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日本リーダーパワー史(135) 海軍経営者・山本権兵衛―国難日本を救った最強のリーダーシップとはー

   

 日本リーダーパワー史(135)
海軍経営者山本権兵衛―国難日本を救ったリーダーシップ
<福島原発危機「日本の興廃はこの一戦にあり」
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 「皇国の興廃 この一戦にあり」とは日本海海戦出撃前の東郷平八郎の言葉だが、いま3,11アフター、福島原発事故の危機を国民は神に祈るような気持ちで見詰めている。「日本の興廃はこの一戦にあり」と。
 
 
いまリーダーは何をすべきかーその取るべき態度を過去の事例から学ぶー『日清戦争』でのリーダーシップ
 
 
① リーダーは日露戦争の満州総司令官大山厳を見習え。(203高地で示した大山厳の『部下にまかせて、責任は自らとる』
② 戦時内閣を組織せよ。自民党のトップはもちろん、民主党の小沢一郎、鳩山由紀夫も、いったい何をボヤボヤしているのか、国が潰れるかどうかの瀬戸際、ギリギリなのに、閣僚に入って重量内閣に改造し菅首相をささえて、挙国一致内閣を即実行せよ。小異を捨てて大同につけ(西郷従道の縁の下の力持ち、リーダーシップ、大度量の政治家たれ)
③ 危機管理の実力者を自衛隊、警察、予備役、政治家、官僚OBからでも今からでおも遅くない、抜擢せよ(高橋是清、樺山資紀ら)
④ 豪胆、見識、勇気、元気のある実戦的リーダーを即、登用せよ(後藤新平、樺山資紀ら、学者、評論家はいらない)
⑤世界は日本を見ている。このピンチを最大限のチャンスにかえて、ファイティングスプリットを見せよう(カルロス ゴーンの言葉)
⑥逆境にいて楽観せよ(出光佐三の言葉)
 
日本海軍の最強コンビー西郷従道大臣、山本権兵衛軍務局長
 
 西郷の再び海軍大臣となると、海軍は山本権兵衛の海軍となった。西郷は良くわかっていた。将来の海軍を背負って立つものは,旧式の頭脳を有する東洋流の豪傑ではなく、西欧式の新知識と見識を兼ね備えて手腕抜群のものではないと、西欧の侵略からわが国を守ることができない。
 
そのため、権兵衛の剛腕の実行力に着目し、自己の後継者と考えていた。権兵衛もよくわかっており全力を傾倒して西郷を助けて、所信を直言してはばからず、実績を上げて態度で示した。
 
権兵衛が最初に行った改革は水路部であり、多年ここで惰眠をむさぼり専横をきわめていた部長たちを一斉に首にした。次には進級条例を改正して進級前は必ず一定期間海上勤務を経ることを必要とするように改正した。
実務、営業第一線ではなく、本社でデスクワークで仕事もせずんぞり返っている幹部職を第一線に放り出すのと同じである。
 
この進級條例の改正の真の狙いは権兵衛のライバルの柴山矢八(鹿児島出身で、海軍軍人。明治5年から2年間米国へ留学、山本の先輩、後の海軍大将)が海兵出身ながら、艦船操縦の技術を知らないのでこれを苦しめて追い出す策謀だった。

(写真は西郷従道)

ところが、大佐として初めて『海門』艦長として海上勤務についた柴山は、権兵衛の予期に反して何等の失態もなく無事にその任務を勤め終った。
追い落としが失敗すると、権兵衛は再び、進級条例を改正して海上勤務に服さなくても進級できるとかえてしまった。
権兵衛がこのような策を弄したのは、年功序列と情実人事が横行し無能者が跋扈していた海軍の旧弊な人事を改め、派閥の打破を目指したものだったが、その後に権兵衛が権力を掌握して自派閥、仲間の跋扈を許す結果になったこともまた事実である。
 
 
 山本権兵衛の名が世間に知れ渡ったのは西郷従道の下に海軍省主事につき大臣以上に辣腕をふるったためだが、もともと権兵衛は学生時代からガキ大将で、強力なリーダーパワーを持って、常に上村彦之丞、藤田幸右衝門らの乱暴者を率いては校内を暴れ回わっていた。海軍兵学校卒業後も、行く先々でリーダーシップをにぎり、向かうところ敵なしで、海軍の実権を掌握するまでに逆境を経験したことはほとんどなかったという、海軍随一のキレ者だった。
 
 壮年時代からわがもの顔に海軍を牛耳っていたが、明治十五、六年ごろ、英国砲術学校制度を輸入し、日高壮年之丞らと共に砲術練習艦「浅間」で、艦長井上良馨を助け、出羽重遠、三須宗太郎、島村速雄の英俊を率いて艦砲射撃の教練に努め、従来の操帆運用にのみ没頭していた海軍の新生面を開いたことは特筆に値する。
 
