『日本を滅ぼした軍閥の研究』★『陸軍工兵の父』上原勇作陸軍大臣の誕生と上原閥の形成ー明治の山県閥、大正の上原閥が陸軍を壟断(ろうだん)し、昭和陸軍の暴走の要因ともなった』(下)』
前坂俊之(ジャーナリスト)
長閥代表の寺内陸相は、この上原の実力を十分承知しており将来、長閥の脅威になると感じてか、上原を北海道の旭川第七師団長に左遷し、四四年九月には、宇都宮の第14師団長に飛ばした。この時、薩閥の二将軍で日露戦争での功労者・黒木為楨も陸相を目前に予備役に編入され、西寛二郎大将も予備役ののち、クビとなった。薩閥は切られる一方、長閥では黒木の下の参謀長・長谷川好道は、後に参謀総長、元帥と順調に引き立てられ出世していった。こうして、薩閥の最後の大物は、上原一人となった。
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上原陸相の誕生
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時代は明治から大正へと変転するが、その直前の明治44年8月、第二次西園寺内閣が誕生した。在任10年に及んだ寺内陸相はやっと辞任し、石本新六陸相にかわった。石本は長州閥ではなく、兵庫県出身だが、能吏型の軍人。永年、寺内の側近として次官を務めてきた点が買われたのである。ところが、石本は在任わずか8カ月で、明治天皇の崩御(45年7月)に先立ち、同年4月に急死してしまった。この後釜は、当然、長閥の木越安綱が座ると見られていたが、いざ、ふたをあけてみると、飛ばされて宇都宮にいた上原勇作に白羽の矢が立った。
長閥では当初、木越を後任にする腹であったのを、原敬が陸軍軍縮を行なうため、山県に強く上原を要請し、山県、桂、寺内、田中義一らの長閥も、陸軍きっての逸材である上原をこの際、長洲閥に取り込み、2個師団増設を実現するために陸相に抜擢したのである。長閥も上原に一目置いていたと同時に、長閥内に人材がいなかったことも事実であった。
もともと第2次西園寺内閣は日露戦争で膨大に膨れ上がった戦費、国債の削減、返済を急務として、軍備縮小を最大のスローガンにしていた。
これに対して、「ロシアの報復」を恐れた海軍は山本権兵衛、斎藤実、加藤友三郎の強力トリオで、六・六艦隊から八・八艦隊完成の動きを示し、陸軍も負けじと、平時25師団、戦時50師団編成の軍備増強を国策とし当面、朝鮮への二個師団増設を強く要求していた。石本陸相、桂太郎内府(内大臣)、枢密院議長・山県と田中義一軍務局長が一体となって政府に圧力をかけていた。
しかし、この増設計画は寺内朝鮮総督や山県の発案によるものではなく、陰で操っていたのは田中義一軍務局長で、朝鮮防衛を表向きの理由にしていた。
当時、陸軍では下級将校が余っており、いき場がなく困っていた。年々多数の大尉を送り出していたが、大佐や少将まで昇進できるものは少数で、大部分の下級将校が前途を悲観していた。田中軍務局長はこの救済策として2師団増設を要求したのである。
ところで、請われて上原がいざ陸相のポストに座ってみると、省内は長閥で固められていた。岡市之助次官は京都出身の準長閥、田中軍務局長、その下に岡山出身だが田中直系の宇垣一成軍事課長、参謀総長は長谷川好道といった具合で、上原の自由はまるで利かない。ただし、上原は全軍の期待を担い、長閥の突き上げの中で、西園寺内閣との間で板ばさみとなりながら孤軍奮闘した。
当初、長閥が甘く見ていた西園寺内閣の軍備縮小の姿勢は固く、与党政友会も「増師は恐露病である」と反対し、新聞も筆をそろえて増師不要論をとなえて、上原陸相は窮地に立たされた。
大正元年11月22日の閣議で上原は正式に2個師団増設案を提出したが、同30日の閣議で否決された。上原は山県に相談して辞任を決意し、内閣更迭に持ち込む策に出た。12月2日に西園寺首相を無視して、即位間もない大正天皇に「増師の否決は国防の無視である」と前代未聞の単独帷幄奏上を行い、辞任してしまった。
困惑した西園寺首相は山県に相談して、次の陸相の推薦を依頼したが、山県こそこのシナリオを書いた張本人であり、陸軍は「増師案を容れないかぎり、その後任者を出さない」との強硬姿勢を崩さず、軍部大臣武官制(軍部大臣は現役大中将でなければならない)の厚い壁によって、西園寺内閣は崩壊してしまった。
原敬内相は「陸軍のストライキで、内閣は毒殺された」と軍閥の憲政無視の暴走に憤り、政党、世論は上原の行動には非難ごうごうだった。この長閥の横暴が第一次護憲運動を引き起こし、大正政変へと発展し、大正デモクラシーの幕を開くきっかけとなったが、逆に、陸軍内での上原の評価は一挙にあがり、上原閥が拡大するきっかけにもなった。
