『日本を滅ぼした軍閥の研究』★『陸軍工兵の父』上原勇作陸軍大臣の誕生と上原閥の形成ー明治の山県閥、大正の上原閥が陸軍を壟断(ろうだん)し、昭和陸軍の暴走の要因ともなった』(上)』
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2015/10/15 日本リーダーパワー史(589) 記事再編集
『陸軍工兵の父と言われる』-上原勇作陸軍大臣の誕生と上原閥の形成
1921年(大正10)4月に上原は元帥に昇格して、陸軍の頂点を極め、元帥府にいること10年余、教育総監から通算すると20年にわたって陸軍最大の派閥・上原閥の時代を形成。明治の山県閥、大正の上原閥が陸軍を壟断(ろうだん)し、昭和陸軍の暴走の要因ともなった。
前坂俊之 (静岡県立大学名誉教授)
大正期の陸軍内の最大派閥・上原閥が形成されたのは大正前期のことである。在任10年に及んだ寺内正毅陸相が明治44年8月に辞任後から、大正7年9月に、田中義一陸相が就任するまでの約7年間は、長州閥の空白期間であったが、この間に、薩摩閥とみられていた上原が陸相に抜擢された。
その陸相時代はわずか8ヵ月と短かかったが、抜群の工兵・軍事技術の知識に秀でて、政治力も兼ね備えていた上原は長州閥に恩を売って、山県、桂らの長洲閥の凋落のあとに元帥となって陸軍に君臨し、新たに強力な上原閥を築き上げた。
上原勇作は安政3年(一八五六)十一月、宮崎県都城市(旧都城藩)で竜岡資弦(横山)の二男に生まれ、のちに上原家の養子となった。
上原の息子が大正、昭和初期の人気俳優の上原謙、孫が加山雄三である。
1875年(明治8)六月、陸軍幼年学校に入学し、十年五月に陸軍士官学校士官、十二年十二月に、第三期生工兵科をトップで卒業し、陸軍工兵少尉になった。十四年一月に卒業し、フランス留学を命じられ、五年間、フランス工兵部隊、砲工専門学校に学び、十八年十二月に帰朝した。
十九年二月、陸軍士官学校教官となったが、再びヨーロッパに赴き、翌年一月に、フランス式の近代工兵学、新知識を得て帰朝した。
陸軍草創期の工兵は、明治五年二月、鎮台所属の造築隊が工兵隊と改称されたのが始まりである。
当時の工兵の教練といえば、徒歩教練をしたり、編束物などを作ったりで、技術教練は低レベルであった。野戦構築や小河の架橋などがせいぜいで、大陸での戦争に備えて大河渡河作戦などは考慮されていなかった。陸軍の歩兵、騎兵、砲兵に、他兵科に比べて、技術的にも、将校の質の点でも大きく見劣りしていた。フランス式の工兵学を学んだ上原はこれを一挙に改革していった。
フランスから帰朝後、日清戦争(明治27年7月に勃発)までの間に、士官学校数官、臨時砲台建築事務官、工兵大隊長、参謀本部副官、陸軍大学教官、参謀本部第二局長を歴任して、その新知識を駆使して当時、全く不備であった各地の要塞や砲台の建設を進めて、陸軍の軍政、教育の改良にも大きく貢献した。
- 「工兵の育ての親に」

「工兵科出身随一の偉材」「工兵のエース」と目されていた上原は期待通りの活躍ぶりで、「日本の工兵育ての親」となり、トップに上りつめていく。
上原の出世の原因は、こうしたフランス留学と生来の秀才、勉強家であったことと同時に野津の女婿であった点にもあった。上原は陸軍に入る前、薩派陸軍の長老・野津道貫の書生をしていたが、この縁故で、明治24年に野津の長女槇子と35歳で結婚し、その女婿となった。野津は薩摩閥のトップだったため、これが出世に大いにプラスしたことはいうまでもない。
明治27年、日清の風雲急を告げると、第五師団長野津道貫の幕僚の少佐参謀として出征し、野津が第一軍司令官になると、上原もその参謀、参謀副長となった。上原の工兵技術は日清戦争の勝利に貢献した。
