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日本リーダーパワー史(61) 辛亥革命百年④ 仁義から孫文を支援した怪傑・秋山定輔①

   

 
辛亥革命百年―仁義から孫文を支援した怪傑・秋山定輔
秋山定輔が語る「孫文と私」(村松風筆録昭和15年11月「月刊亜細亜」)
 
 
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
 
<注、この直話は1940年(昭和15年)当時のものだが、今の世界の中での中国の存在感が増している状況と何と似ていることか、秋山の時代認識の的確だったことをしめす、語り口である>

日本の政治経済、外交軍事は申すに及ばず、日常の問題になっても、直ち支那(中国)ということが出て来るなど、日本の国民生活にとって、支那ほど大きな関係を持っている国はない。別して今日、此の時代、支那は日本の支那であると同時に、世界の支那である。世界の沸騰、噴火の根元は支那であると云っても差支へない。

 
其の支那の問題となると、たまには私の名前が人の口に上るやうである。或人からは支那通といわれたり、甚だしき支那通の大先輩ででもあるかのやうな過分の言葉を頂くことさへあるが、これ全く見掛け倒しで、世にいう看板に偽りあり、私ほど支那を知らん者は今の時代に少ないだらうと思ふくらゐ、案外支那を知らないのである。
 
今日ですらそれであるから、今から三十年、四十年前の私が支那を知らなかったことは当然である。中には私のことを、世にいう大陸浪人の一人で、髪の毛でも長くし支那のあちこち飛んで歩いてゐた人間のやうに思っている人もあるが、大体、私は若い時からさういう趣味を持ってはいなかった。支那趣味といふやうなものはほとんど持ってゐない方だった。例へば四書五経を習ふ時でも、これを支那の学問として習ったのではなかった。これは日本の学問だとして習ひ、自分もさう見て怪しまなかった。
 
 其の私が、妙なことから支那に関係するやうになったのである。支那を知らず、支那趣味を持っていない私が支那に関係したのであるから、其の心持や、動機を云へば、純粋な日本的な気持からである。やれ支那をどうしようの、支那革命がどうのといふ議論からではない。実はお恥かしいくらい貧弱な、単純な気持からである。いわば、一片の同情心、気の毒だなと思った感情、人のか艱難に同情する惻隠の心から始まったことである。そして、其の対象が孫文だったのである。
 
 次に其のいきさつを一通りお話しすることにしよう。
 明治三十二年、三年頃のこと、布引丸事件といふ事が起って世間を騒がした。
 これはどういふ事件であるかといふと、近代支那革命の父と仰がれた孫文が、とフィリピンの独立党を援助する目的で、彼が日本で購入した武器弾薬を比島へ送る計画を立てた。とリツピンの独立党を援けることは孫の理想から云へば、矢張り支那革命の事業の一部を成すことであった。
 
 孫は広東辺で零細の金を集めた革命軍資金数万金を携帯して日本へ来て、武器購入の件を、かねて相識の間柄である犬養毅君に周旋万を依頼した。犬養は快く承諾し更にこれを同志の中村彌に依嘱した。
 中村彌は信州出の代議士で、政界一方の名士であった。特に彼は清廉の士として世間からも信用されてゐた。
 
 中村は欣んで引き受けた。そして、大倉喜八郎に相談し、大倉商事会社から陸軍の払ひ下げ銃を売って貰ふことになった。首尾よく数千挺の鉄砲と、沢山の弾薬とを買ひ受け、これを布引丸といふ汽船に積み込んで比島へ向けて回航させたのであった。孫文は東京にゐた。然るに、此の布引丸が台湾の近くで、一寸した暴風のため沈没し、武器弾薬は海底の藻屑となって了ったのだ。
一見、天災のやうであるけれども、之について意外な事実が発覚して来た。それは中村が大倉から買ひ入れた小銃は全部役に立たぬ廃銃であったことが後になって判明した。又弾薬も不発弾であったことが発覚した。それでは大倉商事が詐欺を行ったのかといふとさうでなく大倉としては廃銃として、中村に売却却したのである。たゞ中村が、孫文から多額の金を受け取って、孫文には立派な武器だと称して安心させ、其の間で数万金を着服したのだった。
 
立に至って更に問題になったのは布引丸で、中村は自己の非行を隠蔽するためにわざと途中で沈没する船を選んで送らせたのだと云はれた。船の持主が保証をしない船へ無理に積み込んだ事実まで明かになった。
 最初「万朝報」に此の記事を驚くべき怪事件であるとして書き出してから果然大問題になった。
 実際中村のやった事は悪徳無類であった。而も普通の商品でなく、外国の志士から依頼された武器である。中村自身も国士を以て任じてゐる人間である。かかる大事を托された以上はいやが上にも念を入れてやるべきであるのに、中間に立って莫大の利益を貪り、あまつきへ役に立たぬ廃銃や不発弾を押し付けるとは実に口語道断である。その上廃朽船と知りつっ積み込んで回航させたといふ悪辣、非人道は全く言語に絶えたる罪悪である。
 