上原閥の形成
陸軍大臣を辞任した上原は陸軍をスッパリと離れて、鹿児島に帰って、隠遁生活を送る気持ちであった。このとき、上原は55歳である。ところが何が幸いするかわからない。
その才を惜しんだ山県元帥、次の楠瀬幸彦陸相、寺内朝鮮総監らが引き止め、上原も再起を期して第3師団長に転出した。しかし、すぐ病気になり待命、これで終わりかと思われたが、また復帰して大正3年4月には教育総監に返り咲いた。同4年2月に大将に,同12月には長閥の長谷川好道にかわって参謀総長に栄転するという三段とびである。大正12年3月までの都合8年以上も参謀総長のイスに座ることとなった。
この間、大正10年4月に元帥に昇格して、陸軍の頂点を極め、元帥府にいること10年余、教育総監から通算すると20年にわたって上原閥の時代を築いていく。
陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥という「陸軍3長官」を歴任したのは陸軍史上、上原がはじめてであり、以後は太平洋戦争最後の杉山元・元帥の2人のみである。いかに、上原が陸軍内で強力な権力を維持したかがわかる。
大正11年2月に山県有朋が83歳で亡くなった後は、文字通り,陸軍のトップ、最長老として薩摩閥を率い、陸軍に君臨し、政界の「興津もうで」西園寺詣」に匹敵するような、陸軍の上原詣とも言うべき「一宮詣」を引き起こした。上原閥を形成して田中義一,宇垣一成らの昭和の軍閥が台頭してくるまでの間は、陸軍軍閥の中心勢力を形成していった。
教育総監、参謀総長時代に、上原下の薩閥の者で中将になったのは、「宇宿行輔、河内礼藤、町田経字、成田正峰、与倉喜平、高島友武、高山公通、志岐守治、三原辰次、長坂研介、権藤伝次、種子田秀実、田中国重、菱刈隆、佐多武彦であり、このうち大将になった者は、町田、田中、菱刈の三人にのぼる、上原の権力で薩摩閥はよみがえったのである。」と松下は「日本軍閥の興亡」(芙蓉書房、1975年刊)の中で指摘し「果たしてこのうち何人が上原の権力の笠をきず、真の実力でポストを獲得できたのか」ーと皮肉っている。
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最後まで勉強家の上原の欠点は・・・
大正12年、上原は67歳で参謀総長の職を去った。晩年は千葉県房総の一宮海岸の別荘で過ごし、堪能なフランス語を駆使して最新のフランス軍事書を読んでは、軍事研究に余念がなかった。『雷おやじ』ぶりも晩年も変わらなかった。
外国帰りの少壮将校を呼んでは新知識を取り入れたり、副官から軍部の事情を報告させては意見をズバズバ述べるなど、陸軍きっての勉強家ぶりは老年になっても一向に衰えなかった。陸軍始まって以来で、こんな勉強熱心な将軍はほかにいなかった。
しかし、勉強好きとその見識、洞察力はまた別物である。「海軍の神様」に祭り上げられた東郷平八郎元帥が晩年の判断力、行動で汚点を残したように、上原元帥の晩年の行動も少なからず似たところがあった。
閥意識が人一倍強烈で、長閥の田中義一との激しい対立,確執は最後まで残り、田中の後継者の宇垣の陸軍の近代化、軍縮にも無理解で、最後までその足を引っ張った。その逆に、昭和軍閥の皇道派になっていく連中を支援して、その後の陸軍内の派閥抗争をエスカレートさせていく原因も作った、ともいわれる。
大正13年1月に、清浦奎吾内閣に大命降下があった際、清浦から陸軍大臣の推薦を依頼された上原は福田雅太郎を推した。一方、田中義一は福田に反対し、子分の宇垣一成を強力に推して、上原、田中は何度か協議したが正面衝突で、往年の薩長閥の対決、再戦の様相を呈した。結局、田中が押した宇垣が陸相になり、上原は煮え湯をのまされ、これが上原閥の凋落の兆しとなった。
1928年(昭和5)2月、鈴木荘六参謀総長が定年となり、宇垣陸相は軍事参議官・金谷範三(大将)を押すことになり、上原に了解をも求めた。ところが、上原は前回のいきさつもあり強く反対し、教育総監・武藤信義(大将)を推し、再び、全面衝突した。先の怨念が続いており、何度かの話し合も平行線のままで、結局、宇垣は天皇に奏上して、金谷範三に決まった。上原は2度も敗れた結果、昭和に入ってますます台頭してきた田中閥、宇垣閥に、陸軍内での首座を奪われていった。
昭和8年11月、上原は享年78歳で亡くなった。昭和の軍閥、皇道派対統制派の対立がエスカレートして、ついに暴発した2・26事件が起きる3年前のことである。
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