なぜなら、日清戦争で海軍が大勝利したのも、その操砲技術が清国海軍を大きくしのいだためであり、その功績は山本権兵衛のリーダーシップと技術力のたまものだった。
 艦長時代の山本は闘志、覇気とも横溢しており、あの怖いライオンのような顔と迫力、闘志で、到るところで前任者の旧式なやりかたをぶち壊して、先輩でも出来ない奴は遠慮なく首にして、強い海軍を作ることに全精力を上げた。
 (写真は山本権兵衛)
当時、トルコの特派大使オスマンパシャ一一行をのせて紀州沖で沈没したトルコ軍艦「エルトグロ-ル」の遺骨、遺物を我練習艦「金剛」『比叡』によってイスタンブールまで、送還することになり、三浦功がその一艦の艦長になった。
ところが、三浦はさらに良艦に搭乗して遠航したいと要求して、難癖をつけて乗ることを渋った。山本は憤激し、白から海軍省に乗り込んで三浦を即座にかえて、三浦とは反対にほとんど全く操船の術を知らなかった田中綱常をに代わら、日高批之丞と共に遠航上らせた。山本の決断と実行力を推して知るべしである。
 
 明治二十七、八年の日清戦争は西郷の海軍大臣、山本の海軍省主事時代における歴史上の最大事件である。誕生したわずか20年ほどの帝国海軍にとっても初めての外戦であり、東洋一の海軍を有する清国との存亡を賭けた1戦だった。
 
明治二十六年五月、海軍官制の改革あり、海軍大臣の管下にあった海軍参謀部を廃止して、海軍軍令部を設け、中牟田倉之助が軍令部長についた。
ところが、朝鮮で東学党の乱による日清間の交渉が日に日に険悪化し、戦争の危機が迫ると、西郷は山本の献策により有事の際は、海軍軍令部長は樺山資紀の外にないとして、既に予備役に編入され枢密院で休んでいた樺山を直ちにおとなしい中牟田にかえて、軍令部長の職につかせて、即日、連合艦隊の根拠地の佐世保に向わせた。
 
 
豪胆で猪突猛進型の樺山の作戦は大胆そのもので、わが海軍は全力を挙げてけて清国の北洋艦隊と会戦し、雌雄を一挙に決するーとして、佐世保に赴くと、先づ艦隊の将士の士気を鼓舞するために大号令を発した。
連合艦隊司令長官 伊東祐亨を激励して「白旗を棄てて決死の覚悟を以て臨め」と訓示した。
 
   (写真は樺山資紀)
七月二十三日にわが艦隊が佐世保を出港する際には、「高砂丸」にのって港外まで見送りに信号を高くあげ「帝国海軍の名誉を揚げよ」と発した。
第一遊撃隊司令官 坪井航三は「正に揚ぐ」聯合艦隊司令長官伊東祐亨は「確かに揚ぐ」西海艦隊司令長官 相浦紀道は「凱旋を待て」と応答した。
我艦隊の将士たちはこのやりとりをみて感激のあまり泣いた。
 
こうして七月二十五日の豊島の初戦はわが艦隊の大勝利となり、士気大いに上がったが、樺山はまだ心元ないとおもったのか、自から小鑑「「西京丸」に乗って大同江口にあるわが艦隊の根拠地に向い、九月十七日の鴨緑江沖の海戦に参加したという
、後方にいて全体を指揮すべき軍令部長がまるで無茶である。
 
樺山の西京丸は敵の巨艦「定遠」、『鎮速』に追跡せられて苦戦し、敵の水雷艇「副龍」のために至近距離から二回まで魚雷を発射されたが、何とかかわして当たらす、九死一生を得てようやく危地を脱した、というからスゴイ。
 
樺山は東洋一の巨艦「定遠」、「鎮遠」(七〇〇〇千トン)の追跡を受けた時も、敵電艇から魚雷を放射されて万事休すかという時も、泰然自若としていたというから命知らずの指揮官。猛将のもとに弱卒なしで、大国清をやぶったのである。
海軍軍令部長の重職にあって、みずから砲煙弾雨の間に馳せ参じたのは古今東西、樺山だけであろう。鴨緑江外の戦闘における西京丸の勇敢さはわが国の海戦史上に特質すべきものである。
 
鴨緑江の海戦後、敵の海軍は全く屏息し、海上権はわが手の内に帰し、戦局はますます有利にすすみ、翌二十八年二月には丁汝昌は自殺、日本の勝利に帰した。

日清戦争では西郷従道も大本営にあり、権兵衛もその剛腕を発揮し、連合艦隊が佐世保を出発するに際して「もし、清国艦隊に遭遇すれば猶予なく発砲して戦端を開け」と訓示した。また、西郷が征清大総督、川上操六に陪して渡海しようとすると、
 
「わが艦隊の主力が澎湖島方面にある今日、海軍大臣たるものが、号令をかけるのに不便なの地に動くべきではない」と中止させた。これまた西郷―山本の絶妙の信頼のコンビにして出来ることであった。
日清戦争前は世界の海軍中第12位だった日本海軍は、一躍第4位に躍進したのである。
 

 

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