は昭和四十二年十月二十日に亡くなった。享年八十九歳。戦後初の国葬で送られていますね。
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