その後、参謀本部将校として、工兵会議議員、鉄道会議議員、港湾調査委員等を兼ねて、インフラ整備にあたり、33年7月に陸軍少将に任ぜられ、砲工学校長、参謀本部第三部長兼任。34年7月には「工兵トップ」の工兵監となった。ここで、一切の兼務を解かれもっぱら工兵全般の充実、改善に全精力を注ぎ、来るべき日露戦争に備えた。
『元帥上原勇作伝』(同伝記刊行会編、昭和13年刊)によると、「明治34年に、上原は工兵監となると、フランス留学で学んだ最新式の工兵学を導入し、全国の工兵隊を身を挺して回り、大胆な改革を実行した。ドイツを模範にした典範を作り、日本精神に基づいた新工兵操典を次々に制定された。特に大正二年五月には『工兵操典』を制定した」と記している。
上原は精力的に全国の各部隊を視察して回ったが、各部隊長は「カミナリオヤジが来る」と恐れおののいた、という。エリート意識が強烈で、その傲岸不遜な性格から、平気で部下をドナったり、「バカ」呼ばわりして面子をつぶす乱暴なその行動が目立ったといわれる。
工兵第三大隊を視察した時、背嚢の着装が不完全であるといって、部隊の面前で、大隊長を激しくしかった。恥をかかされた大隊長は大憤慨して、大声で「私は割腹して、その罪を謝せん」といって、大騒ぎになった。
また、部隊の検閲に出かけた際、出迎えの将校の正装の前に立って、いきなり、馬からおりて、立ちバサミとモノサシで、そのピカピカする金銀モールの正衣を測り、少し格好をつけて長目につくってあると、その長さだけ、立ちバサミでその場でビリビリと切り取った、という。
陸軍中尉でその軍事評論家となった松下芳男は「昭和の軍閥像」(土屋書店、1980年刊)の中で紹介したエピソードだが、「上官であっても、あまりにも非常識な行動」と批判している。
さて、日露戦争が勃発すると、上原は第四軍(野津道貫司令官)の参謀長となった。野津は歴戦の勇将で鳴っており、猪突猛進、頑固一徹なタイプだけに、参謀本部は誰を参謀長にするか苦慮したが、女婿の上原がうってつけと選ばれた。
第四軍は満州軍の中心的存在だったが、上原は、岳父の名を汚さぬように全力を挙げて作戦指揮をとり、ロシア軍との初めて本格的にぶつかった遼陽会戦ではクロパトキン率いるロシア軍を破って勝利をおさめた。また、終盤の奉天会戦でも,野津の第四軍が活躍し、上原自身の戦い上手も同時に広く知られることになる
一方、日露陸戦の総本山・旅順要塞、二〇三高地の攻撃では乃木希典率いる第三軍は日清戦争以来の肉弾、夜襲作戦の繰り返しで屍の山を築いて大苦戦した。土壇場での児玉総参謀長の出馬、助言で、やっと陥落とすことができた。この失敗の原因は工兵による要塞攻略の坑道突破作戦の研究をしていなかったためで、上原は戦後、『私は工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、坑道作戦の研究と訓練を怠ったことだ』と反省の弁を述べている。
上原閥登場までの軍閥闘争史をふりかえると、薩閥の首領・西郷隆盛の後を継いだのは大山巌だが、大山は超俗的で、長閥への対抗意識などてんでなかった。
高島鞆之助、野津道貫がそのあとを引き継ぐが、長閥をおさえて、薩閥の団結を堅持していた。その後は陸軍きっての大物といわれた川上操六がトップとなり、その実力で、長洲軍閥を大きくリードし、陸軍を押さえきっていた。
ところが、明治32年5月、その川上が52才の若さで急逝すると、薩閥は一挙に衰退して、長閥が逆転してしまい、10年も続いた寺内正毅陸相時代に象徴される長洲閥の天下となった。明治40年9月に野津が死去すると、対抗できるような薩閥の人物は全くいなくなった。年次的には大幅に後輩の上原がその抜群の力量で薩派のホープとなって浮上し、残された薩閥の連中はこれを押し立てる形となった。
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