前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『ナツひとりー届かなかった手紙』の解説ーー100周年を迎えたブラジル日系移民の歴史

   

『ナツひとりー届かなかった手紙』新橋演舞場2007年11月、公演のプログラム解説
 
100周年を迎えたブラジル日系移民の歴史
 
                    前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
 
日本からブラジルへの移民が始まってちょうど100年を迎えます。

日露戦争から3年ほどたった明治41年(1908)4月28日、日本人781人を乗せた第一回移民船「笠戸丸」が神戸港を出航し、約2ヵ月の航海の末にブラジル・サントス港に到着しました。『コーヒーの木に金がなる、夢の大地』に移民たちは希望に胸を膨らませて第一歩を印しましたが、想像以上の苛酷な運命が待ち構えていました。

ちょうど、アメリカの奴隷解放の影響で、ブラジルでも20年前に奴隷を解放したため、コーヒー農園は著しい労働力不足となり、世界中から移民労働者をかき集めていました。
大部分はヨーロッパ系移民(イタリア、スペイン、スラブ系)でしたが、その奴隷的な待遇が各国で問題となり、移民を制限され、困ったブラジルは日本人を新移民として受け入れを始めたのです。

この結果、笠戸丸以来、明治、大正、昭和戦前までに19万人、昭和戦後には6万人の計約25万人がはるばる海を渡って移住し、ブラジルは世界で日本人の最も多い移住先となりました。

奴隷の代わりの移民労働者として同化を求めたブラジル側に対し、日本人移民たち出稼ぎ労働者として、3,4年働いて、しっかり金をためて故郷に錦を飾ろうと甘く考えていた互いの認識ギャップが大きな悲劇を招くことになります。

サンパウロ州などに入耕した移民の生活はきびしく悲惨なものでした。広大な農園に数十万本のコーヒーが樹海のように植えられ、強烈な日差しの中で長時間の過酷な肉体労働。借金と低賃金に、労働者住宅(コロニア)はローソクの光で土間の中で枯れ草やヤシの木を敷いた上に寝るだけの粗末で貧しい生活でした。
アマゾンの入植者はもっとひどい状況で、1年もすると、入植地を逃げ出す移民が続出します。過酷な労働による栄養失調、マラリアなどでの病死、耕地放棄、夜逃げ、流浪、絶望の末の自殺など、棄民としての運命にあえいだのです。
 
明治以来の日本の「富国強兵」「殖産振興」「人口増大」のスローガンの下で、国策として移民は遂行され、大正期に入って一層盛んになります。ブラジル移民の最盛期は国からの渡航費の全額補助となった大正14年(1925)から、ブラジルが移民を制限した昭和9年(1934)までの10年間で、「満州に行くか、ブラジルにいくか」と国内では海外移民大ブームとなり、この間に計13万人以上が海を渡りました。
 
特に、昭和8,9年は年間で各2万2、3千人とピークを迎え、高倉一家がわたった昭和12年(1937)には4600人が食べられない、貧しさからの脱却を夢見て移住しています。

この背景には当時の日本の農村の窮乏があります。世界恐慌の直撃(昭和5年)によって農業恐慌が一層深刻になった上に、昭和6、9年には東北大凶作が襲い、農家は飢餓に苦しみ、欠食児童が増加し、借金の方に娘を身売りする農家が続出します。
北海道の農家も似たような状況で、この窮状を知った陸軍の青年将校たちが、2・26事件などの反乱・クーデターを起こし、その後の戦争への道を開く要因となったのです。
移民が増えるとサンパウロなどに日本人街が生まれ、同化しない日本人に対してブラジルから「排日問題」を突きつけられ、日本語学校の日本語教育の禁止、太平洋戦争になると、米国と友好関係のブラジルは日本に対日宣戦を布告しました。

太平洋戦争の勃発、1945年8月の敗戦という日本の運命の変転とともに、日本人移民の立場はブラジルでも二転三転して、一層、苦難の歴史を歩むことになります。
 

日系人やその2世たちは『2つの祖国の谷間』に置かれ、きびしくアイデンティティー(共同体への帰属意識)を問われました。
終戦直後には、「勝ち組、負け組」騒動で大混乱に陥りました。情報の途絶と愛国心から、敗戦を信じない移民が多く、日系社会は『勝ち組』「負け組」に2分され、勝ち組が敗戦を認める負け組みの幹部らを襲うという暗殺、テロが続発して、約30人が死亡し、200人近くが負傷する悲劇的な事件が起こり、深刻な対立、分裂状態が続きました。
 
