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片野勧の衝撃レポート(60)戦後70年-原発と国家<1952~53> 封印された核の真実ー原爆報道が一気に噴出①

   

片野勧の衝撃レポート(60

 戦後70年-原発と国家<1952~53>

封印された核の真実ーー原爆報道が一気に噴出①

第2次大戦後、わが国はGHQ(連合国軍総司令部)の命令によって、原子力の研究は禁止されていた。しかし、昭和27年(1952)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は7年ぶりに独立を果たし、自由な報道が許された。
タブーとされた原爆報道も、今までの怨念が一気に爆発するような形で噴出した。一種の原爆ものブームの観があった。写真誌『アサヒグラフ』8月6日付』の「原爆被害の初公開」特集号、峠三吉編『原子雲の下より』、山代巴編『原爆に生きて』などが出版された。さらに映画では『原爆の子』『ひろしま』『長崎の鐘』などが上映された。丸木位里・俊子製作の『原爆の図』の展覧会も全国を巡回した。
私は『アサヒグラフ』を見るために都立の多摩図書館を訪ねた。都立多摩図書館は一般雑誌から学術雑誌まで約1万6千誌を揃えているが、その写真誌を渡されるときに職員から、「この資料は傷みが著しいので、お取り扱いには、ご注意ください」と言われた。なるほど、淡く赤茶色に変色して劣化が進んでいた。多くの人間の目にふれたのだろうか、触ると今にも擦(す)れきれそうだった。
私はそっと1ページ目をめくった。思わず目を覆いたくなるようなショッキングな映像が飛び込んできた。全26ページ。原爆投下直後の広島、長崎の被爆者らの写真で埋め尽くされていた。

「アサヒグラフ」異例の70万部が売れた

全身焼けただれ、仰向けに寝かされている人。虫の息で幾日も生き延び、「水! 水!」とあえぎながら息を引き取った人。一瞬にして天守閣もろとも吹っ飛んでしまった広島城……。巻頭にはこう書かれていた。
「広島、長崎両市の写真を特集するのは単なる猟奇趣味の為ではない。一編集者の趣味や性向を、はるかに越えた冷厳な事実――即ち歴史が、それを命ずるのである」と――。
GHQの検閲で日の目を見ることのなかった、この写真誌は当時としては異例の70万部を売ったという。写真を撮影したのは朝日新聞大阪本社の写真部員、宮武甫(はじめ)や松本栄一ら数人のカメラマンだった。
宮武は原爆投下3日後の8月8日に広島入りし、丸2日間、被爆者にレンズを向けた。しかし、そのフィルムがGHQの検閲で没収されることを恐れて、7年近くも大阪市の自宅に保管していたという。彼は社内報にこう書いている。
「進駐軍から『原爆関係の写真を提出せよ』と命令があった。デスクからフィルムは一切焼却してくれと申し渡されたが、聞き流して自宅の縁の下に隠しておいたため、没収の難は免れた」(中日新聞社会部編『日米同盟と原発』)

日本が独立した1952年はどんな年?

日本が独立し、原爆の惨状が広く世に知られた1952年という年はどんな年だったのか。条約発効後の5月1日、第33回メーデーは暴動化し、「血のメーデー]となった。「ヤンキー・ゴーホーム」の声が明治神宮外苑に集まった50万人の中から聞こえた。
デモ隊約6千人が警官隊約5千人と乱闘。1230人が捕まり、2人が死亡した。学生、労働者がアメリカ支配に対して血を流したのである。このころ、イギリスにも原子爆弾ありとチャーチル首相が発表したのも、52年だった。
経済に目を転じれば、経済成長率は実質11・7%と3年連続で2桁成長を記録した。国民総生産(GNP)も戦前水準の98・6%に回復した。9月16日、電源開発促進法によって電源開発株式会社(電発)が設置された。日本電電公社も発足した。
新聞に「全ページ広告」が頻繁に登場した。NHK、民放ともテレビ放送が始まるというのでPR時代が本格化してゆく。ラジオ契約台数は1千万台を突破。一家に複数のラジオが常識だった。