 関係者である犬養もこれには非常に困った。中村を呼び付けて詰問すると中村はぬけぬけと言ひ訳をして罪に服さないのである。犬養は大倉喜八郎にも厳談した。もともと、中村をして大倉に交渉させたのは犬養の差図であったから、犬養としては大責任があるわけだ。処が、「私は中村さんに廃銃であることをお断りして、廃銃の値段で売りましたのです。私としては不都合はいたしません」と大倉は云ふ。
 
「併し俺は君に、中村に鉄砲を売って呉れとは頼んだが弾の撃てない鉄砲を売って呉れとは云はんぞ」犬養はそんなことを云って見たが、今となっては遅い。とにかく日本の政治家が外国の革命軍資金を着服横領して廃銃を売り付けたとあっては、世界へ対しても面目ない、全く日本の不名誉である。何とも相済まないことであると犬養が孫文に向って懇々と謝罪すると、其の時、孫文は、「いや、御心配下さいますな、悪人は中国にも居ります」と答へたといふことだ。
 
 中村は法律上の罪人にはならなかったが、社会の非難に堪へられずして一切の公職を辞した。それ以来彼は全く世の中から葬られて了った。
 
一体中村程の名士が、いかに天魔に魅入られたとは云へ、どうしてこんな罪悪を犯したかといふと、彼は其の時分、肺病で余命幾許もないと医者から宣告を受けてゐた。其の上彼は非常に貧乏であった。貧乏と肺病との二つで苦しめられてゐるところへ孫文から大金を托されたので、つい悪心を起したのだらうといふ人もあった。ところが面白いことには、中村は医師から二、三年と宣告されていた肺病が、金が出来て養生でもしたのか丈夫になり、二、三年どころか昭和何年迄生き延びて遂に世を終ったのである。
 
 私は新聞で此の記事を見て憤慨を禁じ得なかった。孫文と一面識も半面識もない人間だが、憾輌孤独、一人の若い義人が其の国の同志を語らって、支那の将来のために新紀元を造らんとして努力し、零細な金を集めて日本へ武器を買いにきた。托された人はその気持に感動して一意専心親切に働いてやるのが人情であり、義務である。日本人として当り前の感情である。然るに現在眼の前に此の新聞の記事のやうな事実がある。
 
必ずしも支那の将来とか、大亜細亜主義とか云ふのではなく、人の艱難に赴くのに余りと云へば不親切である。騙されて金を奪わられた孫文の気持はどうであらうと同情したり、憤慨したりして若い気に満たされている時、ある日、中西正樹と宮崎滔天の両君がやって来て、此の事件の経緯を詳しく話した後で、「是非、孫文に会ってもらいたい」と云ふので、会ったのが抑々の最初であった。
 
 会った。手を握った。それがすべてであった。もはや他人ではない。元々動機がさうであったのだから、二つのものが急速度に一つになっただけであった。
 
それから殆ど毎日会った。一諸に飯を食い、一諸に歩き、しまいには孫文はんだ神田田錦町の私の家に同宿していた時代もあった。
併し正直なところ当時の孫文は、現代の人が直ぐに連想するやうなあの孫文ではなかった。世界的の革命家でも何んでもなく、況や此の人が後年、中山陵に神に祭られようなどとは、誰にしたって夢にも思へないことだった。一見ヒヨロヒョロとした、痩せた青書生、而も豪傑風はなく、外国仕込みのハイカラである。それが当時の孫文であった。
 
おまけに彼の説く支那革命の談論は、当時の日本人にはよく解らなかった。聴くにしても疑い疑い聴いたくらいのもので、絶対に信を置くなどといふわけにはいかないのである。
支那の国情や、革命の理論は別としても、第一、孫文一個人としての人間に付けられる点数を云へば、どれ丈け付くか、甚だ心細いものであった。

「いくら国では革命を唱へても、第一あんなヒヨロヒョロした生青い男に何が出来るものか」
大概の人がさう云ふやうな孫文であった。実際それは一理あることだ。健康が保たず、中途で倒れるやうな男では何にも出来ないのだ。
同情の結果、無条件に結び付いたやうなものの、私も最初の間は不安だった。私はこれまで、随分と日本人にも騙されたが、西洋人や支那人の食わせ者にも騙された経験がある。それを知っている私の友人達から頻りに苦情が出た。
「あんな男を信用すると馬鹿を見るぞ。気を付けたがいい」
諸友は多くさう言った。けれども、一旦義によって結ばれた隣邦の友をそんなことで見棄てることはできないが、併し、「先づ第一に体力から試して見る必要がある」と私も考えた。
孫文と一緒に、家で飯を食うこともあるが、築地辺へ食ひに出掛けることもしばしばあった。其の時は神田の錦町から丸ノ内を通って築地の本願寺の側まで必ず歩いた。錦町から築地までは何なりの道程だ。