日本が独立後の昭和28(1953)から移民は再開され、アマゾンの中流に入り、開拓、開墾に従事するなど戦後移民は合計約6万人にのぼりました。

こうした数々の試練と、混乱、苦難の中で、斃れていったたくさんの移民たちと同時に、不屈の闘志で困難を乗り越えて、ブラジル社会の中に溶け込んで、政界、経済界、医者、弁護士、教員、文化人として確固たる地位を築いた人たち数多くいます。1985年ごろにはブラジルでは日系人口は約75万人にまで増えました。
 

一方、両国の関係は、1960,70、80年代にかけて逆転し、ブラジルが政治的な不安定と経済的混乱で、経済、社会が低迷したのに対して、日本は廃墟から奇跡の高度経済成長の波に乗り、80年代には米国に次ぐ世界第2の経済大国によみがえります。
 
移民の流れも、それまでの日本からブラジルへの一方的な流れから、ブラジルから日本に出稼ぎにやってくる回帰、逆流現象がおこります。
 
1990年代から2000年に入っても、日系ブラジル人は増加して、現在、群馬、静岡県内などに約30万人が労働者として生活しています。移民によって結ばれた両国の友好は100年を迎えてますます緊密になってきています。
 

 - 現代史研究 ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
高杉晋吾レポート⑱ルポ ダム難民②超集中豪雨の時代のダム災害②森林保水、河川整備、住民力こそが洪水防止力

高杉晋吾レポート⑱   ルポ ダム難民② 超集中豪雨の時代のダム災害② …

「Z世代への遺言「東京裁判の真実の研究➂」★「敗因を衝くー軍閥専横の実相』」で 陸軍を告発し東京裁判でも検事側証人に立った田中隆吉の証言①

ホーム >  戦争報道 > &nbsp …

『オンライン死生学入門』★『中江兆民(53歳)の死に方の美学』★『医者から悪性の食道ガンと宣告され「余命一年半」と告げられた兆民いわく』★『一年半、諸君は短いという。私は極めて悠久(長い)と思う。 もし短いと思えば五十年も短なり。百年も短なり。生命には限りがあり、死後には限りなし」(『1年半有』)』

      2015/03/19/『中江兆民(53歳)の死生学』記事転 …

no image
「日韓衝突の背景、歴史が一番よくわかる教科書」①★『福沢諭吉の「脱亜論」ですべては解明されている』150年前から日本が悪いという「反日の恨(ハン)の思想」の民族意識は今後ともかわらないのでは」

日本リーダーパワー史(765) 今回の金正男暗殺事件を見ると、130年前の「朝鮮 …

no image
百歳学入門(70)日本の食卓に長寿食トマトを広めた「カゴメ」・蟹江一太郎(96歳)の長寿健康・経営10訓①

 百歳学入門(70)   日本の食卓に長寿食トマトを広めた「トマトの父」 ・カゴ …

『Z世代のための鈴木大拙(96歳)研究講座』★『平常心是道』『無事於心、無心於事』(心に無事で、事に無心なり)』★『すべきことに三昧になってその外は考えない。結果は死か、 生か、苦かわからんがすべき仕事をする。 これが人間の心構えの基本でなければならなぬ。』    

   2018/12/14  記事再録/ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(148)再録★『世界が尊敬した日本人ー「魔王」(アーネスト・サトウの命名)日記と呼ばれた明治維新の革命家・高杉晋作、「奇兵隊」で活躍』★『< 明治維新に火をつけたのは吉田松陰の開国思想だが、その一番弟子・高杉の奇兵隊による破天荒 な行動力、獅子奮迅の活躍がなければ倒幕、明治維新は実現しなかった』★『萩市にある高杉の生誕地の旧宅(動画付き)』

  2015/11/20日本リーダーパワー史(560)    …

no image
★『アジア近現代史復習問題』・福沢諭吉の「日清戦争開戦論」を読む(2)ー「北朝鮮による金正男暗殺事件をみていると、約120年前の日清戦争の原因がよくわかる」★『脱亜論によりアジア差別主義者の汚名をきた福沢の時事新報での「清国・朝鮮論」の社説を読み直す』★『金玉均暗殺につき清韓政府の処置』 「時事新報」明治27/4/13〕』

 『アジア近現代史復習問題』 ・福沢諭吉の「日清戦争開戦論」を読む(2)ー 「北 …

『70-80代で世界一に挑戦、成功する方法①』『三浦雄一郎氏(85)のエベレスト登頂法』★『老人への固定観念を自ら打ち破る』★『両足に10キロの重りを付け、25キロのリュックを常に背負いトレーニング』★『「可能性の遺伝子」のスイッチを切らない』●『運動をはじめるのに「遅すぎる年齢」はない』

  2018/12/06知的巨人の百歳学(116)/記事再編集 『三浦 …

no image
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が報道した「日韓併合への道』⑳「伊藤博文統監の言動」(小松緑『明治史実外交秘話』)⑤ハーグ密使特派事件の真相ー韓人韓国を滅す事態に

「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が報道した「日韓併合への道』の …