朝鮮特需で急速に復興進む

翌53年2月、NHKがテレビの本放送を開始した。日本テレビ網(NTV)も、これに続いた。菊田一夫原作のNHKラジオドラマ「君の名は」が放送されたのも、このころである。冒頭のナレーション「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして想う心の悲しさよ」は、いたるところで人々の口の端に上った。
「リンゴ追分」「芸者ワルツ」「ああモンテンルパ」なども愛唱された。軍艦マーチ、文庫本、美空ひばり、社用族、チャンバラ映画・女剣劇、ボクシング、三等重役、山びこ学校、パチンコなどがブームになった。
東京・銀座に森永製菓が大型の地球儀ネオンをあげ、庶民は「豊かさ」を実感。よりよい暮らしを求めていく。それに拍車をかけたのが、朝鮮特需。急ピッチで戦後復興は進んでいった。

再開された原子力研究

このような状況の中で、占領時代、GHQから禁じられていた原子力研究も解禁された。1952年4月20日付「読売新聞」朝刊は「科学技術庁を新設」というタイトルの記事を1面トップで報じた。吉田茂首相(当時)は日本の科学技術の早急な向上を図るために、総理府内に科学技術庁の新設を決意したというのだ。
しかし、一方、同記事のサブタイトルにもあるように、「再軍備兵器生産への備え」という懸念もあった。
記事はこう書いている。
――吉田首相の抱く構想としては、現行の総理府外局の科学技術行政協議会を発展的に解消し、これに通産省工業技術庁や農林、文部両省の管轄下にある177の科学技術関係機関を統合し、科学技術庁に一本化するというもの。その狙いは、学界と工業界とが分離している現状を統一連結させようとするもので、戦時中の技術院のようなものを考えていたらしい。
その一方、首相のこの決意は内外の情勢から結局、日本の再軍備は不可避とみて兵器をふくむ軍需品の国内生産の必要性を痛感したことによるとみる向きが多い。自衛隊の前身となる保安隊(予備隊)を1952年10月に5万人規模にすることも決定した。自衛という名の下での再軍備である。
この科学技術庁設立構想に日本学術会議会長の亀山直人は「産業に研究を活用する面にばかり重点をおかれては困る。人文科学、基礎科学まで広く学術行政を含むものならいい」と。また東大の尾高朝雄教授は「主旨に異存はないが、余り権力を持たせると研究統制へ傾くし、余り軽くするとスタック(科学技術行政協議会)の二の舞になる」と(『朝日新聞』1952/5・17付)。
当時、米ソの対立で日本を極東における共産主義の防波堤にしようと再軍備が進められていた、いわゆる「逆コース」の時代。しかし憲法第9条により、再軍備ができないとの見解を取っている中で、吉田首相率いる与党・自由党の若手、前田正男は1952年6月、日本学術会議との会合で科学技術庁の設立を提案した。前田の設立趣意書に、こう書いてある。
「敗戦直後鈴木総理大臣は“今次戦争は科学によって敗れた。こんどこそは科学を振興して日本の再建を図らねばならない”と力説せられたことを記憶している。その後7年も経過したが、国民はこの科学の振興にいかほどの努力をはらい、その結果科学の振興がいかほど実行されたか、深く反省する必要があると思う。云々」(『朝日新聞』1953/1・6付「論壇」松浦一)

政治主導による原子力研究

さらに前田は「総理府の外局とし、長官には国務大臣をあて、その目的は原子力と航空機の研究開発にある」と明言した。政治主導による原子力研究である。しかし、それは国家権力で研究を統制し、軍事技術で研究者を動員しようという懸念があった。
学術会議は第4回総会(1952年10月23日)で科学は戦争に勝つためのものではない。それゆえに「戦争のための研究は行わない」との声明を出した。この科学技術庁設置の前田提案の真の狙いは何だったのか。
前田は1947年の衆院総選挙で旧奈良県全県区から無所属で出馬し初当選。当選11回。その後、日本自由党→民主自由党→自由党を経て、1955年の保守合同による自由民主党結党に参加。1976年の三木改造内閣の科学技術庁長官として初入閣した。
科学技術庁構想をぶち上げる前年の51年、前田は渡米。国防総省の科学技術振興院や、東京電力福島第一原発を日本に導入したゼネラル・エレクトリック社(GE)の研究施設などを視察した。帰国後、前田は「日本産業協議会月報」(52/5)にこう書いている。
「白亜館の連絡員は『国防省に科学研究振興院を設置し、軍事研究に関して政府所属機関の研究と委託研究の有効利用を図っている。このことは米国だけでなく、自由主義国家に推し進めていきたい』と述べた」(前掲書『日米同盟と原発』)