 私は脚には自信があった。緩くりゆっくり歩くつもりでも可成り速い。ところが、孫文もヒヨロヒョロしているに似合はず、なかなか脚が達者だ。途々も話しながら楽々ついて来る。ついでながら会話は英語だ。孫の英語は達者なもの。私も英語は少し得意だったから両人とも談話では何ら不自由はなかったのだ。とにかく、孫の脚は予想を裏切ってなかなか強い。
「君は割りによく歩くね、僕について歩けるとは思わなかったよ」
と私が云ふと、孫は笑って、
「僕は脚は達者だ。苦力をしたことがあるからね」
と答へた。成る程それぢや脚は強い筈だ。
その時分私は盛んに素人角力を取った。自分の家に土俵を築いて「錦部屋」と称してゐた。諸友が集まって盛んに取った。
 終ひには孫文も仲間に入って角力を取った。


孫文を知る動機は以上申し上げたやうなことで、理想からでもなければ理窟でもない。ただ一片の同情心から彼を知ったのだった。
併し、知ると共に増し情味も深くなり、私は彼の打ち明け話しやら希望やらを開き、又ますます彼の口から革命の哲理を聞いた。
聞いて見れば、これがいわゆる琴線に触れると云ふか、よく解る、解る以上だ。しまいにはわかり過ぎてどっちが元やら分らんくらい。恰も私がいわんとすることを孫が云ってくれたり、又孫の方でも、私の云ふことが、彼の云はんとすることであったりするといふ工合。
私はその時分、自分が考へていたことを其のまま孫文に話した。
 
それは他でもない。自分らは小学校を出ると直ぐ横文字を習った。いわゆる西洋文化万能時代。私達は、我国の歴史や道徳よりも、リーダーの進むにつれて、西洋の歴史哲理を学校から吹き込まれた。ヤレ誰が適者生存と説いたとやら、碧の肉は強者の肉であると云ったとやら、これが進化の原理だとやら、さういふ風な西洋の国家哲理を数々聞かされた。
 
成る程さう云って見れば、今日の世界は「食うか食われるか」の状態である。国際間もさうであるが、個人の生活も次第にさういふ風に険悪に切迫して行きつつある。併し、私共の気持は、それでは満足出来ないのである。現実はどうあらうとも、我々の理想は、我々の志す使命は、全然異った方向にありはしないか。食ひもしなければ食はれもせぬ!これが人類の理想である。
 
人間として守るべき最も大切な鉄則がある。礼があり、仁があり、信があり、勇があり、総てがある。他を侵してはならんが、他から侵されてもならん。人に侵されることは、自己を侮辱することであり、家名を汚すことであり、祖先を辱しることである。食ふてもならん、食われてもならん。そこに東洋の道徳があり、哲理があり、平和があるのではないか。
 
食ふか食はれるかより外に道が無いやうに見る西洋の国家哲理に大矛盾がある。神の意に反し、仏の心に反するものである。食ふ気もなく食はれもしない-人類が共に楽しみ、共に存する理由がある。男女の恋愛があり、結婚生活があり、一生がある。必ずしも強きものの餌食となる弱きものと見る必要はなく、強弱、大小、数量を超越したところに愛の真理がある。あらゆる道徳がある。
 
防備なき弱き隣人を、弱気に乗じて屠るのみが能ではない。有無相通じてこそ平和と幸福がある。此の大切な建国の哲理を西欧の人々は忘れているのではないか。必ずしもスパニッシュ・アルマダにより国の存立を脅やかされたジョンブルが、今度自ら相手の立場を取り、其の力を無遠慮にエジプトに及ぼし、印度に及ぼし、東洋に及ぼし、それらの国々から何千年来保ってきたところの平和の夢を破り、其の肉を食うがごとき所業を我々は学ぶ必要はないのである。
 
清朝をぶっ潰すもいい、革命をやるもいい、併し東洋には、支那には、支那独自の哲学があり、道徳がある。
 
弱者強者の殺りくではない。我々の言葉でいえば仁義である。革命すなわち仁義である。どうせ大事業をやるなら、この真理を世界に知らしめる目的を以て、その大使命を自覚しての支那の革命をやらうぢやないかー大体かういうやうな意味であった。
 
孫文は全部、私の言葉に共鳴したーとはいい難いが、実は右の言葉のうち、果してどれだけ秋山が云ったか、どれだけ孫文がいったのか、後になっては分らなくなった程、両者の考へは完全に一致し共鳴してしまったのだ。
意見が一致した上は、直に実行に移さうじゃないか。よからう、やらうと、互いに若い者の信念に燃えて固く手は握られたのであった。
 
かういふ気持でやった仕事であるから、私から云ふと支那の悪ぢややら、日本の革命ぢややら、分らなかった。孫文の革命やら、秋山の革命やら、頼まれてやったやら、自分からやったやら分からなかった。孫文は支那における自分の代理人のやうな気持、その代り日本で自分は彼の代理人だから、日本において必要なことは何でも自分がやる。お互い様である。礼を云ったり云はれたりしなくてもいいーさういふ話し合ひで、爾来、私は自分の力一杯やった。日本の要路の先輩に向っても私はその意味で事を運んだ。
 
                        (秋山定輔が語る「孫文と私」(村松風筆録昭和15年11月「月刊亜細亜」)
                                    (「秋山定輔伝」(3巻)桜田倶楽部 昭和54年刊に収録)
 
(つづく)
 
 
 

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