政府から独立した学術会議だったが……

日本学術会議が発足したのは1949年1月。基本理念は「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業および国民生活に科学を反映、浸透させることを目的とする」(三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書)と。
学術会議は政府から完全に独立した学者の集まりで、学術上の提言を政府に対して行う機関であるとされていた。つまり、政治とは一線を画した独立の機関だったのである。
「しかし……」。
前田提案に賛成したのが阪大教授の伏見康治と学術会議副会長の茅誠司だった。2人は「原子力問題の検討について」なる資料を配布して、政府内に委員会の設置を共同提案し、総会の了承を求めた。
茅は東京高等工業学校(現・東京工業大学)を経て、東北帝国大学理学部卒業。専門は強磁性結晶体の研究。日本学術会議議長、東京大学総長などを歴任。戦前から原子力研究に携わり、「日本は原子力の研究を再開すべき」と主張していた。

原子力の平和利用を夢見ていた男

一方、伏見も1934年から大阪帝国大学理学部物理教室で原子核実験に携わり、湯川秀樹と並ぶ、わが国原子核物理学の草分けの一人。後に学術会議会長などを務めた。GHQが京都帝大の原子核の実験装置「サイクロトロン」を破壊した時、その現場にいた一人でもある。彼はエネルギー源として原子力の平和利用を夢見ていた男で、「原子力憲章草案」なるものを書いた。
その前文は「日本国民は、原子爆弾によって多くの同胞を失った唯一無二の国民として、世界諸国民と共にこの惨虐な兵器が再び使われることなく、科学の成果が人類の福祉と文化の向上のために開発利用されることを強く祈念する」と (伏見康治『時代の証言』同文書院)
この原子力憲章草案を書く前に伏見はアメリカの経済学者の分析を一部、引用して、こう主張している。「原子力の特質は少量の燃料の中に莫大なエネルギーが潜んでいるところにあるので、エネルギー資源のない国や、僻地の土地(離れ小島や南極大陸など)に適している」と。

伏見・茅提案は却下された

科学技術庁設置の前田提案に対して、学術会議は荒れに荒れた。名古屋大学の坂田昌一教授や広島大学の三村剛(よし)昂(たか)教授らは猛反発した。なかでも、急先鋒だったのは三村。彼は広島の原爆被害者の一人で、首筋に火傷の跡があった。爆心地からわずか1・8キロの自宅で被爆し、九死に一生を得たが、同僚研究者や多くの教え子を亡くした。
そうした経験から三村は原子力の研究は軍事に利用されることを危惧し、「原子核研究は再開すべきでない」と真っ向から反論した。三村の証言。
「われわれ日本人は、この残虐なものは使うべきものでない。この残虐なものを使った相手は、相手を人間と思っておらぬ。相手を人間と思っておるなら、落し得るものではないと私は思うのであります。ただ普通に考えると、二十万人の人が死んだ、量的に大きかったかと思うが、量ではなしに質に非常に違うのであります。しかも原子力の研究は、ひとたび間違うとすぐそこに持って行く。しかも発電する――さっきも伏見会員が発電、発電と盛んに言われましたが、相当発電するものがありますと一夜にしてそれが原爆に化すのであります」
こう述べて、原子力研究に取り組むのは米ソの緊張が解けるまで待つべきであると主張した。三村の目には涙が光っていた。後に「涙の大演説」と言われ、三村に多くの支持が集まり、結局、伏見・茅提案は、圧倒的多数の反対で却下され、新たに第39委員会を設けて継続審議とした。第39委員会の初代委員長は哲学者の務台理作(文理科大学教授)。
伏見・茅提案で問題だったのは、秘密裏に計画を進めたこと。その上、学術会議を委員会の中につくるのではなく、政府内につくろうとしたことだった。そのために多くの科学者は「本当の目的は核兵器の開発ではないのか」と反発を強めたのである。

 

 

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